4-13

 いかに人目につかないように隠れての出航であったとはいえ、流石に一国の皇帝スルタンであった人物を乗せる船は、ウェネト共和国の矜持にかけて一等のものを用意されたらしい。

 船のトン数で言えばさほど大きくはないが、客室は二部屋続きでゆったりとくつろげるほどの広さがあった。壁紙は花や植物が描かれた、青や緑を基調としたもので、最近近隣諸国で流行りの装飾のひとつである。

 けれどその色合いのせいなのか、この客室はどうにもあの・・部屋を――【黄金の鳥籠カフェス】を思い起こさせる。とは言え、秘された花園と称されたトゥルハン帝国の後宮ハレムの、さらに最奥にある【鳥籠】の実情を知る人間など外部にいるわけもないので、きっと偶然のもたらしたものなのだろう。

 寝室となっているらしいこちらの部屋は、天蓋突きの寝台ベッドの他、小さなテーブルに椅子、棚など完全な私的空間プライベートゾーンとなっているようだ。置かれている家具は、その全てがいまウェネト共和国をはじめとする諸外国で流行りの意匠デザインで、トゥルハン帝国のものよりも背丈が高い。

 十二の年まで、価格には大きな開きはあるものの自身もこのような生活文化で育っていたので、馴染みがないわけではないが、それでもどうにも落ち着かない。


(すっかり、トゥルハン帝国の人間になってたんだなぁ……あたし)


 けれど、そんな国を、いまこうして出る事になっているのだから、世の中何が起こるかわかったものではない、という何よりの証拠だろう。

 ヒュマシャが窓の外へと睫毛の先を向ければ、格子枠のついたガラスの向こう側には、空に浮かぶ月を映す海が広がっている。ときおり鼓膜を掠めるのは、ザザー、という波の音。


(本当に、国を出たんだ……)


 そうなる未来を望んでいた事は確かなのに、いざその立場になると自覚がいまいち感じられないのは、これまでの自分の人生が常に誰かの思惑によって動かされ続けたせいだろうか。


「おい、何やってんだ」


 ぼんやりと、闇の帳が落ちた世界をその瞳に映していたら、背後から声がかかった。肩越しに振り返ると、そこには亡国の皇帝となった青年がちょうどドアを開けたところだった。

 彼は、先ほどまで居間室リビングルームとなっている隣の続き部屋で、船長、一等航海士より航路の説明を受けていたはずだが、ここに戻ってきたという事はどうやら話は済んだらしい。

 しばらくの間、話し込んでいたせいで疲れたのか、後ろ手にドアを閉めた後、ルトフィーは軽く伸びをしながら乱暴に寝台の上へと腰を下ろす。当たり前のように、目の前に彼がいるその光景が、どうにもいまいち現実味を帯びていない。

 それでも胸の裡ばかりは、もう二度と逢う事はないのだと覚悟していたはずのその姿に、とくり、とくり、と鼓動の音を強くする。ヒュマシャが自身へと視線を縫い止めたまま、その場に立ち尽くしている事に気づいたらしい青年は、呆れにも似たような――それでいて、どこか擽ったそうな感情をおもてに刷いた。


「なんだよ?」

「……や。別に、何がどうってわけでもなくって。……ただ、何て言うか……」

「何て言うか?」

「……ルトフィーが、いるなぁって……」

「なんだ、そりゃ」


 いるよ。

 ――と、笑いを弾いた青年は、自身が腰かける寝台の横をぽんぽん、と叩く。これは間違いなく呼ばれているのだろう。ヒュマシャは、胸の裡をカリカリと爪先で引っ掻かれたような感覚がどうにも面映ゆく、唇をもにもにと変形させながら指先で手繰り寄せた長衣カフタンをギュ、と握り締めた。

 

「おい、早く来いって。日頃の図々しさ、どこいった?」

「う、うるさいわね! わかってるわよ!! 行けばいいんでしょ、行けば!」


 やけくそのように叫ぶと、硬い床の上に足音をずんずんと落として行く。シャリ、シャリ、と紗の長衣が涼しげな音を立てながら、その裾に空気を孕ませた。

 ふわ、と柑橘系の爽やかなにおいが舞う。

 ルトフィーの眼前までやってくると、彼の視線が真っすぐに持ち上げられた。重なる藍晶石カイヤナイト榛色ヘーゼルの瞳に、心臓が一瞬で甘い想いに溺れそうな感覚に襲われる。


「ヒュマシャ」

「……なによ」

「すきだ」

「っ!?」


 突然、何の前振りもなく紡がれたその言の葉に、少女の瞳が零れ落ちそうなほど見開かれた。


「……うそ」

「嘘じゃない。って言うか、知らなかった話でもあるまいし、今さらそこまで驚くような話じゃないだろ」

「や……、違くて。いや、知ってた。知ってた、けど!」

「ふはっ。そこで『知ってた』って言いきれる辺りが、ほんとお前だよなぁ……」

「だってそこカマトトぶってもしょうがないじゃないっ! でも、……だって」


 二年前に共に過ごした頃――どれほど近くにいても。

 どれだけ口吻けを交わしあっても。

 さよならの言葉を、肌で伝え合った時でさえ。


「そんな事、一度も……っ」

「言わなかったな」


 だから、と彼は続ける。


「もし、俺の生きる意味にケリがついて。全部、全部終わって……、それで、もしお前に会えたなら、絶対に最初に言おうと思ってた」


 トゥルハン帝国・最後の皇帝のルトフィー一世は、一度目の即位でも、二度目のそれでも、彼に寵姫はいなかった。


「『ルトフィー一世』には寵姫はいらなかった。跡継ぎである子供も絶対に作る気はなかった。でも、今の俺は、もう『ルトフィー一世』じゃない。皇帝じゃなく、ようやくただひとりの男になれたんだよ」

「あた……、あたしにとっては……ずっと、ずっと、そうだったわよっ」

「あぁ。知ってる」


 ルトフィーの垂れ目が、皺を刻み、ふ、とその口許が意地悪な形に持ち上がる。


「皇族に対して、あそこまで雑な扱いした女なんて、トゥルハン帝国の長い歴史の中でもお前くらいだろうな」

「だってそれはしょうがなくないっ!? そもそも最初アンタが誰か知らなかったしっ!」

「それにしたって、俺が前皇帝だってわかった後でも、平気で人の寝具強奪しようとするわ人を顎でこき使おうとするわ……ちょっとの距離なら膝立ちで歩くし、取り繕う事なんてなくゲラゲラ大口開けて笑うし、人間付き合いは全部根回しだって言い切るくらい根性悪いくせに、妙に情に厚くてお人よしだし……」

「…………アンタ、ほんとにあたしの事、好きなわけ!?」


 次々に出てくる悪口に、ヒュマシャは低気圧を瞼の上に帯びさせた。冷えた視線を眼下の青年へ注いでいると、す、と彼の腕が伸びてきて手のひらが少女の頬へと這わされる。

 相変わらず硬い手のひらと、耳朶に指先が口吻けられたその感触に、ぞわ、とうなじで熱が生まれた。

 見下ろした先にある――藍晶石の瞳を受け入れる榛色のそれが、切ないほどの欲を孕んでいる。


「あぁ。好きだったよ。ずっと」


 そう言って、ルトフィーの手が、頬から耳朶へ、そして金糸の中へと這って行く。少女の腕がもう片方の手に引かれ、くるり、と一瞬のうちに視界が、世界が、回った。

 背に柔らかな衝撃を感じたのと同時に、ぱさ、と頭布ターバンが解け、髪が寝台の上へと散らばる。睫毛の先には、先ほどまで確かに見下ろしていたはずの、青年のおもて


「ずっとお前が、好きだった――」


 そう呟き、青年の影が落ちてくる。

 ヒュマシャが寝台に投げ出されていた腕を上へと伸ばし、青年の首へと回した。


「言ったでしょ」


  ――すきだよ。たぶん、ずっとこれからも。


 かつて彼に告げた言の葉を、少女の唇は繰り返す。


「すきだよ」


 ずっとこれからも。

 吐息混じりのその声は、青年の口唇の中に甘く溶けた。

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