第5話


…仮に催眠状態の人物が、

計画的な犯行を起こす事は可能だと思いますか?


…可能性はあるでしょう。…ですが。


二人の男が机をはさんで向かい合っている。

博士と呼ばれる男の背後には大きな窓があり、薄暗い部屋に光が差し込んでいた。


その小さな個室はその博士の書斎であり、大量の書籍や資料に囲まれている。


…そもそも犯行を行なわせるという事が難しいです。

当人の倫理観に反する事は催眠状態であっても非常に強い抵抗にあいます。

それに加えて、指定の犯行現場に連れて行き、会話をさせ、時刻を測り、実行する。

あまりにも複雑すぎると思います。


当人の倫理感に左右される?


…はい。

不可能ではないといっても、非常に強い催眠状態におく必要がありますし、

それほど意識を混濁させ続けるものは、もはや、催眠というより…妄想、幻惑といった現実を正しく認知できない精神状態ではないでしょうか?

意識を明瞭に保ちつつ、犯行を行うのは、催眠の深さという観点からも矛盾します。


すみません、あくまで推測でしか申し上げることが出来ませんが。

…ということは、当人にその意思が少しでもあれば不可能ではないと。


未だ私にとっても、人類にとっても、

"催眠"や"暗示"という現象については未知の部分が多いのです。


あなたでさえも、それは不可能ですか?


…もちろんです。あなたにティーを入れるように指示を出したとしても、

初めに行った催眠よりも深い催眠状態にする必要があります。


人に対する、いわゆる人形化。

他人をマインド・コントロールといわれる状態には簡単には出来ません。


…仮にそう出来るなら、

わたしは"あなた"にとって、かなり信頼足り得る存在にならなければなりません。


?"今の私"では不可能という事ですか?

…そうです。そして、それは不可能なのですよ。

他人に全幅の信頼を預けるという事は、無理に近い。

まして"私"では無理なのです。





…知人の弁護士の依頼で、わたしはある事件について調査を行なっている。



地域清掃やボランティアに勤む、善良市民を体現したような初老の男性は、

近所での評判もよく、もちろん犯罪歴も一切なかった。

成人した娘たちは、一流大学を出て成功し、法律の専門家になった者もいた。

小さな孫が生まれ、まさに順風満帆の人生。

幸せの絶頂期というべきこの男性は、突如として、通行人の一人に発泡した。


犯行現場で、犯人は錯乱したように、"私の勝ち!"と騒いでいたそうだが、

当時の状況では、男性がピストルを取り、被害者に発泡するまでは被害者と談笑していたという点で不可解だった。

その点から事件の動機の整合性はなく、男性の精神状態や、痴呆症など、様々な点から検討が図られた。

しかし結果として、多くの犯行現場にいた人々の証言から、通り魔的衝動殺人と断定された。

事件の詳細な状況が判明するとともに、

大きな抵抗を見せたのはその男性の家族達だった。

どのように、考えてみても、父が犯罪を、まして殺人を起こす様な人ではないと信じなかったのである。

しかし、事実として犯行は行われ、証拠も証言も覆る事は決してなかった。


…それでも娘達は諦めなかった。

辛うじて、被害者は一命を取り留めたが、

意識を失い、その罪は重いものとなった。

実行した罪を認めるとしても、父が何らかの理由によって、"やむなく"犯行に至ったのではないかと考えたのだ。

唯一の考慮点は、犯行現場で父が叫んだある言葉だった。


"私の勝ち!悔しかったら、飛べなくしなさい!"



…そして、わたしは僅かな期待を持って、

今こうして数少ない催眠術を研究している心理学者の元へと赴いたのだ。



…構いませんか?

男は懐から、煙草を取り出し、博士の許可を待った。


…ここではお控えください。

…そうですか、これは失礼しました。


男は残念そうにし、煙草を懐に戻した。



…暗示には、被暗示性という個人差がかなり存在します。

そういった面から言っても、不特定多数な人物に対して、確実に強力な暗示をかける術は、現在のところ学術的な面で証拠足り得る存在は確認できていません。


…その術も、それを行える術士も存在しないと?


…いえ、それは証明できないだけで、存在を否定することは出来ないのです。

ただ、仮にそういった超人的な能力を持つ人物を現行の法によって裁く事が出来るとは思えませんね。



…私から貴方に質問してもいいでしょうか?



ええ、素人の私に何をきくんです?



…"暗示""催眠状態"と、我々は至極当たり前な現象としてその事を捉えていますが、

実際にそれは一体何なんでしょう?


実際に我々は、その現象に名をつけて区別しようとしていますが、

その正体には決して踏み入れません。


暗示や催眠というものには、

私は心の力が存在しているのではないかと考えているのです。



心の力…。



…先ほど、貴方にもお話ししましたが、

暗示によって人間は、我々が計り知れない能力を引き出す事が可能です。


…我々は何も知らない。




…貴方にもうひとつ実験をしましょう。

催眠術というものの、奥深さに気がつくはずです。



…この住所を訪ねて下さい。

私の紹介だと告げれば、中に入れてくれます。



…そこは?




私の古くからの"友人"です。きっと、貴方の力になりますよ。



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