2020/06/01~07
2020年6月1日、月曜日。
ももかは、ゆうべのあのあとのことを、よく覚えていません。
目が覚めたとき、自分がどこにいるのかさえ、ももかにはよくわかりませんでした。
ただ、わかったことは、そこはお兄ちゃんとももかが、三年間過ごした1Kのせまいけどたくさんしあわせがつまったお部屋じゃないということだけ。
それから、ももかのお兄ちゃんじゃない人が、ももかのことを心配そうに見つめているということだけ。
知らない人でした。
でも、不思議とももかは怖くはありませんでした。
その人はとても優しい目をしていたから。悲しい目にも見えました。
「おはよう」
お兄ちゃんじゃない人は、ももかが目を覚ましたことに気づくと言いました。
「……おはよう、ござい……ます」
ももかは、優しく手を握られていました。
その人は優しく微笑んで、
「大丈夫。ぼくはあやしい者じゃないから」
そう言って、
「ここがどこかとか、ぼくが誰かとか、わからないことだらけで、不安かもしれないけど」
「……不思議」
ももかは、その人の言葉を遮って言いました。
「不安じゃないんです。ちっとも。あなたのこと、怖いとか、全然思わない。ももかは、あなたを知っているような気がするんです」
その人は、ももかの言葉に微笑みました。
「ぼくが誰かということは、いずれわかるときがくるよ」
「名前……」
「ん?」
「なんて呼んだらいいですか? あなたのこと」
「ぼくの名前か……」
その人は、まるで自分の名前を忘れてしまったかのように、
「棗、弘幸」
少し考えてから、そう言いました。
「怪しい者じゃないと行ったばかりだけど、ひとつだけ大事なことを伝えておくね」
棗弘幸さんはそう言うと、ももかにそのひとつだけ大事なことを教えてくれました。
私は、昨日、誘拐されました。
2020年6月2日、火曜日。
棗弘幸と名乗った人は、年はたぶん30歳くらい。
若く見えるだけで、40歳くらいかもしれないけど。
ももかより、頭ひとつ分背が高いから、たぶん180センチくらいある。
あれ? それって、ももかより一頭身多いってことなのかな?
そういえば、ももかって何頭身あるんだろ……
1、2、3、4、5、6……
……はかってみるんじゃなかった。
でも、両手ではかっただけだから絶対誤差はあるし、まだももかは発育中だから!!
寝起きの、まだよく働いてない頭で、ぼーっと棗弘幸さんが着替えているところを見ていたけど、体は細いのにしっかり筋肉がついていた。
きっと何を着ても似合うんだろうな、お兄ちゃんが知ったら羨ましがるだろうな、と思った。
女の人なら同性だから、お化粧の乗りや肌の決め細やかさで、大体年がわかるけど、男の人の年はももかにはよくわからない。
比較対象になるのが、お兄ちゃんやパパや同級生の男の子たちくらいしかいないから。
お兄ちゃんよりは、少し年上だろうなとなんとなく思った。
余裕がある大人の男の人、ももかは棗弘幸さんに、そういう印象を受けた。
でも、余裕があるふりをしているだけなのかな、とも思う。
ももかを誘拐したと言ったけど、誘拐って大抵が身代金が目的の犯罪だし、、、そうじゃない場合もあるけど……
パパが有名な作家だから……
スマホがももかのリュックからなくなっていたのは、パパやお母さんに身代金を要求するため?
きっとお兄ちゃんから、たくさんLINEが来てるだろうな。
ももかがお兄ちゃんのこと大好きなのと同じくらい、お兄ちゃんもももかのこと大好きだから。
あ、いやなこと思いだしちゃった。
やっぱり、まだ14歳のももかより、22、3歳?くらいの大人の女の人の方がいいのかな……
ももかじゃ、お兄ちゃんの彼女にはなれないのかな……
ももかはお兄ちゃんに、ももかの全部をあげてもいいくらいなのに。もらってほしいのに。
お兄ちゃんのせいで、話が脱線しちゃった。
ももかには、棗弘幸さんは、お金には困っていないように見えた。
昨日も今日も、朝の7時半過ぎには仕立てのいいスーツを着て部屋を出ていって、今日も昨日と同じなら、夜の6時過ぎには帰ってくる。
たぶん、公務員とか会社員とか、ちゃんとした仕事をしてる。
棗さんが着ているスーツは、何年か前にパパが直木賞を取ったときに、お母さんが選んであげたスーツと同じ、何十万円もするような高級ブランドのものだった。
もしかしたら、ちゃんとしたお仕事どころか、すごいお仕事をしてるのかも。
すごいお仕事ってどんなお仕事なのか、ももかにはわからないけど。
棗弘幸さんは、のどがかわいたり、おなかがすいたら、好きなものを注文していい、と言って今日も出かけていった。
いまいち実感がわかないけど、ももかは棗弘幸さんに誘拐されて、軟禁された状態にあるみたい。部屋の外には出られないようになっていた。
お兄ちゃんと一緒に暮らしてる1Kの部屋の、何倍も広い部屋は、まるで絵本の中のお姫様の部屋みたいだった。
大きくて、ふかふかで、何度寝返りをうっても、ももかが床に転がり落ちたりしないベッド。
広いお風呂は、ジャグジーがついてるし、なんに使うかわからないけど、空気を入れて膨らませるベッド? みたいなものが、壁に立てかけてあった。
お部屋の中には、ファミレスみたいに大きなメニューがあって、テレビのリモコンで飲み物や食べ物が注文できるようになっていた。
最近DVDレンタルが始まったばかりの映画が見放題だったり、なぜだかわからないけどコスプレ衣装のレンタルや、 ももかにはまだ絶対早いえっちな下着や玩具? を販売もしていた。
お昼過ぎ、おなかがすいたももかは、ロコモコ丼と、なぜかまだメニューにあったタピオカミルクティーと、大きなパフェを注文した。
それから、一度でいいから着てみたかったメイド服をレンタルしてみることにした。
料理とメイド服が一度に運ばれてきて、ももかは、どっちを先にしようか悩んだ結果、メイド服を着てから、お昼にすることにした。
今日は1日メイド服で過ごしてみるのも、悪くないかなって思った。
スマホは取られちゃったけど、部屋にはノートパソコンがあって、デジカメもあった。
ノートパソコンは、メールやSkypeが使えなかったり機能がかなり制限されていたけれど、ももかは今のこの非日常を日記につけてみようと思った。
ももかのメイド服、似合ってるかな?
お兄ちゃんに見せてあげたいなって思ったけど、あんな浮気者別にいいや。
2020年6月3日、水曜日。
ゆうべ、棗弘幸さんは、帰りがとても遅かった。
帰ってきたのは、日付が今日に変わる頃。
ももかは棗弘幸さんに聞きたいことがあって、それはどうしてももかを誘拐したのかだったり、ももかがはじめて着たメイド服の感想だったり、いろいろなことで、半分くらいはどうでもいいようなことだったけど、彼が帰ってくるのを、ずっと待ってた。
待つのは意外とももかは平気なんだ。
お兄ちゃんは、お仕事が終わるのが夜中の2時や3時を過ぎることがよくあったから。
ももかは、観たかった映画を全部見つくして、興味本位でえっちなビデオを見たりもしたけど、5分で気持ちが悪くなっちゃった。
まだ中学生のももかには、自分が母親になるとか、誰かと結婚をするとか、すごく遠い未来のような気がするんだけど、ももかもあと何年かしたら……
もしかしたらそんなに先のことじゃないのかもしれないけど、こういうことをするのかな……
新しい命を、新しい時代に、人という種がこの星で行き続けていくための神聖な儀式……
そんな素敵なことだと思っていた行為は、ももかの目には、ただただ男の人が自分の性欲を、女の人なら誰でもいいから満足させるためのものにしか見えなかった。
あとになって、女の子向けのがあることに気づいて、すごく後悔した。
フロントに電話をかけて、お薬をもらって飲んで、少しだけベッドに横になると、大分気分が楽になった。
ももかにはまだちょっと衝撃的すぎたビデオについてはなるべく思い出さないように、ネットサーフィンをしたりした。
『M市山手町の女子中学生Mさん、失踪』
ももかのことがヤフーニュースになっていて、少し可笑しかった。
ももかはヤフーニュースに信憑性はないと思ってるけど、その記事によれば、
「県警は、家出と誘拐の両面から捜査を開始した。」
そう書かれていて、どうやらまだ身代金の要求はないようだった。
>こういう事件、昔あったよね。20年前前くらい。確か北海道
コメント欄には、たくさんのコメントが次々と書き込まれていた。
ヤフーニュースにコメントする人って、一体何をしてる人なんだろ。
早朝から夜中まで、次々とニュースが更新されていって、たくさんのコメントが書き込まれる。
全部が全部同じ人達じゃないにしても、世の中には暇をもて余してる人がたくさんいるんだな、と思う。
あと、知恵袋に一生懸命回答してる人とかも。
>富良野市女子中学生誘拐事件のこと? 犯人まだ捕まってないんだよね?
>捕まってないっていうか、事件そのものがなかったことになってるって聞いた。公安がもみ消したらしい。
>犯人が政治家の息子だったんだっけ?
>もっとやばい家柄。悪いけどこれ以上は言えない。俺も命が惜しいから。
>誘拐された女の子がかわいかったのは覚えてる。結局殺されたんだっけ?
>確か加藤麻衣って子。事件の関係者はほとんど死んだみたいだけど、その子と誘拐犯だけは生きてる。
>加藤麻衣の現在の画像見つけた。新興宗教の巫女をしてるみたいだな。URLは→
そのコメントに誘導されるように、ももかはURLをクリックした。
そこには、
ももかと同じ顔をした女の子が
いた。
どういうことなんだろう。
20年前の誘拐事件の被害者がももかにそっくりだなんて。
他人の空似?
ドッペルゲンガー?
ももかは、訳がわからなくなって、気づいたら、コメントを書きこんでいた。
>加藤麻衣って子を誘拐した犯人の名前、誰か知ってる?
>棗 弘幸。
日付が変わる頃に帰ってきた棗さんに、ももかは何も聞くことができなかった。
2020年6月4日、木曜日。
20年前に、北海道で誘拐された女の子は、ももかと同じ顔をしていた。
その女の子、加藤麻衣さんを誘拐したのは、棗弘幸という人。
ももかを誘拐した人と同じ名前の人。
20年前に誘拐された加藤麻衣さんは、事件当時の14,5歳の姿のまま、今はN市八十三(やとみ)町を総本山とする新興宗教「千のコスモの会」の巫女をしている。
ももかを誘拐した棗弘幸さんは、加藤麻衣さんを誘拐した棗弘幸さん?
インターネットには、加藤麻衣さんの画像は事件当時のものから現在に至るまでいくつか見つけることができたけれど、彼女を誘拐した棗弘幸さんの画像は、ひとつも見つけることができなかった。
棗弘幸さんがお仕事に出かけている間に、ももかは、加藤麻衣さんと棗弘幸さんの事件について、少し調べてみることにした。
そして、ももかは、いくつかの仮説を立ててみることにした。
仮説① ももかを誘拐した棗弘幸さんは、加藤麻衣さんを誘拐した棗弘幸さんとは別人であり、模倣犯。
ももかを誘拐した棗弘幸さんは、ももかがはじめて名前を聞いたとき、すぐには答えず、少し考えてから、棗弘幸と名乗った。
自分の名前を聞かれて、すぐに答えられない理由は何?
自分の正体を隠したいとき?
誰かになりすましたいとき?
世の中には、犯罪者を崇拝、信奉する、犯罪者予備軍と呼ばれる人たちがいる。
ももかと加藤麻衣さんがなぜ同じ顔をしているのかはわからないけれど、加藤麻衣さんを誘拐した棗弘幸さんを、ももかを誘拐した棗弘幸さん(偽名)が、もし崇拝していたのだとしたら?
当然棗弘幸さん(偽名)は、加藤麻衣さんの顔を知っており、彼女にそっくりなももかを偶然見つけ、誘拐した……
そんな仮説が成り立ったとしても、おかしくはない。ような気がする。
本物の棗弘幸さんは、加藤麻衣さんに、当時全盛期であったネットアイドルとしてサイトを作らせて、写真を撮らせ、日記を書かせるなどし、誘拐されたネットアイドルとして活動をさせていた。
ももかは、何も知らないまま、スマホを没収された代わりに、ノートパソコンとデジカメを与えられ、ネットアイドルなんていう時代じゃないけれど、似たようなことを自分からはじめてしまった。
仮説② 加藤麻衣さんを誘拐した棗弘幸さんと、ももかを誘拐した棗弘幸さんは同一人物であり、加藤麻衣さんが事件当時のままの姿で現在もいるように、棗弘幸さんも年を取らない。
なぜふたりが20年前もの間、年を取らないのか、加藤麻衣さんが巫女を務める千のコスモの会に、何か秘密があるのだろうか?
仮説③ 加藤麻衣さんが事件当時と変わらない姿をしているのは写真だけであり、画像加工によるものに過ぎない。
ももかを誘拐した棗弘幸さんが、仮説①のように模倣犯であったとしても、仮説②のように加藤麻衣さんを誘拐した棗弘幸さんと同一人物であったとしても、34歳の加藤麻衣さんの代わりに、ももかは選ばれた?
でも、それは何のため?
仮説を立ててみたところで、結局何もわからなかった。
ももかは別に特別頭がいいわけじゃないけど、馬鹿でもないと思う。
どんな名探偵も、推理をし、たったひとつの真実にたどりつくためには、ある程度の推理の材料が必要。
今のももかには、あまりに材料が足りない。
だからももかは、何も知らないふりをすることに決めた。
泳がされているふりをして、逆に棗弘幸さんを泳がせる。
彼が何の目的でももかを誘拐したのか、ももかはそれすらもまだわからないから。
……でもね、本当に不思議なんだ。
ももかは誘拐されてるのに、いつ殺されたり、レイプされたりするかわからないのに、棗弘幸さんのことが全然怖くないんだ。
ももかはもしかしたら、忘れてしまっているだけで、本当は棗弘幸さんを知っているのかもしれないとすら思うことがある。
お兄ちゃんといっしょにいるときみたいな安心感。
ももかは、棗さんに、そんな感覚を抱いていた。
2020年6月5日、金曜日。深夜未明。
--------オンラインニュース速報--------
(を、ももかが少し、編集したもの)
未知の新型ウィルスによる世界規模のパンデミックは、東京で開催される予定だったオリンピックを延期させたことは記憶に新しい。
潜伏期間が長く、感染者どころか、医療機関ですら、発症するまで感染していることに気づくことができない、ステルス型のウィルス。
発症すれば体中の穴という穴から体液や血液を撒き散らして、即、死に至る。
同時に、半径50メートル以内に運悪く居合わせた人間すべてに感染する。
未知のウィルスは、某国が開発した新型の細菌兵器であった。
わざと自国民の、海外旅行を頻繁にする富裕層と呼ばれる高所得者を対象に感染させ、人為的に世界規模のパンデミックを引き起こした。
その事実が明るみになり、世界各国から某国に向けて、核ミサイルが発射された。
2020年6月5日、金曜日。深夜未明のことである。
某国にとってそこまでは想定の範囲内であり、核ミサイルはすべて事前にプログラムが書き換えられていた。
某国に向けて発射された核ミサイルは、そのすべてが歴史的宗教的遺恨のある国同士が核ミサイルを互いに撃ち込むという結果を引き起こした。
この日は、後に、ラグナロクの日と呼ばれることになる。
2020年6月5日、金曜日。
テレビから聞こえる爆発音、怒声、悲鳴……
ももかはその音に叩き起こされ、棗弘幸さんは神妙な顔つきでテレビを見つめていた。
「おはよう。ごめんね、起こしてしまったかな」
「おはよう……ござい、ます……。映画、ですか?」
『これは映画ではありません!現実です』
ももかの問いに答えたのは、棗弘幸さんではなく、テレビだった。
「久しぶりに聞く台詞だな……、9.11以来かな」
「何が起こったの?」
「未知の新型ウィルスは、某国のウィルス研究所によって人為的に作り出され、世界規模で数千万人の死者を出したパンデミックもまた人為的に仕組まれたものだったようだよ」
お兄ちゃんの言ってた通りだった。
「国連は、かねてから危険視していた某国に対し、核ミサイルによる武力制裁を決行した。だが、某国はそこまでを見越して、世界中の核ミサイルのプログラムを書き換えていたようだ。核ミサイルは歴史的宗教的に遺恨のある国同士が首都へと撃ち込みあう結果となってしまった」
「戦争が、始まるの?」
「どうだろう。もはや某国の一人勝ちのようにも見えるけれど。もしかしたら」
「もしかしたら?」
「今日が、地球最後の金曜日かもしれない」
ももかが、その言葉の意味がよくわからないでいると、
「来週の金曜日は来ないかもしれない、ということだよ。その前に世界が滅びる」
棗弘幸さんは言った。
「かつて、アインシュタインは言った。もし第三次世界大戦が起きることがあれば、第四次世界大戦は、石器を武器とするものになるだろう。どういう意味か、わかるかい?」
「世界中の文明が、失われる?」
棗弘幸さんはうなづくと、
「まだ、夜中の3時だ。君は眠った方がいい」
ももかに眠るように言った。
でも、ももかは、もうすっかり目が覚めてしまっていた。
「棗さん、ももかは、棗さんに聞きたいことがあるの」
「なぜ、君が加藤麻衣と同じ顔をしているのか、かい? それとも、ぼくが加藤麻衣を誘拐した棗弘幸と同一人物なのか、あるいは棗弘幸という犯罪者の模倣犯に過ぎないのか、かな」
「その、両方です」
「君が加藤麻衣に似ているのは、君が加藤麻衣の娘だからだ」
「ももかが、加藤麻衣さんの?」
「君は母親を知らないだろう?」
確かに、棗弘幸さんの言う通り、ももかにはママの記憶がない。
ママの記憶どころか、5歳のあの日、19歳のお兄ちゃんに一目惚れした日より前の記憶が一切なかった。
「君は、棗弘幸と加藤麻衣の間に生まれたこどもだ。佐久間という苗字は君の今の母親のものであり、それまで君は棗ももかという名前だった」
「じゃあ、ももかのパパが……」
「棗弘幸、本人さ。そして、ぼくはかつて棗弘幸に妹を奪われた」
「加藤麻衣さん……、ももかのママのお兄さん、ってこと?」
「そう、ぼくの名は、加藤学。ぼくは君の叔父にあたる男だ」
20年前、棗弘幸は、加藤麻衣を誘拐した。
ふたりの間に婚姻関係があったかどうかはわからないけれど、――当時加藤麻衣は15歳、おそらくはなかった――しかし、少なくともふたりは恋愛関係にあり、ももかが生まれた。
20年前の事件は最悪の結末を迎えた、とインターネットにはあった。
それは、事件関係者の大半が理由はよくわからないけど死亡していることや、加藤麻衣は現在も行方不明のままであり、棗弘幸もまた逮捕されなかっただけではなく、棗弘幸と加藤麻衣の間にももかが生まれたことを指していた。
棗弘幸は、事件後に小説家としてデビューし、担当編集者のひとり佐久間霧子と結婚し、佐久間弘幸となった。
そして、加藤麻衣の兄であり、ももかの叔父さんである加藤学は棗弘幸を名乗り、ももかを誘拐した。
これが、20年前の富良野市女子中学生誘拐事件と、今回の事件の真相。
2020年6月6日、土曜日。
「事件は、20年前と今回の二回に限ったことじゃない」
棗弘幸さん、
ううん、もう、その名前で呼んじゃいけないね、
棗弘幸はももかのパパの旧姓の名前で、
この人はももかの叔父さんの加藤学さんだから……
だから、これからももかは、この人のことを学さんと呼びます。
学さんは言った。
「もし、ぼくと君が恋に落ち、君がこどもを孕んだとしたら、君のお兄さんはどうすると思う?」
怒りはすると思う。
でも、何もしないと思う。
だって、お兄ちゃんは、ももかの本当のお兄ちゃんじゃないから。
お兄ちゃんとももかは、血が繋がってないから。
「ぼくと麻衣も両親は再婚で、連れ子同士だった。麻衣はぼくが育てた。麻衣はぼくを愛していたし、ぼくも麻衣を愛していた」
でも、お兄ちゃんには彼女がいる。
ももかの苦手なタイプの女の人。
「ぼくにも恋人はいた。大塚恋子という名前の子だった。20年前に死んだけどね」
学さんは、もしももかが学さんのことを好きになって、ももかが学さんとの間に、女の子の赤ちゃんを産んだら、今度はお兄ちゃんが、学さんとももかのこどもを誘拐するって言いたいのかな。
「現に、ぼくはそうしている。棗弘幸もまた、40年ほど前に妹を誘拐され、その妹と誘拐犯の間に生まれた麻衣を誘拐した。これは、15年から20年おきに、数百年以上、いや千年以上続く、日本の歴史上あってはならない復讐の連鎖なんだ」
だから、秘匿され続けている?
「そうだ。そして、ぼくは、その連鎖を絶ちきるために今ここにいる」
ももかを誘拐したくせに?
「ぼくは、麻衣を取り戻せればそれでいい。麻衣さえ取り戻すことができれば、ぼくは必ず君をお兄さんのところに返す。そのためには、君の協力が必要なんだ」
もうすぐ世界が終わるかもしれないのに?
「だからこそだよ。人は醜く、おぞましい生き物だ。
某国は自国に向けて発射されるであろう核ミサイルを、世界各国の、歴史的宗教的に遺恨のある国同士の首都へ撃ち込みあうよう、プログラムを書き換えていた。
某国がしたことは、まず未知の新型ウィルスによる人類の間引き。医療の発達と共に高齢化が進み、
そして、戦争の歴史や信仰する宗教の違いのせいで二千年以上いがみ合い続ける人類の歴史のリセットだ」
某国がしたことを、あなたは肯定するの?
「肯定するつもりはない。だが否定するつもりもない。ぼくは、ぼく自身のために、復讐の連鎖を絶ちきるため、ただそれだけのために生きてきた」
学さんは、スーツの内ポケットから、拳銃を取り出した。
そして、銃口をももかに向けた。
「棗弘幸の、君の父親の居場所へ案内しろ」
2020年6月7日、日曜日。
20年前、ももかのパパ、佐久間弘幸(旧姓 棗弘幸)は、加藤麻衣という14歳の少女を誘拐した。
棗弘幸と加藤麻衣の間には、ひとりの女の子が生まれた。
それが、ももか。棗ももか。
ももかが5歳のとき、
パパを呼び捨てにするのはなんだか気が引けるけど、
棗弘幸は、ももかのお兄ちゃんのお母さん、佐久間泉と結婚し、佐久間弘幸となり、ももかも佐久間ももかになった。
そして、棗弘幸が、ももかの本当のママだった加藤麻衣を誘拐して20年が過ぎ、今度はももかのママのお兄さんであり、ももかの叔父さんである加藤学さんが、ももかを誘拐した。
学さんに銃口を向けられながらも、ももかは状況を整理していた。
「棗弘幸、いや、今は佐久間弘幸か、まぁ、どちらでもいいが、、、
数日前、ぼくは君の実家を訪ねたが、」
たぶん、ももかが誘拐されて二日目の夜のことだ。
あの日、学さんは、帰りがとても遅かった。
「君やお兄さんの実家には、佐久間弘幸も、佐久間霧子もいなかった。君が誘拐されたことを知って、身を隠したにちがいない。君ならどこに隠れているか想像がつくんじゃないか?」
パパには、ももかやお兄ちゃんを連れて一回か二回、行ったことがあるだけの別荘が、日本中にいくつかあった。
そのうちのどれかだろうか。
それとも、パパが執筆活動に煮詰まった時に、お母さんといっしょにカンヅメになる、洞爺湖のそばのホテル?
「いくつか、思い当たる場所があるようだな。
車はぼくが出す。案内してくれ」
無理。
ももかが思い当たった場所は全部、ももかじゃどこにあるかわからない場所。
でも、もしかしたら、
「もしかしたら?」
お兄ちゃんになら、全部場所がわかるかもしれない。
お兄ちゃんなら、ももかの知らない、パパたちの隠れ家を知ってるかもしれない。
くくく、と学さんは笑った。
何がおかしいのだろう。
「誘拐犯と、誘拐された少女が、共にその兄を誘拐する……か。20年前と、まるで同じだ」
ももかは、別にお兄ちゃんを誘拐すると言ったつもりはないけど。
「ぼくは、麻衣が誘拐された後、恋人の恋子といっしょに心中しようとした。
恋子は生まれてからずっと、自分を肯定することができない子だった。自分を好きになることができない子だった。
ぼくも同じだった。
麻衣がぼくを好きでいてくれたから、自分を肯定してやることができた。
でも、麻衣は誘拐され、雛鳥がはじめて目にした存在を親だと思い込むように、盲目的に、棗弘幸に、恋をした。
ぼくは麻衣に捨てられたと思った。
だからぼくは、恋子といっしょに死のうと思った。
でも、それを知った麻衣は、棗弘幸といっしょに、ぼくと恋子を誘拐した」
ももかは、悲しい思い出を語る学さんに、何も言えなかった。
「恋子は結局、自殺した。もしかしたら、殺されたのかもしれない。
麻衣がぼくと恋子を誘拐しようと言ったとき、棗弘幸は苦虫を噛み潰したような顔をしたそうだよ。
麻衣は本気でぼくを助けようとしてくれた。ぼくのような人間でも生きていてもいいんだと、ぼくの存在を肯定してくれた。
でも、棗弘幸は違う。ぼくの存在は、その時の彼には邪魔でしかなかったし、15年か20年先にはさらに邪魔になることを彼は自らの経験から知っていた。
彼には、麻衣を止めることができた。ぼくと恋子の心中を邪魔しないという選択肢があった。
ぼくは、棗弘幸のお情けで生かされたんだ」
学さんは、拳銃を壁に向けた。
「畜生、畜生、畜生、畜生、畜生畜生畜生畜生畜生」
引き金をひいても、拳銃から弾は出なかった。
拳銃は、おもちゃだった。
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