4-9
その日、ヒュマシャはナクシディルの
彼女の担当する孤児院は首都・ケトロンポルス市内にいくつかあるが、その中でもやはり一番大きなものが、かつてトゥルハン帝国最大の版図を描いたと言われる
その単体での大きさの他、病院や
――そんなわけで、お偉い様が、孤児院に視察に来られるそうなのよ。
昨夜、今日の予定としてナクシディルからそう伝えられた。
過去にも、高官やその夫人たち、場合によっては他国の領事館の夫人たちが見に来る事もあった為、それ自体はさほど珍しい話ではなかった。故に、「ふぅん」とだけ返事をしておいたのだが、辿り着き、いつも通り差し入れのお菓子を配っていた時にナクシディルより礼拝堂が特に変わりないか見てきてほしいと頼まれた。
何でも、「お偉い様」とやらがそこも見学をするようで、まさかそこで隠れ潜んでいる子供はいないだろうが、念のために見て来てくれという事だった。
(まぁお偉い様って言っても、普段は滅多に入れる場所じゃないし、豪華絢爛なのを見せたいってのはわからなくはないけどさ……)
トゥルハン帝国が誇る最大規模のモスクであるからこそ、子供たちの悪戯の痕跡でも客人に見つかったら騒ぎになるという判断らしいが、そもそも日頃モスク含めこの敷地全てが孤児の為の場所なのだから、悪戯のひとつやふたつ、大目に見ろというのがヒュマシャの正直な感想なのだが。
(まぁ、それで何かあったら叱られるのはナクシディルだし……確認しに行くかな)
日頃、孤児院でメインに使用している建物から、大ドームの天井を頂く礼拝堂へと足を運ぶ。途中、何やら外から人の出入りがありそうな雰囲気が感じられたので、恐らくあれが例の「お偉い様」なのだろう。
モスク正面から見たときに裏側となる扉を開け、室内へと足を踏み入れる。高い高い天井からは大きなシャンデリアがぶら下げられており、高い位置にある窓から差し込む光をキラキラと弾いていた。
大ドームの内部の壁には、あの【
その大きさにしても、子供たちが走り回ってもぶつかり合う事のないほどの広さを有しているし、如何に宗教的な場所とは言え基本的に閉鎖しておくのは勿体なく思えてしまう。
(まぁ、そうは言っても普段から誰かしらここに侵入して遊んだりしてるんだけど……)
けれど、流石におやつの時間であるせいか、くるりと一周見回した限り、特に子供たちが潜んでいるようにも、悪戯で何かが壊されているようにも思えない。とは言え、この礼拝堂はとにかく大きく広く、四方の柱の内部が小部屋になっていたり、それ以外にも数え切れないほどの窓や、円柱などで死角となっている箇所が多く、正直パッと見ではわからないというのが本音である。
(……ま、いっか)
如何に「お偉い様」と言えど、この巨大な空間に通され、ちまちまと細かいところなど見るはずないに違いない。――と、無理やり少女は結論づける。
(でも「お偉い様」かぁ……)
何をしに、来るのだろうか。
数か月前の林檎売りの老婆以降も、幾度となく
曰く、諸外国にかぶれてこの国が大切にしてきたものをないがしろにしている、だとか。
曰く、国庫を無駄に消費し、軍事に金を注ぎ込んでいる、だとか。
曰く、二年前に戦わずして憎っくきルーシ大公国に和平を申し出た、だとか。
その全てがある意味ごもっともであり、けれどその全てに反論したくなる――そんな声だった。
(国民は、望み通り、アンタの悪ぅい噂話で大騒ぎよ)
ルトフィー。
少女はかつて、悪逆非道の最後の皇帝になるのだと笑っていた青年へと話しかける。
そのくせ、いまだあれ程待ち望んでいるはずの【革命】は起こる事なく、今日もこうして「お偉い様」が彼の
(……しっかし……、何度見ても、だだっ広い空間よねぇ)
くるり、と見回したこの室内は、何度見ても大きいの一言だ。
ヒュマシャの故郷にあった小さな教会とはそもそも比べ物にならない大きさなのだが、まず宗教が異なる為内部の様式がかなり異なる。故郷のルィムで信仰されていたものだと、礼拝堂の奥には聖人像が祀られており、司祭が司式する礼拝などが行われるが、トゥルハン帝国の国教・コアーム教だとまず、偶像崇拝が禁止されている為、この場所には信仰のよりどころとなるようなものは何一つ、存在しない。
そして、何より東方の風習を取り入れたお国柄のせいか、その他生活同様に、礼拝も床に座り行う。
そのために、毛足の短い厚手の絨毯がこの空間にも敷かれているのだが、その大きさを考えるにどれほどの時間をかけて織ったものなのかと察するに余りあるところではあるのだが。
(ここに、この国を守ってくれてる「神様」がいない事は、わかってるけど……)
そして、そもそもこの国の礼拝とは、そのような事の為にあるわけではない事も、わかっているが――。
(でも)
ヒュマシャは礼拝堂のほぼ中央まで歩を進めると、その絨毯の上へと腰を下ろす。シャリ、と衣擦れの音をシャルワールが立て、耳元でチャリ、と
正座をし、腰を正し――そして、彼らの「神」がおわすという方向へと、ゆっくり
(あたしは、もう二度と会えなくてもいい)
二度と、触れ合えなくても構わない。
(だからどうか、彼の未来を優しいものにして下さい)
――そんな皇帝陛下も、近々、奥方をついに迎えられるらしいわね。
ミフリマーフが言ったあの言の葉が、真実であるのならば。
どうか、彼を愛してくれる人と結ばれてほしい。
(……嫌だけど)
死ぬほど、嫌だけれど。
それでも、奴隷身分であったルィムの片田舎出身の娘である自分と、皇子として生まれ育ち、帝位に就いた彼との人生が今後、絡み合わない事くらいわかっている。
(わかってるから)
だから、どうか――彼に、暖かな優しい未来を、与えてほしい。
切なる祈りを込めながら、少女は額を絨毯の上へと置き、金糸を散らばす。
その、刹那――。
――バタン……っ
小さく扉のしまった音が響いた。
ハッ、と弾かれたように上体を起こすと、肩越しに振り返る。ここからは見えない位置の扉から入ってきたのだろうか。音の鳴った位置的に、孤児院のある方向からきた人間が入ってきたようには思えないが――。
「あれっ? 誰か来たー? もしかして、ルトフィーまた抜け出してきたんじゃないでしょうねぇ!?」
張り上げるように、声を飛ばした。
しかし、返ってくるのは静寂ばかり。自身の言の葉ばかりが、余韻を残し礼拝堂の中に溶けていく。
けれど、確かに
すると、柱の向こう側からひとりの影が現れる。やはり、先ほどの扉の閉まる音は聞き間違いではなかったようだ。ヒュマシャは上部の窓から降ってくる陽射しに、眩しそうに軽く、目を細め――そこに佇む人の姿に、文字通り、息を呑んだ。
襟に
二年前――。
さよならの言の葉と共に、別れた青年が、そこに、いた。
(昔より)
頬が引き締まって見えるのは、年を重ねたせいだろうか。
――否。
昔よりも、
キラキラと、上部のシャンデリアが乱反射した光が零れる室内で、一歩、また一歩と互いに近づいて行く。一言も言葉を発しないのは、もしかしたら今ある現状が真昼の夢か何かであり、音を立てたその瞬間に、幻のように消え去ってしまうかもしれないと、互いに思っていたからかもしれない。
どくん、どくん、と。
心臓が、胸の裡で大きく鳴り響く。
眼の奥が、喉の奥が、ひどく熱かった。
一歩。
また、一歩。
互いの距離が、言葉にならない想いで埋まっていく。
足音を吸いとる絨毯の上で、互いの影が重なり合うほどに近づいて――そして。
「何で、『会えないでもいいから』って幸せを祈ったその瞬間に、出てくんのよーっ!!」
ヒュマシャは食って掛かるように、ガシッと彼の襟元を掴みながら声を荒げると、表情を固まらせたままでいた青年が「あぁ!?」と眉根を寄せて語尾を持ち上げた。
ふわ、と香る空気は、柑橘系のそれ。
「あたしがさっき、もう会えなくてもいいから、アンタを幸せにして下さいって神様にお願いしたのに、アンタと会っちゃったらもう全部、無効になるじゃない!! あたしの願いをどうしてくれんのよっ!!」
「んなもん知るかっ!! 大体神様って何だよ!!」
「神様って言ったら神様でしょ! あたし他宗教だし、よく知らないけど、コアーム教の神様!!」
「コアーム教の神様は、そんな願い聞いてくれるような神様じゃねーわっ! 大体ここは神様へのお願い事する場所でもないだろっ!?」
「知ってるわよ! だけど、縋りたかったんだもん!!」
アンタが、これからの長い長い人生、ちゃんと幸せになれるようにって……!
ヒュマシャの双眸が一気に潤んだ。
青年の襟元を掴んでいた少女の手へと、彼の大きな手のひらが重ねられた。相変わらず、硬く、厚く、大きな手のひらだった。
「……ヒュマ、シャ」
ルトフィーの、声が、少女の名を呼んだ。
つ、と持ち上げた睫毛が、瞳に溢れた涙を弾く。
その、瞬間。
青年の胸の中へと、少女の痩躯が閉じ込められた。
ふわ、と柑橘のにおいをたてながら、金糸が舞う。
「……ヒュマシャ……ッ」
自身の名が、頭上から降ってきた。
ぎゅ、と痛いほどに抱きしめられた背が、弓なりに撓る。
踵が絨毯から浮かび上がり、ルトフィーの長衣の中にしまい込まれた。
ヒュマシャは次々に溢れてくる涙を、青年の
日頃、余計な事までぺらぺら喋る唇が零すのは、嗚咽を堪える吐息ばかり。
「なん、で……なんで、ここに、いんのよ……っ」
「アホか。俺、この国の皇帝だぞ」
しゃくあげながら、恨み言のように呟けば、ある意味当たり前の答えが返ってきた。確かにここは、子供たちに開放されたとは言え、皇帝一族の財産のひとつである。
そして、元々彼が
割と怒りっぽくて、礼儀作法に厳しくて口煩い。
軽口の応酬からの口喧嘩なんてしょっちゅうしていた。
そして、それに飽きた頃、互いにちらりと窺い見て――そして、あの垂れた双眸が微笑む、その瞬間が好きだった。
好きだった。
いとおしかった。
別れを、選んでしまえるほどに。
「なによ……あた……、あたし、あたしが、どんな……どんな、想いで……ッ」
どんな想いで、幸せを願ったのか。
会えなくてもいい。
ただ、生きて、幸せに生きてくれていたらそれでいいのだと。
「あた、あたし、そう思って……っ」
痩躯を抱きすくめていた腕の力が緩まり、青年の瞳が少女の
藍晶石と、榛色が、重なり合う。
頬を濡らしていた涙を、青年の親指が掬い取り、そのままその手のひらは耳朶を捉えた。チャリ、と耳飾りが音を立て、指の間に金糸を絡ませた青年の影が、少女へとゆっくり落ちてくる。
「……逢いたかった」
互いに求めるように近づけた口唇が、交わされるその瞬間に本音を零した。
吐息を絡め、その奥にある熱が欲しくて、舌を食む。
どちらのものともわからない濡れた音が、礼拝堂に響き渡った。
(あたしだって)
逢いたかった。
逢いたかった。
ただ、逢いたかった。
少女の指が青年の頬へと這わされる。
二年前よりも、やつれた頬。
誰よりも幸せを願ったその人の、二年間の孤独がそこにあるような気がして――。
ヒュマシャが彼の首へと腕を回そうとした、その時。
「おい……ッ!! お前!! ヒュマシャに何してるんだ……ッ!!」
広い広いその部屋に、声変わり前の少年特有の甲高い声が響いた。
ヒュマシャは肩をビクッと震わせ、慌ててルトフィーから僅かに距離を取る。視界の端で、む、と不満げに眉の間に皺を刻んだ青年の姿が見えたが、とりあえずそれはいまは放っておこう。
少女はひょい、とルトフィーの身体から声の上がった方へと顔を出すと、案の定、そこには顔見知りである利かん気の強そうな少年の姿。
「……
「ルトフィー??」
自身の名を呼ばれたと思ったらしいこの国で最も尊い存在である青年が、軽く目を見開くのを、少女は苦笑で受け止める。
「おい! お前……! ヒュマシャに何してんだよ……!」
「……いや、あの……ね。何もされてないから」
「されてなくないだろ。したぞ、俺は」
「ちょ、ルトフィー! アンタは黙ってて!」
「……え? ルトフィー??」
どうやら乱暴をされていると勘違いしているらしい
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