2020/06/08~14
2020年6月8日、月曜日。
学さんの運転するミライースが、M市山手町にある「くらやみ坂」に着いたのは、6/8の月曜の朝のことだった。
くらやみ坂は、お兄ちゃんとももかの住むマンションのすぐ近くにある、その名前の通り、街灯ひとつない、夜になると真っ暗闇になる坂で、日本中にいくつかある、黄泉(よみ)の国へと続く坂、黄泉比良坂(よもつひらさか)のひとつに数えられていた。
待ち合わせ場所に、くらやみ坂を指定したのは、お兄ちゃんだった。
「死者と待ち合わせをするのに、ちょうどいい場所だろ」
学さんに返してもらったスマホで、久しぶりに話すお兄ちゃんは、ももかにそう言った。
死者? と、待ち合わせ?
お兄ちゃんは相変わらずおかしなことを言うなと思った。
学さんは、あれから何時間も泣いた。
悲しいというよりかは、悔しいという気持ちから涌き出る涙だった。
自分がこの世界で最も憎く、殺してやりたいとさえ思っている人間の気まぐれやお情け、慈悲によって生かされていることを、学さんは20年もの間ずっと堪え忍んできたのだ。
ももかも、つられて泣いてしまった。
お兄ちゃんの声を久しぶりに聞いて、ももかはお兄ちゃんに彼女がいたことを、それもももかが絶対に選んでほしくない女の人を選んでいたことを思い出してしまったから。
泣き疲れて眠ってしまった学さんは、両足で腕をはさんで、まるでお母さんのお腹の中の赤ちゃんみたいだった。
ももかは、頭の中がぐちゃぐちゃで、眠れそうになくて、叔父さんである学さんの頭をずっと撫でていた。
はじめて知った自分の出生の秘密や、加藤麻衣さんという、ももかの本当のママのこと、パパが誘拐犯だったこと……
いろいろな情報を頭は少しずつ整理して理解しようとしているのに、頭がせっかく整理をした情報を、心が小さなこどもがおもちゃ箱をひっくり返すようにしてまたぐちゃぐちゃにしてしまう……それの繰り返し。
頭、というか脳と、心は別物なんだってことを、ももかははじめて知りました。
待ち合わせ場所のくらやみ坂で、お兄ちゃんは学さんとももかがやってくるのを待っていた。
「お兄ちゃん……久しぶり……あの、その、ごめんなさい……ももかね……」
ももかは、お兄ちゃんの顔を見ることが出来なかった。
見たら、また泣いてしまいそうな気がして怖かった。
「……無事でよかったよ」
お兄ちゃんも、ももかの顔を見ずにそれだけ言うと、
「俺は佐久間弘幸の居場所のナビ役なんだろ? だったら助手席だな。ももかは後ろ」
助手席のももかをだきかかえると、後部座席に座らせた。
ももかが小さい頃から、お兄ちゃんはももかに触れるとき、大切な宝物のように、それも、すぐに壊れてしまうもののように、大切に大切に扱う。
それは変わらないのに、口調は刺々しくて荒々しくて、ひどく怒っているのがわかった。
自分のことを「ぼく」ではなく「俺」と表現するときは、普段穏やかなお兄ちゃんがこれ以上ないくらい怒っているときだった。
お兄ちゃんは、自分が人にどれだけ馬鹿にされたりしても、怒ったりはしない。
お兄ちゃんが怒るのは、ももかに何かあったときだけ。
「あんたが、ももかの叔父だろうがなんだろうが、俺があんたに協力するのはこれが最初で最後だ」
「それで構わない。ぼくはぼくの目的さえ達成できればそれでいい」
「あんたの目的はどうでもいい。達成出来たとしても、出来なかったとしても、ももかには二度と近づかせない」
「近づいたら?」
「殺す。それ以上無駄口を叩くな。最初の目的地は、滋賀だ。琵琶湖の近くに佐久間弘幸の別荘のひとつがある」
お兄ちゃんにそう言われた学さんは滋賀県に向かって車を走らせた。
一時間か、二時間か、車中は誰も口を開くことはなく、カーナビの機械のような女の人の声だけがしていた。
沈黙に耐えきれず、というわけではけっしてなく、
「これは、俺の独り言だから、ももかはともかく、あんたは口をはさむなよ」
お兄ちゃんは、そう前置きをして、「独り言」をはじめた。
2020年6月9日、火曜日。
お兄ちゃんの「独り言」がはじまる前に、ももかが最初にお兄ちゃんの代わりに書いておきます。
これは、あくまで、ももかのお兄ちゃんの見解であり「独り言」で、学さんの認識や、まだ誰も知らない真実とは、だいぶかけ離れたものです。
「ももかの母親の、その加藤麻衣って女が、あんたの言う佐久間弘幸、つまりはももかの父親である、旧姓 棗弘幸に誘拐されたのが20年前だったな。
あんたがどれくらい、その加藤麻衣や棗弘幸と行動を共にしていたかは知らないが、ふたりは五年も六年も逃亡劇を続けていたのか?」
どういう意味だろう?
お兄ちゃんは、目の下に大きなくまができていた。
ゆうべ、ももかがお兄ちゃんに電話をしたのは、お兄ちゃんの仕事が終わる頃だった。
ももかは電話で、学さんのこと、ももかのパパのこと、ももかの本当のママだという加藤麻衣さんのことなど、大体の話はしていた。
きっとお兄ちゃんは、朝まで20年前の事件や、そのさらに前の事件、そのもっと前の事件について調べたんだと思う。
「ももかは本当に、棗弘幸と加藤麻衣のこどもなのかって話だよ。
ももか、お前、今年でいくつになる?」
15だよ。
「計算が合わないと思わないか?」
計算?
「確かに、棗弘幸と加藤麻衣のふたりは、数年間行方がわからなかったようだし、ずっと行動を共にしていた可能性はある。
ずっと行動を共にしていなくても、月に一度か、年に数回会っていたとしたら、五年後六年後に加藤麻衣がももかを産んだ可能性もある。
だが、加藤麻衣が棗弘幸の子どもを妊娠したのが、事件直後だったとしたら?」
ももかは、19歳か二十歳……
「そう、でも、ももかは14歳だ。
加藤学さん、あんたは他人の空似で人違いをしているんじゃないか?」
お兄ちゃんは、パソコンのプリンターで印刷した一枚の画像を、学さんとももかに見せた。
「これ、現在の加藤麻衣の姿だとされている、千のコスモの会の巫女の写真だ。ひどい格好だな。小林幸子もびっくりだろ」
小林幸子さんは、もう何年も紅白で大がかりな衣装を着ていなかったような気がするけど。
そもそも出ていたっけ?
「この現在の加藤麻衣とされる巫女さんは、確かにももかにそっくりだし、事件当時の加藤麻衣に瓜二つだ。
だが、加藤麻衣は現在34歳、いくら童顔でも、ももかと同い年くらいに見えるなんておかしいと思わないか?」
画像加工で、それくらいいくらでもできるんじゃないのかな。
今はパソコンでPhotoshopとかillustratorとか使わなくても、スマホの画像加工アプリでどうにでもできちゃうし。
「確かにな。だが、フィルムで撮った写真と違って、こういうデジカメやスマホで撮った画像っていうのは、ただの写真だけのデータじゃないことは知ってるか?
撮影された日時や場所がデータの中に含まれていることもあるし、加工されたものかどうかも調べようと思えばできる。
おまけに、加工されたものなら、専用のソフトやアプリを使って、加工前の状態に戻すことも不可能じゃない」
知らなかった……それで、その画像は?
「結論をそうあんまり急ぐなって。
撮影日時は、2019年4月30日15時24分。平成の最後の日だ。
場所は、N市八十三(やとみ)町。
どうやらこの日、二万人を越える町民の九分九厘が千のコスモの会の信者であるN市八十三町では、町全体で令和という新たな時代を迎える儀式を行っていたらしい。
この日に撮影され、インターネット上にアップロードされたこの巫女さんの画像は、千のコスモの会公式公認のものから、個人レベルでTwitterやInstagram、Facebook、mixi、その他会員制を含む様々なSNSにアップされたものまで含めると、1000枚以上あったが、どれも35歳を14,5歳にまで加工したものではなかった」
ももかのママじゃなかったってこと?
「結論を言えばな。
警察が使っている顔認証システムに限りなく近いレベルまで再現したソフトで、20年前の加藤麻衣の写真と同一人物かどうかを調べさせたところ、同一人物の可能性は36%だった。よくに似てはいるが、人の目はごまかせても、コンピューターはごまかせないらしい。顔の輪郭、眉の形、目の大きさ、色、鼻の高さ、口角、顔を構成するパーツの位置、そのすべてが、この巫女さんは加藤麻衣じゃないってさ」
「君は一体何者なんだ、、、」
「ただのゲームセンターの、店長見習いだよ。
あんたの妹は確かに、千のコスモの会にいる。いや、いた、というべきか。
事件の真っ只中にあった20年前の千のコスモの会のサイトのアーカイブには、加藤麻衣の名前はなかったが、19年前のアーカイブから数年間、巫女を務めていたことがわかった。
だが、10年前のアーカイブからは加藤麻衣という名前の巫女は消えていた。
でも、どう考えても、今巫女を務めているこの女こそ、加藤麻衣のこどもだろ。
巫女だった加藤麻衣の名前がアーカイブから消えると同時に、代わりに現れた名前がある。
榊ゆりかって名前だ。それがこの巫女さんで、榊は千のコスモの会の教祖の苗字だ。巫女から加藤麻衣の名前はなくなったが、より高いステージに、榊麻衣という名前が同時に登場している。
加藤学さんよ、あんたはこれが何を意味してるかわかるか?
ももかの父親、佐久間弘幸はな、生まれたときから佐久間弘幸なんだよ。棗弘幸なんて名前だったことは、一度もない。
俺は、佐久間 航(さくま わたる)。母親の名は、佐久間 霧子(さくま きりこ)。旧姓、宮沢航に、宮沢霧子だ。
あんたは他人の空似の人違いで、俺の大事な妹を誘拐したんだ」
学さんは、高速道路を120キロで走るミライースのブレーキを思いきり踏んだ。
すぐ後ろを走っていた車が、ミライースの急ブレーキに驚き、ハンドルを大きく切った。
その車は高速道路の壁に激突し、さらに後続する車両が次々と玉突き事故を起こした。
お兄ちゃんは、ももかが無事なのを確認すると、一瞬だけ安堵した表情を見せて、すぐに学さんを睨み付けた。
「加藤麻衣の兄、加藤学は、20年前の事件で恋人だった大塚恋子の死を目の当たりにし、加藤麻衣と棗弘幸のふたりの逃亡劇から脱落している。
その後、自殺未遂を繰り返すも死にきれず、最後には精神病院の隔離病棟で、昼食のスプーンを飲み込んで窒息死している。
なあ、加藤学さんよ。あんたは一体誰だ?」
2020年6月10日、水曜日。
昨日、滋賀県へと向かう高速道路で起きた玉突き事故は、世界各国の首都が核ミサイルによって壊滅したことに比べたら、あまりに小さな出来事で、テレビや新聞、ネットニュースに至るまで、その扱いはあまりに小さかった。
玉突き事故の原因となったミライースの運転手は逮捕され、その直後に警官が持っていた拳銃を奪い、自ら額を撃ち抜いて自殺した。
彼は、身元を証明する物が偽造免許証しかなく、指紋はすべて焼かれており、前科者かどうかすらわからなかったという。
歯の治療跡からも、身元を特定することができなかったそうだ。歯科医が抜歯したとは思えない方法で、歯は全部抜かれており、総入れ歯だったがその入れ歯もネット通販で購入できる安物の噛み合わせのあわない入れ歯だった。ミライースも盗難車だった。
ももかとお兄ちゃんは、警察が来る前に、玉突き事故の騒乱に紛れて、高速道路を下りた。
お兄ちゃんは、加藤学さんになりすました誰だかわからない人の行動を、どこまで読んでいたかわからないけれど、高速道路の上の事故現場からうまく逃げ出す方法をあらかじめ確保していた。
「まったく、あんなやつに騙されやがって」
お兄ちゃんはももかに言った。
「何もされてないだろうな」
何もって何を?
「それは、その……」
えっちなこと?
「……されてない?」
されてない。
ももかがそう答えると、お兄ちゃんはとても安心したようで、緊張でずっと張りつめていた糸が切れたように、地面に座り込んだ。
「ももか、お兄ちゃんのこと、好きか?」
わかんない、お兄ちゃん、浮気者だもん。
「なんだそれ」
お店で見たもん、アルバイトの女の子と手を繋いだり、キスしたりしてたもん。
「……そうか、見てたのか」
でも、許してあげる。
ちゃんと、あの女の人と別れてくれたから。
「帰ろう、ももか。ぼくたちの家に」
うん。
ももかとお兄ちゃんは、歩きだした。
これですべてが解決した、ももかもお兄ちゃんもそう思い込んでいた。
何一つ解決なんかしていなかったのに。
2020年6月11日、木曜日。
お兄ちゃんは、ももかや加藤学さんを名乗っていた人と、くらやみ坂で待ち合わせた日から有給休暇をとっていた。
「法律が変わって、去年から年に五日、有給を必ず取らなくちゃいけなくなったでしょう?
他店の店長や、あなた方幹部の皆さんは、形だけ有給を取ったことにして、実際には働いてるみたいですけど、ぼくはただの社員ですからとらせてもらいますよ。もっとも、店長だったとしても、有給はとりますけどね。会社ぐるみの違法行為に巻き込まれるのは、ごめんですから。
店が回らない? 知りませんよ。
責任? 責任は、社員がひとり数日有給をとるだけで店がまわらないような体制で二年間も会社を運営してきたあなた方にあるんじゃないですか?
取らせてもらえないなら、出るとこに出るだけです。
確か、ひとりにつき、30万円の罰金でしたっけ? 有給を取らせた方が安上がりでしたね」
ほとんど脅迫みたいな有給の取り方をしたみたい。
でも、お兄ちゃんは今日1日だけ、ももかとゆっくり過ごして、明日から仕事に行くという電話を上司の人にしていた。
ももかとお兄ちゃんのパパとお母さん、佐久間弘幸と佐久間霧子は行方不明のままだった。
加藤学さんの名前を名乗り、ももかを誘拐した人の正体もわからずじまい。
20年前に誘拐された加藤麻衣という人のことも。
そのこどもだと思われる、ももかにそっくりな榊ゆりかさんのことも。
何もかもわからないまま。
パパとお母さん、ふたりの携帯電話は、電源が切れているのかつながらず、電源が切れてしまった携帯電話は、GPS機能で追跡することもできない。
一体どうしたのだろう。
パパが棗弘幸さんて人じゃないなら、このタイミングで姿を消すのは、不自然だった。
何か事故にでも巻き込まれたのかな……でもそれなら一番にお兄ちゃんに連絡があるはず……
ねぇ、お兄ちゃん、加藤学さんは、本当に加藤学さんじゃなかったのかな?
「加藤学は20年前に死んでいたんだよ。当時はもうDNA鑑定もかなりの精度の技術だったはずから、仮に誰かを殺して代わりの死体を用意したとしても、加藤学の死体じゃないことはすぐにわかったはずだ」
でも、でもね、学さん、泣いてた。
自分が今生きてるのは、棗弘幸って人の気まぐれや、お情けや慈悲によって生かされているだけなのが悔しいって。
憎くて憎くて仕方なくて、殺したいほど憎い相手のおかげで自分が生きていることが、悔しくてたまらないって泣いてた。
「完全に、自分が加藤学だと思い込んでいたんだな。ももかの親父さんを、棗弘幸だと信じ込んでいたし」
そんなことってあるのかな。
「もしかしたら、誰かに洗脳されていたのかもしれない」
洗脳?
「人は弱っているとき、誰も手を差し伸べてくれず、孤独に苛まれ続けているとき、そんなときに助けてくれる人がいると、簡単にその人のすべてを信じこみ、一切疑うこともなく、その人の言うことがすべて正しいと思い込んで、言いなりになってしまう」
そう……なんだ……
人って弱いんだね
「あの男が誰だったかは、警察にもわからなかったようだから、もうぼくたちには知る術はないけど、あの男は長い時間をかけて、自分が自分であることを捨てさせられ、加藤学にさせられたんだと思う」
誰が、そんなひどいことを……
「一番可能性が高いのは棗弘幸だろうね。あるいは、加藤麻衣、いや今は榊麻衣か、もしかしたら榊ゆりかかもしれない。今手元にある情報で、そういうことをしそうなのは、その三人くらいだしね」
お兄ちゃんのお母さんはともかく、ももかのパパも無関係じゃないかもしれないよね。
「……かもしれない。ももかと榊母娘は、あまりによく似すぎている」
ももかはママを知らない。
写真を見せてもらったこともない。
生きているのか、死んでいるのかさえわからない。
「ももかの母親が誰なのか……あるいは誰だったのか……」
お兄ちゃんもどうやら同じことを考えてたみたい。
「それさえわかれば、ももかが20年前の事件と関係があるのか、ないのかはすぐにわかる」
でも、それを知るパパは行方不明で、パパにはこの世界にはもう、血の繋がった人はももか以外にはいないと聞いていた。
2020年6月12日、金曜日。
あれから、もう一週間もたつんだね。
先週の金曜日が、世界最後の金曜日かもしれない、とあの人は言っていたけれど、今週も金曜日はやってきてくれた。
でも、あの人と、あの人が見ていた世界にとっては、先週の金曜日が世界最後の金曜日だったんだよね。
あの人が生まれた日に、あの人が見ていた世界が生まれて、あの人が死んでしまったとき、あの人が見ていた世界は終末を迎えた。
世界は、いつも、いつだってそこにある。
158億年前から。
でも、あの人の世界はあの人の死と共に消えてなくなってしまった。
ももかの世界も、お兄ちゃんの世界も、それからも続いているけれど、いつかはももかといっしょに、お兄ちゃんといっしょになくなってしまう。
世界は、人だけじゃなくて、知的生命体がその存在を認識しなければ、存在してても存在してないのと同じ。
世界が、認識されることを望んだから、人や、遠い宇宙のどこかにきっといる宇宙人さんたちが生まれたんだと、ももかは思う。
あの人が認識していた世界と、ももかの認識している世界と、お兄ちゃんが認識している世界は、本来は同じものだけど、それぞれの世界の認識が違うから、別の世界だって言ってもおかしくないよね。
ももかが見ている色が、お兄ちゃんにも同じ色に見えているかどうかなんて、ももかにもお兄ちゃんにも誰にもわからない。
世界は、人の数だけ、存在している。
ほんの数ヶ月前、七十億以上あった世界は、今はもう20億にまで減ってしまっていた。
未知の新型ウィルス「カーズ」による世界規模のパンデミック。
それをしかけた某国への武力制裁として、世界中から発射された核ミサイルが、某国のハッキングによって歴史的宗教的に遺恨のある国同士の首都を破壊する結果に終わった。
世界中で戦争がはじまってしまっていた。
世界中で今この瞬間に、誰かが誰かを殺し、誰かに殺されている。
それはとても悲しいことだけれど、ももかにはどうすることもできない。
この国は近隣諸国とさまざまな歴史的な遺恨がありながらも、パンデミックには見舞われこそしたけれど、三度目の被爆も戦争になることもなかった。
核兵器を持たなかったから。
「原子力発電所があれば、核兵器はいつでも作れるんだけどね」
と、お兄ちゃんは言ってたけど。
だから、戦争はテレビの中の出来事でしかなく、お兄ちゃんは今日から仕事に戻った。
輸入に頼りきっていたものがますます手に入りづらくなったくらいで、世界がまだパンデミックだけに頭を悩ませていたころと、この国はあんまり変わっていない。
ももかも同じ。
誘拐されたももかから、お兄ちゃんの幼妻に戻った。
家事と料理と、合間のテレビ。
お兄ちゃんのお店には二度と行かない。
お兄ちゃんは優しいから、簡単に彼女とは別れないのは目に見えていた。
テレビからはワイドショーが流れていて、ももかはソファでスマホをいじりながら、うたた寝をしかけていた。
「某国は、4000年の歴史を誇る国家です。ただし、その4000年は、さまざまな国の滅亡と、新たな国の繁栄、その繰り返しの歴史であり、某国自体は実際には百年ほどの歴史しかありません」
不思議だった。
テレビから、ももかの声がしていた。
「カーズ……呪い、とはまた物騒な名前ですが、某国が引き起こしたカーズによる世界規模のパンデミックは人類を間引き、そして、さらに今、歴史的宗教的に遺恨がある限り、未来永劫争い続ける人の歴史に終止符をうとうとしています」
ももかが、自分で聞いている声じゃなくて、録音や録画したときの、お兄ちゃんやパパやお母さん、ももか以外のみんなが聞いている、ももかの声だった。
どうしてももかの声がテレビから聞こえてくるんだろう。
ももかは、うたた寝をしそうになっていた目を開けて、テレビを見た。
そこには、ももかがいた。
テレビの中のももかには、テロップで彼女の名前が出ていた。
『宗教家 榊ゆりか』
2020年6月13日、土曜日。
ももかは、榊ゆりかさんが出ているテレビを急いで録画した。
真夜中、日付が今日に変わる頃、仕事から帰ってきたお兄ちゃんといっしょに、それを見た。
お兄ちゃんは、先月から、帰宅すると、全身汗でびしょびしょで、首や腕にはあせもができていた。
朝風呂派のお兄ちゃんが、ちゃんと夜お風呂に入ってくれるようになったのはうれしいけれど、ももかはお兄ちゃんの体が心配。
パンデミックが始まってから、お店の客数も売上も減り、人件費が徐々に削られていった。
先月にはとうとう、お店に常駐する社員はお兄ちゃんひとりで、アルバイトの人たちは国が何割かを負担する休業保障をもらう形で休み、お兄ちゃんが開店から閉店までをひとりでまかされていた。
客数がいくら少ないとはいえ、外の気温は30℃を越え、湿気も多くむしむししている。
機械熱によって店内はもっと暑く、クラスター感染を防ぐために、入り口の自動ドアや窓をすべて開けっぱなしにしていても、風はなく、会社から扇風機の弱での使用は許可されていても、クーラーの使用は禁止されていた。
店の敷地は450坪、遠くからお客さんに呼ばれることもあるし、マスクをしながらの接客は、相当つらいだろうなと思う。
体も心も疲れていて、すぐにでも眠りたいはずなのに、お兄ちゃんはももかに付き合ってくれた。
「では、某国は、人類の歴史を一度リセットしようとしていると?」
「おそらくは。
歴史的宗教的遺恨があるかぎり、人類はこれからも未来永劫争いを続けます。
しかし、人類を一度、滅亡しない最低限の人口まで間引き、新たに生まれてくるこどもたちを強制的に親たちから奪い、それと同時にその親を間引き、一ヶ所に集め、歴史や宗教を学ばない教育を施すことで、20年後30年後の社会を背負って立つ人々は、遺恨を持たない人々になります。そのときには、リセット前の人類はすべて間引かれ、リセット後の人類に入れかわっている。
人類同士のくだらない争いを止めるにはその方法しかもはやないのでしょう」
「くだらない。馬鹿げてる」
どう思う?お兄ちゃん
「一理あるとは思うよ。
ただ、他に方法がなかったのか、と思うし、リセット後の人類も、数十年もすれば強者と弱者、持つ者と持たざる者に分かれ、百年後にはリセット前の人類と同様に争いをはじめるだろうね。某国のしたことはすべて徒労に終わる」
そうじゃなくて、ゆりかさんのこと。本当にそっくりだね。
「ももかのほうがかわいいよ」
またまた~、そんなお世辞言っても、何にもあげないよ?
そう言って、ももかはお兄ちゃんに抱きついた。
「ほら、やっぱりももかのほうがかわいい」
そう?
「ああ、ゆりかじゃなくて、ももかを誘拐して本当に良かったと思うよ」
と、お兄ちゃんは言った。
ももかが見たこともない冷たい顔で。
お兄ちゃん? どういうこと?
2011年6月14日。
ぼくの名前は、宮沢 航(わたる)。18歳。
この春、高校を卒業し、大学生になったばかり。
小学校から高校まで、教師たちはクラス替えがあるたびに、ぼくの名前の読み方を間違えたけれど、航空機の航と書いて、わたると読む自分の名前を、ぼくはわりと気に入っていた。たとえ、こう、と読み間違われたとしても悪い気はあまりしない。
ぼくは、物心ついたときには、父親がいなかった。
母は、ぼくを生んだあと、仕事仕事で家庭を顧みない上、不倫までしていた父を見捨てて、ぼくとふたりで生きていくことと、とある新興宗教の信者として生きていくことを決めた。
それが、千のコスモの会だった。
千のコスモの会とは、ゴルゴダの丘で処刑された聖人が、三日後に復活を遂げた後、使徒たちを連れて極東の島国、つまり、当時はまだ日本という名前ですらなかったこの国に流れ着き、新たに説いた教えであるとされている。
聖人の日本渡来説、日本人のユダヤ人始祖説というものが、この国には昔から存在し、聖人の墓も実際に存在するのだが、それを元としているのか、あるいはその元になったのか、そこまではわからないが、2000年近い歴史を持つ、新約聖書の途中から分岐した、真約聖書、あるいは裏新約聖書、新約聖書外典と呼ばれるものを聖書とする宗教である。
聖人は13人の使徒に、新たな教えと不老長寿の肉体を与えると、この地(この星?)を去ったとされている。
13人の使徒のうち、12人は2000年近くにわたり榊という姓を名乗り、この国の歴史を裏で操ってきたとされる。
榊とは、神の木。生命の樹セフィロトを意味する。
そして、ひとりだけ榊姓ではなく、棗という姓を名乗ったという。
榊が歴史を裏で操り、彼らに都合の良い歴史を作る中で、どうしても真実をねじ曲げなければならない局面が幾度も訪れる。
ねじ曲げられた歴史を正史とし、真実を偽史、あるいは黒歴史として封印する、それが棗姓を与えられた使徒の役割だった。
母は幼いぼくを連れて出家する形で、千のコスモの会の総本山であるN市八十三町に移り住み、2000年もの間生き続ける十三人の幹部それぞれがひとりずつ、神隠し(=誘拐)によって選んだ巫女の世話係のひとりになった。
それが、第十三使徒マッテヤ=棗弘幸とその巫女加藤麻衣だった。
棗弘幸と加藤麻衣の間には、ひとりの娘がいた。
加藤ゆりかという名前の女の子だった。
母は、加藤麻衣の世話係というより、生まれたばかりのゆりかの乳母といった方がその役割としては近かった。
ぼくとゆりかは、9つ年が離れていたが、どこへ行くにもゆりかはぼくについてまわり、兄妹のように育った。
やがて、ゆりかには妹が生まれた。
ももかと名付けられたその妹もまた、ぼくとは一回り以上離れていたにも関わらず、ゆりか同様ぼくについてまわった。
ようやくゆりかがぼくの手を離れたばかりだというのに、ぼくにはまた妹のような存在ができてしまった。
ゆりかは今年で10歳になり、ももかは5歳になった。
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