4-10

 皇帝陛下スルタンの孤児院視察があった、その日――。

 ヒュマシャは、生活させてもらっている屋敷の主であるユーフス・パシャの帰りを待っていた。

 日頃は彼ら家族の生活する空間には、夜になってから足を踏み入れる事のないよう配慮していたが、今回ばかりは今日の内に話しておきたい事があった。


  ――わたくしは構わないのだけれど……、でも彼が帰ってくるのはきっと、夜遅くになってからだと思うわ。それでも構わなくて?


 そう言った、彼の妻・ナクシディルの話す通り、彼が帰ってきたのは陽が西の空に沈み、夜の帳が世界を染め上げてから大分してからの事。

 春の足音がすぐそこまで迫った季節とは言え、夜はまだまだ冬の気配が強い。毛皮で裏打ちされた外衣チャルシャフを着こんだ第二宰相ヴェジール・サーニたる青年は、帰宅するなり見止めた少女の姿に、けれどもさほど驚いてはいなかった。


「そんな気が、しましたので」


 そう言いながら、彼は用意された珈琲カップに口をつけ、絨毯の上へと腰を下ろす。彼とは今日、孤児院で一度顔を合わせてはいる。


  ――おい……ッ!! お前!! ヒュマシャに何してるんだ……ッ!!


 礼拝堂に忍び込んできた少年ルトフィーに気づいたユーフスたち、皇帝ルトフィーの護衛が、あの後、すぐに室内に入ってきた。そして、そのままその場で何か説明がなされる事もなく、突然の再会は終了したのだが、その後は皇帝陛下・・・・による子供たちの視察が行われた為、互いに「ルトフィー」が何者であるかは知ったのだろう。


「今日、礼拝堂にルトフィーを案内したのは、ユーフスとナクシディルの仕組んだ事だって聞いたわ」

「仕組んだ、とは人聞きの悪い……。偶然ですよ」

「……じゃあそういう事にしておく」

「えぇ。皇帝陛下に、そんな大それたことを俺はしませんから」


 頬を苦笑に滲ませたユーフスだったが、その表情には疲れがはっきりと刻まれている。日頃、皇帝の側近として、国の高官として働きながら、斜陽と称するこの国を壊そうとしているのだから、その疲労も当然なのかもしれない。

 彼の為にも、話は早く済ませた方が良いだろう。


「……ねぇ……。こんなこと言う、立場にないのはわかってるけど」

「……はい」

「……あたしは、アイツを……、ルトフィーを、もう自由にしてあげたい」


 ユーフスの珈琲カップが、彼の唇を離れた直後にヒュマシャは真っすぐに告げた。予め予測していたのかもしれない。ユーフスの表情に変化はなく、無言で少女に続きを促してくる。


「二年前、あたしは【黄金の鳥籠カフェス】にいた時、アイツの生きる意味が、この国と共にあるのならって……そう思って、別れを選んだ。自分がまさか皇帝陛下と人生を歩めるだなんて思ってもいなかったし、今でもそんな事思ってない。だからこそ、その道を歩くアイツを応援しようって思ってた。そこに、アイツの生きる意味があって、そこに幸せがあるならって……そう思ってた」


 一体いつ、国が終わるのか。

 いつ、傾いた太陽が地平線の彼方に沈むのか。

 誰にもわからないその「いつか」の為に生きるのだとしても。

 それこそが、彼の生きる意味なのだと、そう信じていた。

 けれど。


「アイツの望んだ通り、悪い噂は街の色んなところで聞いた。鉄道は戦争を起こす為だろう、だとか。諸外国にかぶれて武器弾薬を国庫を空にしても買おうとしている、だとか。皇帝の務めである後継者を得ようともせずに、たったひとりの母親を追放した、だとか」


 当世ときの皇帝陛下の評判は底辺を這いずり回り、市中では数年前まで天上の存在として崇めていたはずの存在をコケ下ろす人ばかり。

 その全ては、皇帝本人が望んだものであり、やがて迎える終焉の為に敢えて泥をかぶっているのだと思っていた。


「でも……アイツの、あんな姿が見たかったんじゃない」


 いくらそうなるように、自身で仕向けていたとは言えど、人の悪意に晒され続ければ心はきっと疲弊する。あの青年は高貴な生まれ、高貴な育ち、そして高貴な価値観を持っているくせに、その人柄は至って俗的だ。

 ヒュマシャにとって、あの【鳥籠】で共に暮らした彼は、どこにでもいるような――普通の――否。礼儀作法に口うるさく意外と怒りっぽくて、何ならちょっと性格に難があると言えるような――そんな、誰より愛しい青年だった。


「あんなやつれた――疲れ切った顔、見たかったんじゃないのよ」

「陛下のお疲れに関しては……、同意でもありますし、訂正するところでもありますね」

「……どういう事?」

「今日、陛下にお会いになられた時に感じられた通り、陛下がお疲れになっているのは確かです。勿論、毎日医師の診察は受けられておりますし、当たり前ですが栄養状態が悪いというわけでもありません。そして、我が君は、例えどれほどの悪意に晒されようとも、覚悟して進めた事ならば、あれほどに暗い表情をされる事もないと俺は思っています」


 そもそも一度目の即位の際に、幽閉されていた兄たちの末路を見た。

 そして、自身の母親である皇太后ヴァリデ・スルタンによる後宮内に蔓延る毒も、見て知っている。

 知っていてなお、再度皇帝位に就いたような人間が、今さら国民の悪意如きで病んだりするわけはないのだと――その悪意を生み出させ煽動しているのがまさに彼自身であるのだから、その程度で病むような精神の持ち主ではないのだと、ユーフスは言う。


「じゃあ何で、あんなに疲れ切った顔をしているのよ……。生きる意味を求めて復位した人間が、どうしてあんな暗い顔をしてんのよ……っ」


 ヒュマシャは、漏れ出す感情をそのまま溢れ返させるように言の葉を吐き捨てた。

 あの時、礼拝堂で再会したその表情には、疲れが色濃く出ていた。

 抱きしめられた身体は、記憶にあるよりも明らかに厚みをなくしていた。

 輪郭は、精悍になったと言えば聞こえはいいが、とどのつまりやつれていたのだ。

 どうして幸せを願った直後に、出てきてしまうのかと言う身勝手な苛立ちと。

 それでも再び逢えた事を喜ぶ心と。

 そして、自身を呼ぶ声に、二年前の覇気はなくなっていて――抱きすくめられたその身体も細かった。

 もやもやとした不安が、再会してからずっと胃の辺りで渦を巻いている。


ひとえに、【革命】が、起こらないからでしょうね」


 少女の声が、その余韻を部屋中に広がりきるのを待つようにしていたユーフスが、静香に言葉を紡いだ。ヒュマシャは訝しげに眉を顰め、藍晶石カイヤナイトの瞳を青年へと向ける。


「思っていたより、【革命】が中々始まらないから、って事……?」

「いえ……。元より陛下はご自身の残りの人生全てをかける覚悟で復位なさいましたので、そこまで性急な話は望まれてはいません。ゆっくりとこの国の地盤を強くしつつ、やがて帝国が民主国家の礎となる事を望まれていたので、二年や三年で……という事はなかったと思います」

「でも、いま【革命】が起こらないからって言わなかった?」

「えぇ。陛下のまつりごとが想定以上に優れたもので、国としてしっかりと機能し、国内の噂はどうであれ強国として復活しつつあるという現状に、革命軍側が行動を起こす事を躊躇う空気が生まれている」

「そ……れは……、まぁ……思惑とは違うのかもしれないけど……」


 ルトフィーが帝国を自分の代で終わらせようとしたのは、この国が既に盛りを過ぎた斜陽国家であるが故だ。けれど、それを持ち直したのだとしたら――その結果、ルトフィーの目指した国が、帝国の名を持っていても出来る事なのだとしたら、それはそれでいいのではないだろうか。


(まぁ……だとしたら、ルトフィーは最後の皇帝じゃなくなるし……ミフリマーフが言ってたように、正式な妻を得るって話は現実のものになるのかな……)


 そこまで思いが至ると、鉛でも飲み込んだかのように、突然ずしん、と胸の辺りが重くなる。

 同時に、眼の奥が、焼かれたように熱い。

 けれど、一国の皇帝の婚姻に、一般人が泣く権利などあるわけもない。

 ヒュマシャは鼻先に力を入れて、唇を噛み締め、顎に皺を刻む。間違っても、瞳が勝手に泣きださないように。

 胸の裡で煮えくり返りそうな彼の婚姻に関する話にはとりあえず蓋をして、少女はユーフスへと「このまま帝国で強国を目指す事は出来ないのか」と訊ねると、彼は軽く眉を寄せて首を振った。


「帝国がこのまま続いて行く――というだけでしたら、計画を練り直せばいいだけですが……既に、革命軍が国内にあるという事。そして、今、問題になっているのは革命軍で内部分裂が起こりルトフィー様へ擦り寄ってくる輩が出てきている事です」

「……擦り寄る?」

「結論から言ってしまうと、革命軍の中心である地方名士アーヤーンの中で、自分の娘をルトフィー陛下に嫁がせようとする話が出てきている、という事です。あなたも、ミフリマーフ様に陛下の婚姻についての話は、聞いたでしょう」

「……っ、あれ!」


  ――諸外国のように正式な婚姻を結んで、妻を得るって話が出ているらしくて……。


 そう言っていたから、てっきり外国のお姫様でも妻に迎えるのかと思っていたが、そうではなかったのか。


「帝国の寿命がいつ潰えるのか、【革命】がいつ起こるのかは、世界情勢など時勢もあるのではっきりとは言えませんが……それはそれで如何様にも対応するでしょう。でも、革命軍内部で、分裂が起こるのは――対帝国以外の概念が、国内で起こるのは正直歓迎しない状態です」

「……ルトフィーが、あれだけ疲れた顔してたのは……」

「主に、そちらによる心労ですね」

「……そんな、バカな話って……ある!?」


 ただでさえ感情の起伏が激しい少女の心が、激情で溢れ返る。

 「国」という大きなものの為に、「個」を犠牲にした。

 それこそが、自分の生まれた意味なのだと――そう言って。


  ――ルトフィーが国を救うのが生まれてきた意味だっていうように、あたしにもその意味があるなら……、だったらあたしは、その理由をアンタにしたい。


 かつて、彼の前で誓った声が、鼓膜の奥で蘇る。

 皇帝の一族として生まれ、皇帝位に就いた彼の生きる意味が「国」ならば。

 北方の貧しい村で生まれ、女奴隷として売られた自分の生きる意味を「彼」にしたい。

 自身の存在理由を、「彼」に――ルトフィーというただひとりの青年にしたいのだと。


(その気持ちは、覚悟なら、今もこの胸の中にあんのよ)


 ヒュマシャという名の鳥は、あの【鳥籠】で生まれた。

 あの【鳥籠】に、その存在理由があったのだ。


「ユーフス」


 ヒュマシャは怒りに震える声を一度呑み込み、は、と荒い息を吐いた。

 そして長い睫毛の先をまっすぐに、彼の腹心たる宰相へと向ける。


「あたしは、アイツを自由にしたい」


 話し合いの冒頭で口にしたその想いを、再び少女は口にした。

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