4-11

 青く澄み渡る あの高い空を自由に飛ぶ鳥

 大きな羽を広げてどこまでも 大空を飛ぶ鳥よ

 陽気に朗らかに 揚々としたその歌声は

 遥か彼方の狩人に 春風に乗って飛んでいく


 歌を歌い 麗らかな空を飛ぶ

 気を付けて 気を付けて

 狩人が狙っているの 彼方の地から

 

 高い空に舞い上がる ける自由の鳥よ

 猛る弓矢のその切っ先が 巧みの走りを見せるのを

 知らずに歌って舞う鳥に 初春の空が教えてる




 一体、誰が歌い始めたのか――。

 否。

 一体、どうしてそんな歌が流行り始めたのか、誰に訊いても「わからない」という返事をされるが、近頃、ここバイオール地区にある孤児院ではわらべ歌が流行していた。わらべ歌と言えど、その旋律メロディは、優しくわかりやすいが、決して児戯と侮れるほど程度の低いものもない。

 この国に昔から伝わる旋律に、少し諸外国でここ数年持て囃されたものを溶かし込んだような、そんな曲調だった。

 それを耳にした大人たちは「何故」と一様に首を傾げたが、そもそも子供の遊びなど、大人が知らない内に勝手に作られ広まっていくものである。詮索したところで、きっと誰にもわからないだろうと、その内誰しもが気にしなくなったのだが。


「うたーをうたーい うららかなそーらをとぶー」

「きをつけてっ きをつけてっ かりゅーどがーねらっていーるの かなーたのちーからー」


 四、五歳の子供、数人が、意味もまだよくわかっていない歌を、楽しそうに身体を揺らしながら歌っているのを、ヒュマシャは目を細めて聞いていた。音が明後日の方角にぽーんと飛んでいったのかと思うほどハズれた旋律だが、その歌声は子供ならではのもので、可愛らしい。

 前回の訪問から既に二十日ほど経過しており、ハマりやすく飽きっぽい子供たちはいつまでこの歌を歌っているだろうかと少し不安に思っていたが、どうやら年少の少女たちを中心に今もまだまだ流行は続いているらしい。


「高~い空に舞い~上がる~ 闌ける自由の、鳥よ~」


 幼子たちの歌声に誘われて、ヒュマシャも鼻歌混じりで参加をすると、彼女たちが一斉にその真ん丸なおもてに花を咲かせた。


「わぁっ、ヒュマシャ、じょーずー!」

「すごいきれいー」

「あらっ、そーぉ? もー、あんたたち、可愛い事言ってくれるじゃないのー」


 後宮に入るための教育で培った吟詠の能力を、こんなところで生かす事になるとは流石に思わなかった。人生何が起こるか、わからないものである。


(まぁ、あたしはあんまり声質が綺麗な方でもなかったから、そんな成績良くなかったけどね)


 寄ってきた小さな身体を抱きしめて、うりうり、と頬ずりすると、ふわりと日向のにおいが鼻腔に届く。柔らかな髪が頬に擽ったい。


「ほら。部屋でお歌もいいけど、今日はお天気よ。お外出て遊んできたら?」


 そう促すと、子供たちは互いに顔を見合わせ、手を取り合って一斉に部屋の外へと駆け出して行く。小さな背中を見送りながら、ヒュマシャは子供たちへの手土産の残骸を片付け始めた。

 今日のおやつは、ロクマと呼ばれる小麦粉と砂糖を練った生地を丸め、油で揚げた菓子である。その上から、砂糖やレモン水で作ったシロップとナッツをかけて食べるので、腹持ちもよく、子供たちにも人気のシロモノだった。

 過去、同じく腹持ちがいいバクラヴァを持って来た事があったが、あれはパリパリとした生地が幾層にも重ねられており、小さな子供がその場で食べると絨毯の上は食べカスだらけになってしまった。その点、同じように小腹を満たしてくれる今回のロクマは、一口サイズに丸められたものなので、子供たちも食べやすく、またシロップを別容器に入れておけば持ち運びも簡単である。

 ヒュマシャはロクマを入れていた皿を重ね合わせ、籠の中へとしまい込みながら、先ほどの鼻歌を知らず口にする。

 すると――。


「随分、機嫌いいんだな。ヒュマシャ」


 突然部屋の外から声がかかった。

 振り返れば、窓の向こう側にいたのは利かん気の強そうな少年。

 どこか面白くなさそうに、唇を僅かに突き出し頬を膨らませており、ヒュマシャは軽く睫毛を上下させた。


「ルトフィー。あんた、カヤ達と相撲ヤール・ギレッシュしに中庭行ったんじゃなかったの?」

「……行った、けど……戻ってきた」

「えぇ……、ちょっとまさか、あんた達またモメてんの?」


 数か月前まで、ルトフィーとその他年長組の仲は非常に複雑なものだったが、ヒュマシャが一度その事を注意して以降は、特にそういった揉め事もなくなっていたはずだ。

 それでもやはり、子供とはいえ彼らは既に十歳。そろそろ大人の仲間入りを始める年頃でもあるし、一度注意した程度ではわだかまりの解決には至らなかったのだろうか。


「いや。別に、モメてねぇよ」

「言葉遣い」

「……モメてない」


 ますます唇を尖らせるルトフィーへと、ふ、と笑いを零す。まだまだ生意気な中にもかわいらしさが見え隠れする年齢である。

 ヒュマシャは膝を起こし立ち上がると、窓辺まで歩を進めていく。そして壁に沿ってぐるりと巡らされた長椅子セディルへと腰を下ろした。

 窓の外は、既に春らしい陽気が周囲に広がり始めている。朝晩などはいまだに寒さが肌に染みる事もあるが、それでも庭先の木々からは緑の葉が徐々に顔を出し始め、中庭などでは小さな名もなき花々が風にその身体を泳がせていた。

 ヒュマシャは春の気配を色濃くする空気を吸い込むと、窓の外で視線を外す少年へと睫毛の先を向ける。


「あたしに、何か用があるって事ね?」


 ルトフィーはむっつり黙り込んだまま、顎を一度引いた。そしてどこか気まずそうに視線を景色へと這わせたままに、ゆっくりと唇を開く。


「……あの、歌」

「歌?」

「チビたちが、歌ってるだろ。あれ」

「あぁ……青く、澄み~渡る~ってやつね?」

「あれ、ヒュマシャが作った歌だろ……」


 訊ねるような素振りがあるくせに、その言の葉は確信が感じられるものだった。ヒュマシャは窓枠へと肘をかけながら、唇の両端をつり上げた。ふわ、と少女の背で赤味がかった金糸が揺れる。

 同時に周囲に溶けるのは、柑橘系の甘酸っぱいにおい。


「何でそう思ったの?」

「何で、って……、あの歌をチビたちが歌い始めたの、あの日・・・以降だろ」


 あの日・・・――。

 それは、先月、この少年が自身と同じ名を持つとある青年と出会ったその日以外にないだろう。


「ヒュマシャ……って名前、古代の言葉で『幸せの鳥』って意味だろ」

「あら。よく知ってるわね」

「死んだ婆様の名前が、ヒュマシャだったから」

「……ばあさま」


 いや、別に老婆と同じ名前だからと言って、何がどうというわけでもないのだが。


「……あの歌の歌詞にある、狩人に、狙われた鳥は……『幸せの鳥』なんだろ……? 狩人が、あの……、俺と、同じ名前の、皇帝」


 あの日、礼拝堂に入ってきたルトフィーは、自身を抱きしめる皇帝の後ろ姿を見ている。あの瞬間、きっと彼は「知り合いのお姉さん」であるヒュマシャが乱暴をされそうになっているのではないかと疑ったに違いない。

 けれど、側近たちの登場によって特に大きな問題になるわけでもなく収まり――皇帝・ルトフィー一世の視察を受け、「知り合いのお姉さん」を襲おうとしていた若い男の正体を知った。


(それで、あの日以降唐突に歌われ出した歌を聞いた時に、その歌詞が自分の見たものと似てるって事に気づいたのね)


 元より、この孤児院にいる子供たちは高官の出自であり、家庭教師がおりその家柄に恥じる事のない教養を身に着けるよう勉強をしていたはずだ。

 あの歌詞が、あの光景の比喩である事に気づくなど造作もない事なのかもしれない。


「何で……あんな歌、作ったんだよ」

「……逆に、どうしてそう思ったのよ? あの時の事を、あんたに説明してないし、見たまま解釈するなら、あたしが乱暴受けてるって思わなかった?」

「あの時は確かに、そう思ったけど……そのあと、誰なのかもわかったし……。それでも、相手が皇帝だから、強く言えないのかなとも思ってた。このモスクとか、皇帝のものなんだろ? 本当は。そういうしがらみとかあって、ヒュマシャは誰にもその事言えないんじゃないかって思ったりもした。けど、……俺、思い出したんだ」

「思い出した?」


 ヒュマシャの睫毛が大きく羽ばたくのへ、少年はこくりと頷く。


「ヒュマシャの、好きな奴の名前」


 ひゅ、と息を思わず呑んでしまった。

 そうして、不意に思い出すのは、まだ外が冷たい空気に晒されている季節。

 ちょうどその日はケトロンポルス市においては珍しい程の大雪が降り、辺り一面銀世界だった。


  ――あたしの好きな人の名前だって、「ルトフィー」よ。


 ちょうど、この少年ルトフィーの名が皇帝と同じだという事で、他の子供たちとの関係性が微妙だった頃の話だ。「ルトフィー」なんていうこの国ではありふれた名前の知り合いほかにいないのかと訊ねたら、親類にいると返ってきた。

 その時に、自分の好きな人の名前を確かに口にした。

 ルトフィーが好きなのだと。

 そう、言った。


「あの時来てたやつが、ヒュマシャの好きな奴なんだろ? でもあの歌詞、いくら比喩って言っても好意的なものには聞こえないし……何で好きな奴の事を、そんな歌にするんだろうって思ったんだよ」


 彼自身、皇帝ルトフィーのせいで家族と幸せに暮らしていた全てを失った。正直、この孤児院に皇帝を、国を恨んでいる子供は少なくはない。

 まだ小さな子供ならともかくとして、ルトフィーたちと同年代ならば既に大まかな事情は察しているはずだ。

 だからこそ、皇帝を案じるような言の葉がこの少年から出てきた事に、少し驚いた。まだまだ小さな子供なのだと、侮りすぎていたのかもしれない。


「…………あんたは、あたしの好きな人が、大嫌いな皇帝陛下で……がっかりした?」

「……正直、なんでって思った。でも、あれから何度も何度も考えた。俺がここにいるのは、皇帝のせいかもしれないけど……でも、ここでこうして暮らせてるのも、時々ナクシディルとかヒュマシャが来てくれるのも、皇帝がそう命じたからなんだろ?」

「そうねー。あたしが直接そうしろって言われたわけじゃないけど……、でも国の方針として、ナクシディルたち高官の奥様たちは孤児への支援をしているわね」


 専制君主という国である以上、議会で決められた事だとしてもその命は皇帝の名の許に行われる。二年前の政変クーデター以降、行われてきた恩恵改革タンジマートは全て、ルトフィー一世のまつりごとである。


「昔、家庭教師が家に来てた頃、教わったことがあるんだよ。大昔にあった帝国とか王国とか、滅びる時は予言とか、不吉な歌とかが歌われたりするって。ここにいるチビたちは、そんなの関係なく歌ってるけど、あの歌を利用しようとする奴らが出ても、おかしくないだろ?」

「ふふっ。つまり、あんたはあたしを心配してくれてるのね」

「……悪いかよ」

「んーん。ちっとも悪くないわよ。ありがとね」


 ヒュマシャは窓から手を伸ばし、まだ丸さの残るルトフィーの頬をつついた。思った以上に柔らかな感触が、指先にむにっと伝わる頬をエクボのようにくぼませる。

 心底嫌そうな表情で、けれどチラリチラリとヒュマシャを窺う瞳は心配の色に揺れていた。文句なしに、いい子だ。


(アンタが守ろうとした国で育つ子供は、みんないい子ばかりよ。ルトフィー)


 だから、もう自由になればいい。

 精いっぱい頑張った。

 文字通り、自分自身を国の為に費やした。

 あとはこの国に生きる全てに託せばいい。

 もう、自由になればいい。


(ううん、違うね)


 自由に、するのだ。


(あたしが)


 彼を。

 少女は国で一番豪奢な鳥籠のような宮殿に閉じ込められた・・・・・・・青年へ心の裡でそっと語りかける。

 だから。

 ふ、と視線を持ち上げると、ルトフィーのずっと後ろにあるモスクの敷地への入口に入ってくる人影がある。遠目にも、眩いばかりの金糸を持つ少女と、その隣には裕福そうな服装の男の姿。その後ろにずらずらと荷物を抱えた使用人たちが付き従う様は、それこそ世が世なら、皇帝陛下のようにも見えたかもしれない。


「あら。ミフリマーフだわ」


 ヒュマシャが誰に聞かせるでもなく、ぽつり呟くと、肩越しに振り返った少年が「あぁ」と頷いた。


「あの人か。昨日も、その前も来てたぜ」

「あらあら。それは随分と熱心だわ」


 どうやら、彼女の夫は、孤児たちにひどく同情的で、頻繁に食料品であったり玩具であったりを届けてくれるいい人・・・と近頃、評判である。通常よりもかなり安い価格でここへものを納めているという話も聞く。 


(まぁ、真相は、その対価として様々な不安タネを子供たちの心に蒔いて、同時に子供たちから何かのを得ようにしてるらしいけど)


 ユーフスから聞いた話によれば、革命軍に身を置きながらも皇帝に取り入ろうとしている地方名士アーヤーンたちへとも交流が深いという――「黒」判定の人物である。

 段々と近づいてくるミフリマーフへと、ヒュマシャは手を上げて軽く挨拶をする。彼女の宝玉のような大きな橄欖石ペリドットが驚きに丸まり、次の瞬間、天使のように柔らかく微笑んだ。


「さて、そろそろ決定打でも持ち帰ってもらおっかなぁ」


 そんな古い知己には相応しくない呪いの言葉を、少女は笑顔で投げかけた。

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