4-8
ス、と冷たい風が、頬を撫ぜた。
ふわり、
(……残り香か?)
寝所でこそ、女々しく過去の記憶にすがるように薔薇の香水をときおり眺めているが、その時にでも誤って肌についてしまったのだろうか。流石に日常使いはしていないし、先ほどまでは気が付く事もなかったので、さほど気にする必要はないだろうが、それでも内心かなり気まずい。
(まぁ、じゃあ女々しくそんなもの持ってるなっていう話なんだが……)
目を閉じれば今も鮮明に思い出せる、あの少女を――。
それでも、もう二度と触れることは愚か、きっと目にする事さえ出来ないあの少女を、色濃く自身の中に留めておきたくて、彼女のまとっていたその香水を寝所で眺める夜がどうにも手離せそうになかった。
(未練、だな)
きっと薔薇のにおいが鼻腔を擽ったのも、そんな自身の記憶が思い出させた幻なのかもしれない。
「陛下、こちらです」
「あぁ」
案内に従い歩を落として行く道は、このトゥルハン帝国最大の繁栄を築き上げたエルトゥールル一世の命によって建てられたモスク。高い
――牽制の意味も含めて、一度孤児院となっているモスクの視察をお願いしたいという話です。
少し前に、
なるべく早めに予定を組んで、とは言っていたが、流石に一国の皇帝ともなれば、各部門との調整が必要で、結局こうして足を運ぶ事が出来たのはそろそろ冬も終わりに近づき、春の訪れを感じ始めた
今年の冬はよく雪が降った為、このモスク前の広場や、隣接する
(あとは近い将来、全ての子供が学校に通えるようになれば一番いいんだけどな)
現状の「保護された子供たち」のままでは、革命軍の一部からの勧誘を受けて、その道しか選べない人生になってしまう。出来る事なら、いくつもの道があるという事を知った上で歩みを進めてほしい。
(まぁ、「皇帝」という道以外なかった俺が言っても、説得力ないけどな)
――アンタにだって、この後、長い長い人生があるじゃない……。
かつて、自身にそう言ってくれていた少女がいた。
けれどきっと、自分の人生の果ても皇帝で終わるのだろう。
――例え、革命が成ったとしても。
ルトフィーが窓から差し込む陽射しに軽く目を細めながら、ふ、と前を歩いていた背が止まったことに軽く眉を寄せる。目の前には礼拝堂へと続く道が走っており、流石に子供たちの日常の様子を見に行くにふさわしい場所とは思えなかった。
「おい、この先、礼拝堂じゃないのか?」
すぐ後ろに控えているユーフスへと肩越しに訊ねると、「えぇ」と返事がされた。
「ただ、ちょうど陛下がいらしたわけですし
「それはさっき聞いた。で、なんで礼拝堂なんだ?」
「それで、実は今、子供たちは彼女が差し入れたおやつの時間になってしまったらしく。流石に、子供が騒ぎながら食べているところをお見せるのもどうかとこちらで子供たちの面倒を見ている職員が言い出したらしく……」
「あぁ……なるほどな。別に俺は構わないが……。まぁそう言うなら、今日は時間にも余裕あるし、そっちは急かさなくていい」
「ありがとうございます。というわけで、滅多に陛下もここにはいらっしゃれないので、エルトゥールル一世がお作りになった礼拝堂にでも行かれてはどうですか」
「どうですか、って言うか、もう行かせる気満々だろ……ここまで来たら」
苦笑交じりに、目の前まで迫っている礼拝堂のを指させば、「よくお分かりで」と粛々とした表情を返される。そのわざとらしさに、ルトフィーは瞼の上に呆れにも似た感情を貼り付け睨むと、彼の唇が堪えきれないように笑いを噴き出した。
彼との付き合いも既に五年以上になる。最初こそ皇帝とその
(少し……兄上たちに似てるかもしれない)
幼い頃、遊んでくれた既にこの世には亡い兄を思い出しながら、ルトフィーはユーフスの笑いに釣られた様に唇の端を持ち上げふ、と笑いを零した。
ともあれ、ルトフィーにとってはこのモスクを作った人物は、九代前の皇帝――家系図的には高祖父のさらに父に当たる先祖だ。復位と共に、
「とは言っても、この礼拝堂に来るのも……二年ぶりくらいか」
「復位された折に一度、参られた時以来ですから……そうですね」
「じゃあ言われた通り、大人しく、ここで礼拝でもしておくか」
「俺たちはこの辺りに控えておりますので、満足されましたらお出まし下さい」
「なんだ、その満足って」
礼拝堂から僅かに離れた場所で足を止めたユーフスに、ルトフィーはふっと肩越しに笑いながら、そのまま歩を進めていく。
礼拝堂である大ドームは、本来ならばここで幾人もの人間が集まり、合同礼拝が執り行えるようになっているため、いくつもの扉が備えつけられている。ルトフィーは適当なところで止まると、扉へと手をかけた。
キィ、と小さな音を立てた先には、
四つ角にある巨大な柱は、内部が小部屋となっており、かつてここで祭事が行われた際には管理室のような使い方をされていたのかもしれない。
ルトフィーが絨毯の敷かれた内部へと、足を一歩進めると、背後でバタン、と扉が閉まる音がドーム内に思いの外響いた。
――刹那。
「あれっ? 誰か来たー? もしかして、
部屋の奥――柱の陰に隠れたその先から飛んできた、その声に、青年の心臓がどくんっ、と大きく撥ねる。
何故自身の名が呼ばれたのか、という事よりも、その、声に。
――ルトフィー!
笑顔と共に、いまも鮮明に思い出せるその、声に。
青年の喉が、せり上がってくる心臓を押さえつけるようにゴクリと鳴った。
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