2020/06/15~21(2011年含む)

     2011年6月15日。


 震災から3ヶ月が過ぎていた。


 N市八十三町は、東海地方にあり、震災の影響をほとんど受けることはなかったが、千のコスモの会は別の意味で大きく揺れていた。


 13人の使徒のうちのひとり、ヨハネ=榊峯秋が死んだのだ。

 ヨハネの黙示録の、あのヨハネだ。


 彼らが本当に2000年にわたって生き続け、この国の歴史を裏で操ってきたのかどうかは、正直なところ怪しいものではあったが、聖人から不老長寿の肉体を与えられた13人の使徒たちの中で、ヨハネは最初に天寿を全うした使徒であった。

その死は、他の使徒たちに、大きな影響を与えた。


 ひとつは、聖人によって与えられた不老長寿の寿命が2000年ほどのものでしかなく、次に死ぬのは自分ではないのか? という、彼らが久しく忘れていた死への恐怖が彼らの中に再び生まれたことであった。


 そして、もうひとつは、ヨハネの死により使徒は十三人でなくなってしまい、その欠番を埋めるのは誰か、という問題であった。


 ヨハネ=榊峯秋は、第一使徒であり、聖人がこの地を去った後、千のコスモの会は13人の使徒が対等の立場の幹部という形をとってはいたものの、実質的には第一使徒である彼が教祖と言っても過言ではないポジションであった。


 そのため、かつてイスカリオテのユダが銀貨数枚のために聖人を裏切り、その欠番をマッテヤ=棗弘幸がうめたように、欠番となった第一使徒に誰がなるのか、教団は大きく揺れていた。


 別の使徒が第一使徒になるのか、あるいはかつてのマッテヤがそうであったようにヨハネの弟子がその空席を埋めるのか。


 ヨハネの弟子には、奇妙な男がいた。


 かつてインドを目指したコロンブスが偶然発見したアメリカ大陸に先住民族がいたように、日本には先住民族とされる山人(さんじん)と呼ばれる存在がおり、その存在自体が千のコスモの会によりなかったことにされていたが、よりによってヨハネはその末裔のヤマヒトという男を弟子とし、寵愛していた。


 ヨハネによればヤマヒトは、旧約聖書における人類最初の殺人者である弟殺しのカインの生まれ変わりであるという。


 カインは、108回の輪廻転生と109回の主への裏切りをその魂に刻まれ、その後イスカリオテのユダとして転生し聖人を裏切ったのだという。

 その後も、輪廻転生と主への裏切りを繰り返し、源頼朝であったこともあれば、明智光秀でもあったという。


「いくらヨハネが寵愛した者とはいえ、カインやユダの生まれ変わりだとされる者を第一使徒にするわけにはいかぬだろう」


「いや、神はカインによるアベルの殺害を見越していらっしゃったはず……

 殺人とその隠蔽は良くないことであると後の世の者たちに伝えるべく、あえてアベルを殺させるよう仕向け、カインは神の書いたシナリオ通りに、神の手のひらの上で踊らされたに過ぎない」


「イスカリオテのユダも、本当に裏切り者であったのかどうか怪しいものだ。聖人は、最後の晩餐の最中、この中に裏切り者がいる、と予言したが、我々の中に裏切り者などいなかった。あれは、聖人による我々への最後の試験だったのではないか?

 誰が一番聖人を愛していたかという……

 あの男こそ聖人を一番愛していた。だからこそその予言を現実のものとするため裏切ったに過ぎないのではないか?

 でなければ、たかが銀貨数枚のために聖人を裏切りなどしない」


「ヨハネの寵愛を受けた者なら、すでにマッテヤがいるではないか。彼を第十三使徒から、第一使徒に繰り上げれば良い」


「マッテヤは、榊ではなく棗だ。我々とは役割が違う。我々がこの国とこの国の民を正しく導き、」


「そして、ぼくが君たちの尻拭いをする。そういう役割だ。だが、汚れ役はそろそろ勘弁願いたいな。ぼくにも愛する妻と娘たちがいるのでね」


「ほう……棗が榊の長となるつもりか。榊の長となって君は何をするつもりだ?」


「この小さな島国の歴史を裏で操ることに、なんの意味もないことなど皆とうに気づいているはずだ。私は世界を動かす。この2000年、君たちの尻拭いをしながら世界を見てきたが、聖人がなぜ我々に新たな教えを説き、不老長寿の肉体を与え、そして我々の前から姿を消したか、君たちは理解しているのか?」


「まるで君だけが理解しているとでも言いたげだな。ご教授願いたいものだよ」


「我々は、とうの昔に見限られたのだよ、聖人にも神にもね。

 本来ならもっと早く、ヨハネやヤマヒトとともに実行に移すべきであった。

 しかし、私には長年巫女として相応しい存在を見出だすことができなかった。

 しかし、私と麻衣ならば、そして、ゆりかとももかがいれば、聖人が我々に新たに説いた教えの本来の意味を実行に移せる」


「一体何をするつもりだ?」


「聖人が我々に与えた不老長寿の肉体……

 この中に、我々の肉体が、大洪水以前と以降で、人の寿命が千年から百年にまで縮められたことに関係していることを気づいた者はいるか?

 私はこの肉体を得てすぐに気づいたぞ。これは大洪水以前の人の肉体だとね。

 そして、私はこの国で現在最も優れた才能を持つ研究者に、この体を調べさせた。

 まもなくその研究者は論文を発表する。千年細胞という大洪水以前の人が持っていた細胞についてのね」


「そんなものを発表されては困るな」


「では、君がそれを握りつぶせばいい。その瞬間から君は榊ではなくなり、棗となる。

 私は榊の長として、聖人の古き教えと、同じ神を信じながらも、異なる聖人を信じるがゆえに未来永劫争い続けるであろう人類を粛清する。

 そして、聖人の新たな教えの通り、神にすがる時代を終わらせ、人類を新たなステージへと導く。

 私自ら方舟となろう」




 棗弘幸は危険だ。


 ぼくの直感が、正しいか正しくないか、それは今考えるべきことじゃない。

 もはや、彼を止めることができる者は、教団の中にはいない。


 ぼくは、宮沢 航。19歳。


 出家した母に連れられ、完全に教団と棗弘幸に洗脳されていく母を見て育った。

 母は非常に良い反面教師で、おかげでぼくは母のように洗脳されることもなければ、教団の教えも神の存在も信じずに生きてこられた。


 ぼくは、ただぼくの大切な人を守りたい。

 母はもうどうにもならない。

 でも、ぼくには大切な人がこの教団にふたりいた。


 ゆりかと、ももかだ。


 ふたりとも、ぼくの大切な妹だ。

 たとえ血の繋がりはなくとも。


 ぼくは今日、妹を誘拐する。




     2020年6月16日、火曜日。


「ゆりかじゃなくて、ももかを誘拐して本当に良かったと思うよ」


 と、お兄ちゃんは言った。

 ももかが見たこともない冷たい顔で。


 お兄ちゃん……? どういうこと?



 お兄ちゃんは、次の日も開店から閉店まで仕事だというのに、お兄ちゃんが知る、ももかと、ゆりかお姉ちゃん、ももかの本当のパパとママの話を朝までしてくれた。



「棗弘幸のあのときの言葉通り、数年後理研の広告塔として割烹着を着せられていたひとりの天才女性科学者が、千年細胞の発見と論文を発表した」


 それって、あの小久保晴美さんのことだよね?

 そういえば、あの頃のお兄ちゃん、小久保晴美さんがテレビに出てると食い入るように見てたよね。


「そうだったな……おかげで、何にも知らないももかがやきもちをやいて、口も聞いてくれなくて大変だったよ」


 だってお兄ちゃん、何も教えてくれなかったもん。


「ごめんな。あの頃は、まだ言えなかったんだ。

でも、小久保晴美がそのあとどうなったか覚えてるか?」


 覚えてた。でも、あの頃のももかは本当にやきもちをやいていたから、小久保晴美さんに対してざまーみろみたいな気持ちだった。最低だ、ももか。


「しかたないさ。話さなかったぼくが悪い。

 ももかの知っている情報に補足をする形になるけど、小久保晴美が棗弘幸、つまりももかの父親に利用されて、発表した千年細胞の論文は、新たな棗によって握りつぶされた。

 それは同時に棗弘幸が、榊の長になったことを意味していた」


 だから、ももかの本当のママとゆりかお姉ちゃんは、苗字が棗じゃなくて榊なんだね。

 ……ねぇ、どうしてお兄ちゃんはももかだけを誘拐したの?


 誘拐っていうよりは助け出してもらったという方が正しい表現だったかもしれない。


「ゆりかが、ももかだけは助けてくれって言ったんだ」


 お姉ちゃんが?


『航さんのことを、ゆりかは本当のお兄さんのように思っています。でも、ゆりかは行けません。ゆりかは、お母様に代わり、巫女として、お父様をお母様と共に支えていかなければなりません。でも、それは、ゆりかだけで十分です。ももかには普通の暮らしをさせてあげてほしいんです。航さん、ももかのことをよろしくお願いします』


 お兄ちゃんは、お姉ちゃんの意思が固いことを知って、 ももかだけを教団から連れ出した。



『航さん、ううん、お兄ちゃんは、ゆりかの初恋の人です。これから先、一生お会いすることがなかったとしても、ゆりかは一生お兄ちゃんのことが好きです。愛しています。ゆりかがもう少し大人だったら、普通の女の子だったら、お兄ちゃんと結婚したかった。お兄ちゃんの赤ちゃんを産みたかった』


 これは、このときお兄ちゃんがももかに話してくれなかった、お姉ちゃんとお兄ちゃんのお別れの言葉。



『ゆりか、ぼくも、ゆりかのことがずっと好きだった。ずっと一緒にいたかった。いられると思ってた。だから、伝えるのがこんなときになっちゃってごめん』


 いつか、必ず、迎えに行く。


 来ちゃだめです。ゆりかのことはもう忘れてください。ゆりかは、ももかとお兄ちゃんが幸せでいてくれたらそれでいいから。


 そんな悲しい顔でそんなこと言われて、はい、わかった、なんてならないから。


 ゆりかは、何年かしたら、お父様のお手伝いをして、何十億もの人々の命を奪うことになります。そんなゆりかが、お兄ちゃんやももかといっしょに笑ってくらすなんてことは許されません。


 世界中がゆりかの敵になっても、ぼくだけはゆりかの味方だ。


 信じちゃいますよ?迎えに来てくれるのをずっと待ってしまいますよ?


 必ず迎えに来る。約束する。


 じゃあ、それまでゆりかがくじけたりしないように、おまじないをかけてください。


 おまじない?


 お兄ちゃん……キスして……




 ももかですけど、別にやきもちなんてやいてませんよーっと。



「それからさらに数年後の今年、棗弘幸の言葉が現実のものとなったのは、ももかも知っている通りだ。ぼくは、ゆりかを助けることができなかった」


 じゃあ、助けにいこ?



 ももかが、そう言うとお兄ちゃんは、笑った。

 悲しそうな顔で、すべてを諦めているかのような顔だった。




     2020年6月17日、水曜日。


 お兄ちゃんが仕事に行っている間、ももかはこれまでに得た情報を一度まとめてみることにした。


 20年前に起きた富良野市女子中学生誘拐事件。


 誘拐された加藤麻衣と、彼女を誘拐した棗弘幸の間にはふたりのこどもが生まれた。


 ももかは、その二人目のこどもだった。



 棗弘幸と加藤麻衣の現在の名前は、榊弘幸と榊麻衣。


 榊弘幸は、N市八十三町を総本山とする千のコスモの会の実質的な教祖。


 正確には、十三人で構成される使徒という幹部の中のひとりで、彼はその第一使徒にあたり、妻の麻衣は第一使徒夫人になる。


 ももかのお姉ちゃん、榊ゆりかは第一使徒巫女。

 ももかにそっくりな千のコスモの会の巫女の女の子は、お姉ちゃんだった。



 お兄ちゃんがまだ幼い頃、お兄ちゃんのお父さんとお母さんは離婚して、お母さんはお兄ちゃんといっしょに千のコスモの会に出家した。


 お兄ちゃんのお母さんは、当時は榊でも加藤でもなく、棗という姓だったももかのママ、麻衣の世話係をしていた。

 棗麻衣というよりは、生まれたばかりのゆりかお姉ちゃんだったり、そのあとに生まれたももかのお世話が、お兄ちゃんのお母さんが実際にしていたことなんだろうけど。


 だから、 ももかはよく覚えてないけど、というより、まったく記憶にないのだけれど、ゆりかお姉ちゃんとももかは、お兄ちゃんと過ごす時間が多くて、三人は本当の兄妹のようだった、みたい。


 でも、三人で過ごす楽しい時間は、長くは続かなかった。


 9年前、仙台の方で大震災があった年、千のコスモの会は、震災とはまったく関係ない場所で、混乱の中にあった。


 当時の第一使徒だった榊峯秋に、突然の死が訪れたからだった。


 十三人の使徒は同列であり、上下関係はなかった。けれど、それは建前でしかなく、第一使徒は実質的な教祖だった。


 教団内では、誰がその教祖の空席を埋めるのかという、これはあくまでももかの想像だけど、きっと白い巨塔の教授選のような、派閥争いや足の引っ張りあい、そんな感じのことが起きていたんじゃないかな。


 結果として、第十三使徒であった棗弘幸が第一使徒になるのだけれど、お兄ちゃんはその混乱に乗じて、ももかとゆりかお姉ちゃんを教団から連れ去ろうとした。


 だけど、ゆりかお姉ちゃんは、お兄ちゃんの誘いを断り、ももかだけをお兄ちゃんに託した。

 ゆりかお姉ちゃんは、第一使徒の巫女として生きることを受け入れていて、それは自分だけで十分だと考えていた。

 自分だけお兄ちゃんと逃げて、ももかにその使命を押し付けることもできたはずなのに。

 三人で逃げることだって、きっとできた。


 そして、ももかはお兄ちゃんに誘拐された。



 ここまでが、今ももかがわかっているすべて。


 わからなかったことがひとつわかると、同時にまたわからないことが出てくる。


 ももかの本当のパパとママのこともわかった。

 じゃあ、これまでももかがパパだと思っていた、佐久間弘幸は誰?


 こんな感じ。


 お兄ちゃんのお母さんもそう。

 佐久間弘幸の妻、佐久間霧子さんと、千のコスモの会に出家したお兄ちゃんのお母さんはたぶん違う人、だよね?


 榊麻衣(加藤麻衣)の兄であり、つまりももかの叔父さんである加藤学を名乗り、ももかを誘拐した人は、加藤学ではなかった。

 加藤学は、20年前の誘拐事件の際にすでに死亡していた。

 あの人が本当は誰だったのか、あの人を洗脳して自分が加藤学だと思い込ませたのが誰かまでかはわからないまま。


 お兄ちゃんは、たぶん、佐久間弘幸と佐久間霧子のことはわかる。


 でも、それ以外のことは……

 ゆりかお姉ちゃんならわかるのかな?


 お兄ちゃんはどうして昨日、ゆりかお姉ちゃんを迎えに行こうと言ったももかに、そうだねって言いながら悲しい顔をしたんだろう。


 わからないことばかり増えていく。


 みんな、同じ世界に住んでいても見ている世界が違うから。




     2020年6月18日、木曜日。


 加藤学さん(を名乗っていた誰か)は、ももかにひとつの不安を植え付けていった。


 先週の金曜日が、世界最後の金曜日だったんじゃないかという不安。

 明日は来ないんじゃないかという不安。


 テレビは、9年前の震災のときのように、画面左と下にニュースが表示されるようになり、番組自体は一回り小さく表示されていた。

 一日中パンデミックと世界中の戦争の情報が次々と更新されていく。

 昨日までに、100以上の国が滅んでいた。

 画面右下には、推定世界人口が表示されていて、今朝その数字は10億人を切った。


 ゆりかお姉ちゃんは、宗教家 榊ゆりかとして、今日もコメンテーターとしてテレビに出ていた。


「国立デュルケーム研究所が発表したカーズウィルスについての報告書に、興味深い記述がありました。

 カーズウィルスは人類を間引く一方で、感染から発症までの潜伏期間に、体内で抗体を作ることができさえすれば、細胞レベルでウィルスとの融合が可能となるそうです。

 不老長寿と、あらゆる病をうけつけない強靭な肉体を手にいれることが可能となると書かれています。つまりは、世界規模のパンデミックは、人類の進化を促すものだったということになります。

 その細胞は、かつて小久保晴美女史が発見し発表した千年細胞と同一のものである、と」


 ゆりかお姉ちゃんは、かわいすぎる広告塔、とか言われているみたい。

 千のコスモの会の信者は、ゆりかお姉ちゃんの影響でこの数日で十万人以上増えたらしい。


「かつて、この国の権力者によって、葬られた千年細胞は確かに存在していたのです。本日は、千年細胞の発見者である、小久保晴美女史にお越し頂いております」



 ももかは、お兄ちゃんが仕事に出かけると、一度ひとりで実家に帰ってみることにした。


 学さんは、ももかとお兄ちゃんの実家には佐久間弘幸も佐久間霧子もいなかったと言っていた。

 でもももかなら、何か手がかりを見つけられるような気がしたから。

 お仕事で疲れているお兄ちゃんには、あんまり頼れない。明日も仕事だし。

 ももかがひとりでできることは、なるべくひとりでやらなきゃ。


 お兄ちゃんが仕事でM市山手町に来て丸三年。

 お兄ちゃんのお店は年中無休で、週に二日ある平日のお休みも、会社の都合によってつぶれることが多く、その代わりの休みももらえない。

 ももかを連れて実家に帰る予定を立てていても、帰れなくなることが多くて、いつのまにか帰省の予定を立てなくなっていた。

 お盆や正月は繁忙期になるから、帰るとしたら閑散期に入ってから。年に二、三回帰れるかどうかだった。

 パンデミックがはじまってからは、一度も帰省していない。


 実家までは車だと下道で二時間くらい。

 電車だと、今のお兄ちゃんとももかのおうちから最寄り駅まで歩いて15分、実家の最寄り駅まで電車を二回か三回乗り換えて二時間くらい。そこから実家までは歩いて30分くらいかな。


 最寄り駅のM駅の切符売り場で、ももかは路線図を見上げて、路線図で迷子になった。

 乗り換えはするけれど、JRだけで実家の最寄り駅まで行けたはず……

 でも、ももかはその駅がどこなのか、なんていう名前の駅なのか、思い出せなかった。

 何県なのか、何市なのか、そもそも、市なのか町なのか村なのかさえ、ももかにはわからなかった。


 どうして……?

 過去にももかは何度かひとりで帰省したこともあった。

 そのときは確か、スマホに乗り換えアプリを入れていて……


 乗り換えアプリはインストールされていたけど、検索履歴に実家の最寄り駅らしきものはなかった。


 一時間くらい、切符売り場で路線図を見上げたり、スマホの乗り換えアプリ以外の、Googleの検索履歴とか、パパやお母さんの電話帳に住所を入れてなかったかなとか、そんなことをしていたら、駅員さんが不審そうに声をかけてきた。


 ごめんなさい、ももかは実家に帰りたいだけなんですけど、実家がどこにあったのかわからなくて……


 ももかはいつの間にか泣いていた。

 逃げるようにして、駅を出て、お兄ちゃんとももかのおうちに、泣きながら走って帰った。




     2020年6月19日、金曜日。


 昨日、ももかは、ひとりで実家に帰ろうとして、実家がどこにあるのかが、わからなくなった。


 泣きながら家に帰って、1Kの狭い部屋のどこかに、たとえばお兄ちゃんがまだM市に住民票を移す前、この部屋を借りたときの契約書だとか、お兄ちゃんが今の会社に勤め始めたとき会社と交わした契約書とか、実家の住所がわかるものを探した。


 大切な書類を入れているクリアファイルは、最新のものしかなくて、実家の住所がわかるものは何もなかった。


 それ以外の場所、ロフトの中とか、洋服ダンスの中とか、全部ひっくり返して、部屋中足の踏み場もないくらいになるまで、探したけれど見つからなかった。


 それを片付けている途中で、お兄ちゃんが実家にいる頃から使っていたアマゾンや楽天なら、登録されている住所とか、配達履歴とかを見ればわかるかもしれないと気づいた。


 ももかも月に一万円までなら買い物をしていいと言われていたし、アマゾンプライムビデオも無料のものならいくらでも観ていいと言われていたから、IDとパスワードを入力しなくてもサイトを開くだけでログインできた。


 でも、実家の住所はどこにもなかった。


 本当に、どこにもなかったんだ。


 ももかは家に帰ってきたときに一度止まった涙がまた溢れだしてきて、お兄ちゃんがお仕事から帰ってきたときには、泣きつかれて眠ってしまっていたみたい。


 今日、ももかが目を覚ましたら、もうお昼をとっくに過ぎていて、お兄ちゃんはお仕事に出かけてしまっていた。


 コンビニで買ったお弁当が半分くらい残ったまま、テーブルに置かれていた。

 ももかが晩御飯を用意してなかったから、ももかが寝ていたから、お兄ちゃんは仕事で疲れているのに、わざわざコンビニまでお弁当を買いに行って、夜食べきれなかっただけじゃなく、朝も食欲がなくて食べられなかったんだ。

 部屋も足の踏み場もないくらいにちらかったままで、お洗濯もしてなくて、ももかはお兄ちゃんに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。


 申し訳ない気持ちになると同時に、お兄ちゃんが怖くなった。


 お兄ちゃんが話してくれたことは、全部本当のことなのかな……


 ももかを誘拐したこと以外、全部嘘なんじゃないのかな……


 自分のことを加藤学さんだと思い込まされていたあの人みたいに、ももかも長い時間をかけて、存在しないパパやお母さんの記憶をお兄ちゃんに刷り込まれていただけなのかもしれない。


 ももかには、本当のママの記憶も、今日もテレビに出ているゆりかお姉ちゃんの記憶も、まだ千のコスモの会にいた頃の、お兄ちゃんとゆりかお姉ちゃんとももかが三人で遊んだ記憶も何もない。


 あるのは、5歳から今までの記憶だけ。


 でもそのうちの六年間を過ごしたはずの実家の場所が、ももかには思い出せない。

 パパの顔も、お母さんの顔も、ぼんやりとしか思い出せなかった。


 ももかの記憶ではっきりしているのは、M市山手町に引っ越してきてからの三年間だけ。


 大好きで大好きで仕方がなかったお兄ちゃんが、今は怖くて怖くて仕方がなかった。


 パソコンは、昨日ももかが開いたアマゾンのページのままで、ももかは作家をしているはずのパパ、佐久間弘幸の名前で検索した。

 そこには、確かにパパがいた。

 パパが書いた小説や、原作を手掛けた漫画、それらを映画化したDVD、パパの名前でたくさんの作品が出てきた。


 けれど、そのどれもが、2017年までに発売されたもので、この三年間に出た新刊は発売日の新しい順に並び替えても出てこなかった。


 ももかは、Wikipediaでパパのことを調べてみることにした。


 そこには、パパのことを、その著作や作風、受賞歴だけでなく、雑誌とかのインタビューを参考にどんな子供時代をすごし、どうして作家になったのかまで事細かに書かれていた。


 そして、パパの人生は、こんな文章によって締め括られていた。



 2017年5月26日、死去。

 自宅にて、妻・霧子、長男・航、長女・ももかと共に、惨殺遺体が発見される。

 佐久間一家殺人事件と呼称されるこの事件は、2020年現在未解決である。



 パパやお母さんだけじゃなくて、お兄ちゃんもももかも、もうこの世にはいない人だった。




     2020年6月20日、土曜日。


お兄ちゃんのうそつき。




     2020年6月21日、日曜日。


 大好きだったお兄ちゃんがこわい。

 怖くて怖くてたまらない。

 優しい笑顔も、今は不気味に見える。


 朝目が覚めると、お兄ちゃんの好きな仮面ライダーがテレビで流れてた。

 でも、お兄ちゃんはテレビの前にはいなくて、お風呂の方で、シャワーの音が聞こえていた。


 令和最初の仮面ライダーは、パンデミックのせいで撮影ができなくなっていた。

 5月から何週間か総集編を放送したあとも撮影ができなくて、変身前のドラマパート(っていうのかな?)は、過去に撮影した映像を繋ぎあわせたり合成したりして、台詞だけをアフレコで入れ換えたりしていた。戦闘シーンもCGばかりになっていた。


 ももかは、ベッドの上で体育座りをして、お布団にくるまって、ぼんやりと仮面ライダーを観ていた。


「ひどいだろ? 脚本家やシリーズ構成の人や、監督やプロデューサー、皆が令和最初の仮面ライダーだからってすごい気合いを入れて作ってたのに、パンデミックのせいでやろうとしてたこと、やりたかったこと、全部出来なくなったみたいだ。

 ネットには、バカのひとつ覚えみたいに、おのれディケイドとか、貴様のせいでゼロワンの世界も破壊されてしまったとかそんなことばっかり書かれてる」


 ディケイドは、お兄ちゃんが一番好きな仮面ライダーで、作中で世界の破壊者だと言われていたライダーだ。


「おもちゃの販売スケジュールとか、とっくに決まってるから、いまさらどうにかすることもできなくて、9月か10月までは途中では終わらせられない。平成や昭和のライダーがまた出てくるような話になっていくのかもな」


 お兄ちゃんが用意してくれた朝ごはんは味がしなかった。


 お兄ちゃんは出かける支度をすると、お仕事に行ってくるね、と言ってももかの頭を撫でた。

 鳥肌がたった。ゾッとした。

 手が伸びてきた瞬間、殺されるんじゃないかと思った。犯されるんじゃないかと思った。


 お兄ちゃんは嘘をついている。


 お兄ちゃんはももかを騙している。


 幼いももかを千のコスモの会から連れ出してくれたのはたぶん本当のこと。


 でも、たぶん、そのときももかは、ゆりかお姉ちゃんやママと離ればなれになったこととか、日に日に変わっていくパパとか、もしかしたらゆりかお姉ちゃんやママもそうだったのかもしれない、変わっていったのかもしれない、いろんなことで心がすりきれそうになっていたのだと思う。


 お兄ちゃんは、きっと洗脳や催眠術のようなもので、そんなももかの記憶を簡単には思い出せないように封印した。


 たぶん、それから六年くらい、ももかは精神的に不安定で、偽りの家族の記憶を刷り込まれたのだと思う。


 ももかがパパだと思っていた人はいなかった。

 だからパパのこと、あんまり思い出せないんだ。

 お兄ちゃんのお母さんのこともそう。


 ももかには、もう信じられる人がいない。

 お兄ちゃんしかいなかったのに。


 お兄ちゃんのことが信じられない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る