4-6

 トゥルハン帝国・第二宰相ヴェジール・サーニたるユーフス・パシャが帰宅したのは、降り積もった雪が夜の寒さにガチガチに凍り付き始めた時刻だった。

 シン、と冷えた夜の空に、満月には僅かに足りない歪な円が転がっており、雪の表面にキラキラと光を落としている。新宮殿イェニ・サライから屋敷までの大通りは既に除雪がなされていたが、その両脇や屋敷の中にはいまだ白い雪がたっぷりと積もったままになっている。

 先ほど中庭を通りがかった時に見かけた雪だるまカルダンアダムは、既に夢の世界の住人になっているはずの息子の作ったものだろうか。


「ヒュマシャが?」


 ユーフスは、いつも通り給仕をしてくれる妻が、語った昼間の出来事に軽く目を見開きながら語尾を持ち上げた。夕食に用意されていた、ペーストした茄子とトマトと香辛料で味付けされたシチューから羊肉を掬い上げていたスプーンが、再びそのとろりとした中へと落ちていく。

 彼女は、ユーフスのおもてから視線を逸らす事なく、「えぇ」と柳眉を顰め頷いた。


「日頃から、喜怒哀楽が豊かな子ではあるけど、あそこまで陛下の事で感情を爆発させたのなんて、ここ最近は見たこともなかったから……」


 ヒュマシャをルトフィーから預かって、二年。

 生まれつきそういう性格というのもあるのだろうし、十六歳という年齢もあっただろうが、ここへ来たばかりの頃は、感情の起伏がいまよりもずっとずっと激しかった。ユーフスやナクシディル、家の者に対して怒鳴り散らすような事は流石になかったが、楽しげに笑っている時と、なにか・・・を思い出したように沈み込んでいる時の差が、大きかった。

 ナクシディルの話では、夜中に泣き声が部屋から聞こえる時もあったという話である。けれど、それは時間の経過と共に徐々に薄れていき、ここ最近はそういった事もなかったようだが。


「まぁ、そうは言っても……陛下個人の話を、俺たちがヒュマシャの前では意図的にしていなかったっていう事実は、確かにあります」


 ユーフスが、この国の第二宰相として、皇帝スルタンの右腕として生きている限り、どうしたって家庭の中でもルトフィーの影を感じてしまう瞬間というものはあるだろう。けれど、彼女に涙を流させた「ルトフィー」の話題を進んで出せるほど、無神経にもなれなかった。

 しかしその結果、彼女自身自覚していなかった我慢になっていたのだとしたら。

 逢いたくて、逢いたくて、離れたくなくて。

 行き場のないどうしようもない想いを抱えていた少女へと、見知らぬ人間が「ルトフィー」の話題でその心に穴を開けたのだとしたら。

 溜め込んでいた想いが、捌け口を求めて爆発してしまうのもわからなくはない。


「逢いたくても、もう二度と逢えないという絶望は、俺も経験ありますから」


 でしょう? チェスカお嬢さま・・・・・・・・

 ユーフス自身、かつて仕えていた屋敷の「お嬢さま」だったナクシディル――否、フランチェスカが攫われてから、彼女を探すために単身この国にやってきた過去がある。その必死の想いに神が慈悲を与えてくれたのか、偶然をいくつ重ねても足りないほどの奇跡によって再会し、彼女を得る事を許された。

 けれど、好きだと――いとおしいのだと思った人に、二度と逢えないかもしれない恐怖は、いまも忘れる事は出来ない。


アル・・。わたくし、その名前はもう捨てたって言わなかった?」

「……でしたね」

「『フランチェスカお嬢さま』と『馬丁のアルフォンソ』のままでいたら、わたくしはお前と結婚できなかったのよ」


 再会後、ルトフィーから手つかずの彼女を妻として下賜されたが、ユーフスは最初、彼女とそうなるつもりなどなかった。馬丁ではなくなってしまったが、それでも自身の主として仕える気でいたのだ。

 けれど。


  ――わたくしは、お前のなに?


 そう、問われた。


  ――もうわたくしたちは、「フランチェスカ」と「アルフォンソ」じゃない。「ナクシディル」と「ユーフス」なの。わたくしたちは、その名を、この数年の自分たちを、認める事が出来ないままなら、きっと出会う事さえ出来なかったのよ。


 それでもなんとか、自身にとってはいつまでも仕えるべき主なのだと頼み込み、このトゥルハン帝国どころかまだまだ諸外国でも珍しい「妻が上位」の夫婦がここに誕生したのだ。


「まぁ、ナクシディルもさっき、俺の事を『アル』って言ってましたけどね」

「わざとです」

「知ってます」


 互いに見遣った瞳に苦笑にも似た色を滲ませて、ユーフスは再びスプーンを持ち上げ羊肉を口の中へと放り込む。じゅわ、と広がる独特の味わいが、この国に来たばかりの頃は苦手だったが、いつしか慣れる程にこの国の生活に染まってしまっている。


「で、話は戻りますが……」


 ユーフスは口の中の羊肉を嚥下し、妻へと視線を寄せる。


「それで、その後はその老婆とは何事もなく?」

「えぇ。ヒュマシャもわたくしが声をかけたらすぐに落ち着いたし、老婆も少し言葉が過ぎたって恐縮していたから、その場は、ね。ただ……」

「ただ?」


 ナクシディルは、す、と夫から灰簾石タンザナイトの瞳を外すと、両手に持っていた珈琲カップの中にある黒いその液体へと、睫毛を落とした。そして沈殿する粉を含んでしまったかのような、何とも口当たりの悪そうな言の葉をぽつり、ぽつり、呟いていく。


「これはもう、昨日今日の話ではなくて、老婆にしても、他の市民にしてもそうなんだけど……。ルトフィー殿下の評判というものは、あの方が行われているまつりごとに全く見合っていない、悪いものだわ」

「……そう、でしょうね」


 ユーフスは、カチャ、とスプーンをシチューの中に浸すと、唇へと軽く、歯を当てる。どう答えていいものか、と一瞬悩むが、何を言ったところで結果は同じだ。彼は、是と妻へと頷く。


「そうなるように、陛下ご自身が仕向けていらっしゃるのだから」


 日陰者の身であった【黄金の鳥籠カフェス】の主から、一国の皇帝に彼が復位したのは、まさにその為・・・だった。女人の天下カドゥンラール・スルタナトゥで腐り切った帝国を終わらせるため、時代外れとなりつつある専制君主国家を終わらせるために、皇帝に返り咲いた。

 最後の皇帝として、少しでもかつての強さを取り戻した状態で、民主国家として生まれ変われるように――と。

 半ば強引に恩恵改革タンジマートを進めたのは、少しでも国力を諸外国に追いつかせるためだった。

 それが、民衆からの反感を買う事を知っていても。

 ――否。


「わざと民衆感情を逆なでるような事も、されているって事?」

「はい。密かにご自身の手の者で、革命を煽動なさっておいでです」

「……全ては、この帝国をご自身で終わらせるため?」

「でしょうね」


 二年前、決起したあの時の想いのままに、皇帝としての道をひたすらに、突き進んでいるのだろう。


(たった、お独りで)


 ユーフス自身、ルトフィーには一生かかっても返せそうにないほどの多大な恩がある。否。ナクシディルのことを抜きにしても、ルトフィーという青年個人に対して決して嫌な感情は持っていない――どころか、人として好きな部類である。

 一番最初に小姓ハス・オダとして仕えた頃からずっと、弟がいたらきっとこんな感情を抱くのだろうなと思いながら接してきた相手でだった。

 故に、国内でなにも知らない者が彼を悪し様に言うのは、正直不快の一言だ。


(だから、ヒュマシャが今日、その林檎売りの老婆に怒ったという気持ちも、わからなくはないんだ)


 出来る事ならば、国民から好かれる皇帝であって欲しかった。

 その愛情を受けるに足るほどの、人物なのだから。

 けれど。


(陛下のお心は、もうずっと前に決まっていて)


 彼の望みは、この国最後の皇帝となる事。

 この国を少しでも豊かにし、他国に怯えずにいられるほどに強い国にして――そして、国民に、国を任せる事。

 それが、主の望みなのだと、ユーフスはそれにずっと従って生きている。


「なのに、陛下に皇后を――なんて話も出てくるのね」


 ナクシディルのどこか冷めたその声音に、ユーフスの瞳が驚きに丸まった。ハッ、と弾かれたように彼女へと視線を這わせれば、日頃優しげな妻のそのおもてがその声の温度に合わせたように硬いものになっている。


「……ナクシディル……、どこで、それを……?」

「それほど焦るという事は、本当なのね?」


 手の中にあった珈琲カップを、彼女は傍らへと置くと、手を膝の上へと置いた。ユーフスは一度、口内でうまい言い回しを探すが、常よりも険しい表情の妻の視線にため息混じりに是と頷く。


「どこから、それを? 流石にそんな話は、市井には出回っていないはずですが」

「ヒュマシャよ」

「ヒュマシャ?」

「今日、孤児院に慰問に行ったって言ったでしょう。そこで、前皇帝陛下だったマフムトさまの側室イクバルだった方……、確か名は、ミフリマーフさまと仰ったかしら。その方に、会ったんですって」


 ミフリマーフと言えば、確かに前皇帝・マフムトの寵愛が一番深いと噂されていた側室だったはずだ。ユーフスも、二年前のあの日、旧宮殿エキス・サライへと連行する為に後宮ハレムを訪れた際、ちらりとその姿を見かけたことがある。

 近い将来、寵姫ハセキと呼ばれ第一夫人バシュ・カドゥンとなるだろうと思われていた少女である。


「でも、彼女は確か……ケトロンポルス市内の商人に見初められたのでは……」


 旧宮殿の管轄は、ユーフスではないものの、ちらりとそんな話を聞いた気がする。何かと揉め事の中心部にいた彼女がいなくなる事で、ひとつ厄介事が片付いたと担当者が安堵していたはずだ。


「えぇ。その夫が、孤児院に食品を納めている商人だったそうよ」

「……なるほど……」


 ヒュマシャを【黄金の鳥籠】へと追いやったのも、確か彼女だった――というような話を昔、ルトフィーがしていたような気がする。故郷を同じくする知己であり、仲は良くなかったらしい。

 皇帝と、彼女の関係をミフリマーフが知っているわけはないので、別に他意があったわけではないのだろうが、随分と厄介な噂話・・を聞かせてくれたものだ。

 ユーフスは、はぁ、とため息を再度吐くと、頭布ターバンの中へと指を突っ込んで、がり、と掻いた。


「実のところ……、いま国に対して、反乱とまではいかないが、政治において様々な要望を陛下へと出してきている連中……いずれ、陛下の望む革命を起こしてくれる奴らから、そういう話がないわけじゃないんです」

「……っ、待って。陛下の婚姻の話って、革命軍側から出ているものなの!?」

「はい」


 国へ――延いてはルトフィーへと、政治的な様々な要望を出しているのは、このトゥルハン帝国の様々な地域に暮らす地方名士アーヤーン多い。けれど彼らとて、全員が全員純粋な気持ちで国の為に立ち上がろうとしているわけではない。

 一枚岩ではないからこそ、他者を出し抜こうとしている面々もいるのだ。


「あわよくば自分の娘を、って寝返ろうとしている者がいる事も確認しています」

「そんな……」


 ナクシディルのほっそりとした指が、彼女の震えた声に覆いかぶさるように、唇へと当てられた。美しい形をしている眉は、いまは不快な感情に顰められている。


「ルトフィー陛下は、それに気づかれているの? 革命軍が、そういう腹づもりでいるかもしれないって……ご存知なの?」

「はい。だからこそ、革命軍側が内輪揉めの抗争を始める前に、終わらせたいとは言われてましたね」


 そういう一物抱えたような人間は、いずれ組織の中でも癌になる存在であり、淘汰されていくのだろうが、その前に下らない内部の争いによって革命軍そのものが疲弊するのは、帝国の終わりを望むルトフィーにとっても本末転倒だ。

 故に、ここ最近はずっと、この問題に早い段階で決着をつけようと――疲労の色を隠そうともせず、政務を行っていた。

 まるで、生き急ぐかのように――。


「ねぇ、ユーフス」

「はい……?」

「……わたくし、わからないのだけど。陛下の仰る、『帝国の終わり』は一体どんな形になるの……? 帝国の後は、民主国家になるのだとしても、フェロス王国の君主のように、ギロチン台の露に消えたり、しないわよね……?」

「それは……」

「わたくし、あなたほど陛下については知らないわ。でも、かつて陛下の後宮に入れられた後、拝謁した時のお姿はとても生き生きとしていらした。女は、お嫌いで、後宮に足は運ばれなかったけれど……、小姓たちと談笑するお姿は、生き生きとしていらした」


 かつて、ユーフスが仕えた姿も、その通りだった。

 母親である皇太后ヴァリデ・スルタンとの関係は冷え切っていたが、それでも生きる為に、生きていた。生きて生きて、この国を再びかつて強国であった頃のようにするのだと――そういう気力に満ちていた。

 けれど。


「今の陛下は、やがて来る死のために、生きている気が……俺もします」


 その「死」が、トゥルハン帝国という国なのか――それとも、ルトフィーという個人なのかはわからないが――。


「ヒュマシャなら……、そんな陛下を叱って生きる為の力を与えられたり、するのかしら……」


 妻の呟いたその言の葉に、ユーフスは静かに瞳を伏せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る