4-5

 一瞬驚いたように、その大きな瞳が見開かれたが、次の瞬間には美しい宝玉はふわりと柔らかく笑みを模った。


「あら、随分懐かしい顔だわ。お久しぶりね、ヒュマシャ」


 彼女の名を口にしたものの、正直他人の空似――もしくは自分の目の錯覚であると思っていたが、記憶の通りの声で返事をしたところを見る限り、どうやら本物らしい。この世にふたりといない程の美少女という事はわかっていたが、それでも流石にこの偶然は、正直俄かには信じ難いものだった。


「ミフリマーフ……、なの? 本当に……?」

「やぁね、私以外の人間に見えるのかしら?」

「見えないから悩んでんのよ」


 ヒュマシャは新たな悩みの発生に、はぁ、とため息をひとつ零すとふたりの元まで足を運ぶ。腹の黒さで言えば相当なものではあるが、肉体的に凶暴性があるわけではない――と思われる――彼女が、今すぐルトフィーに何か危害を与えるとは思わなかったが、この孤児院は国の慈善活動ワクフによって経営がなされている場所であるために、申請なしに部外者の立ち入りは禁じられていた。


「なんでアンタ、孤児院こんなとこいんのよ?」

「あら、久しぶりに再会した懐かしいお友達に対して、随分なご挨拶ね。言っておくけど、無断で入り込んだわけじゃなくってよ。ちゃぁんと許可は得ているわ」

「まぁ、常識的に考えりゃ、そりゃそうでしょうよ」


 特に警護などがつけられているわけでもないが、曲がりなりにもここはかつての皇帝が建てたモスク。孤児院として開放されているとはいえ、現段階においても、国の所有地である事には変わりない。

 そんな場所に許可なくのこのこ入り込む人間が、そうそういるわけもないだろう。


「……えっ、友達?」


 ヒュマシャとミフリマーフの顔へと交互に視線を向けていたルトフィーが、ミフリマーフの戯言を拾い、小さな声を零した。


「……同郷で顔見知り、程度をそう呼ぶなら、そうなのかもね」

「やだ、ヒュマシャったら。後宮でもあれほど仲良くお喋りしたじゃないの」

「……いや、清々しいほど、そんな記憶全くないけど……。ってか、そうよ。なんでここにアンタがいんのよ?」


 二年前、ルトフィー一世の政変クーデターによって、前皇帝スルタンであったマフムトは退位に追い込まれどた。その身柄は、旧宮殿エスキ・サライにてトゥルハン帝国の新たな軍部組織である新しい秩序ニーザム・ジェディードに監視されている状態だ。

 そして、それは彼の後宮ハレムにいた数多のジャーリヤ側室イクバル、彼女たちの頂点に立つ皇太后ヴァリデ・スルタンたちも同様で、ミフリマーフも例外なくそこに幽閉に近い形で閉じ込められていたはずだ。

 ただ幽閉といっても、罪人の扱いでは勿論なく、きちんと生活は保障されている。解放してしまうと政治的な問題に発展する可能性のある前皇帝・マフムトと、皇太后・マフヴァシュ以外は、それぞれが望むのならば外の世界に出て、故郷へ帰る事も許された。

 もっとも、貧しいからこそ実の親に売られたり、そうでなくとも人攫いに遭ったりして、この国に辿り着いた者たちばかりである。帰る故郷も待つ人も、そう多くいるわけではないのだが。


(でも……、そうか。彼女の場合、帰る場所……なくはない、のね)


 ミフリマーフ――ガリーナ・・・・は、貧しい村ながらも領主を務めていた家の娘だ。ヒュマシャでさえ、売られてきた時の状況、その身元はきちんと把握されていた。彼女もきちんと調べてもらえば、故郷に連絡を取り、家族の許へ戻る事も出来たに違いない。

 それを訊ねると、彼女は柔らかな微笑みを浮かべていたおもてを一瞬で、温度のないものへと変じさせた。


「あら。ポーリャ・・・・、知らなかったの?」

「知らなかった、って……何を?」

「そう、知らなかったのなら教えてあげるわ。……ちょっと前に、ヒスニキア風邪ってのが大流行したの覚えてる?」

「……ヒスニキア風邪って……、あの、たちの悪い……??」


 ヒュマシャがトゥルハン帝国に売られて間もないころの話だが、ヒスニキアという国で発祥したといわれている風邪が猛威を振るい、世界中で多大な死者を叩き出した。

 トゥルハン帝国でも死者は出たのだが、後宮入りするべく育てられていた真っ最中だったヒュマシャは、外部との接触が極端に少なく――彼女だけではなく、この国の大半の女性が当時、外をあまり出歩く習慣がなかった為、他の国に比べてその死者数はさほど多かったわけではなかったらしい、と後々人の話に聞いた事がある。

 また、この国の浴場ハマムという文化が、その予防に一役買ったとも言われているらしく、その疫病においては、この国は運が良かったと言えるのかもしれない。


「そう。その、たちの悪い風邪……、ルィムでも大流行したらしいわ」


 ミフリマーフはそう言うと、自嘲にも似た笑みを鼻先に滲ませた。


「ルィム、でも……、って事は」

「そう。私たちの、あの村でもって事よ」


 ドクン、と大きく胸の内が、鳴った。

 一瞬で、心臓が冷や汗を掻く。

 ミフリマーフの話す内容によると、いまから五年前――ちょうど、ルトフィーからマフムトへと帝位が移った頃の話らしい。

 ただでさえ貧しいあの村には、都会のように立派な手術施設や治療が出来るような病院は存在しなかった。医者はいるにはいたが、薬も高価だったために、誰もが気軽に掛かるような事もなかった。

 ミフリマーフの家は領主であった為、そんな事もなかったのだろうが、それにしたところで各国の都市部でさえも太刀打ちの出来なかった風邪が、あんな小さな村の医者でどうにかなったわけもない。


「村で最初に倒れたのは、隣村から嫁いで来たばっかりのキリルさん家の嫁だったらしいわ。まぁ大きな村でもないからね……次は誰、なんて思う間もなく、あっという間に村中が感染していって……」

「…………みんな、死んだの?」

「らしいわよ。まぁ生きている人もいるんでしょうけど、少なくともうちの親は死んだらしいわ」


 親だけでなく、兄や姉、親戚もみんな、死んだのだと彼女は言った。


(……あたしの)


 親は、どうなのだろう。

 家族は、どうなのだろう。

 ただでさえ、みんな明らかに栄養が足りない貧相な身体をしていた。

 こういうものは運もあるのだろうが、それでもより不健康な人間から死んでいくのは当たり前の話だ。


(多分)


 死んでしまったのだろう。

 既に縁が途絶えて、八年になる。

 もう、浮かぶ顔さえおぼろげになっていた。

 声はすでに思い出せない。

 ちら、とミフリマーフへと視線を這わせば、日頃の華のようなそのおもてから色が完全に失われているが、その美しい瞳は乾いており、涙は一切、浮かび上がってはいなかった。


(ま、それもそうか)


 八年――。

 共に売られ、八年だ。


(そりゃあたしだって、親が死んだって聞かされたら、何となく感傷的な気持ちにはなるけど……)


 それでも互いに、親の死に涙を流すだけの感情が起こらないのは、きっとあの八年前、共に売られたあの瞬間に、親には二度と会えなくなるという覚悟が、知らず出来ていたのかもしれない。


「まぁ、そんな話もあって、戻る故郷は既に私たちにはないのよ」


 その隣で話を聞いていた少年が気遣わしげな瞳を向けてくるのへ、ミフリマーフは安心させるようににっこりと頬に笑みを刷く。相変わらず、外見だけは天使の微笑みだ。ルトフィーは照れくさそうに視線を彼女から逸らすと、僅か離れた場所まで歩いて行き、そこに腰を下ろして林檎へと歯を当てしゃくりと食べ始めた。

 どうやら、ミフリマーフとヒュマシャの話が長くなりそうだと判断したらしい。


「ってか、じゃあ尚更、行くとこないなら旧宮殿にい続けるもんなんじゃないの? 流石に出ていけとかは、言われないでしょ?」

「出て行けとは言われないけど、出ていきたくなる場所だった……って事かしらね」

「は? 出ていきたい??」


 曰く――。

 マフムトが帝位に就いていた頃であれば、その寵愛の深さが即ち後宮における権力と比例関係にあった。寵愛深いという事は、皇太后からの覚えもめでたいという事で、少なくとも後宮を追われる事になるその日まで、ミフリマーフのその影は誰にも踏まれる事はなかったらしい。

 もっとも、最後の方には皇太后からの評価が崩れつつあったという事は知っているが、それでもマフムト自身が一番可愛がっていたのは、ずば抜けた美貌を持つミフリマーフだったのだろう。

 けれど、既にマフムトも帝位にはなく、共に旧宮殿に幽閉されている。


(つまり、後宮時代にやりたい放題やってたミフリマーフは、旧宮殿では逆に他の妾や側室連中からイジメられてたって事か)


 性格に難あり、と現皇帝陛下より評されたヒュマシャも吃驚するほどに、ミフリマーフの腹の中は真っ黒で、根性はひねくれまくっている。人をいびる際には、決して自分は矢面に立たずに、取り巻きの者をけしかけ、最後に言葉柔らかに優しくトドメを刺して行く――というタイプだったが、流石に後宮生活が三年ほどにもなっていたら、他者からもその本性は丸見えだったらしい。


「まー、完全に、自業自得ってやつよね……」

「まぁ……、ヒュマシャってば……。私、あなたをお友達だと思っていたのに……そんな言い方、ひどいわ」

「だからいつ、アンタとあたしが友達だったのよ。言っちゃなんだけど、アンタがあたしを【黄金の鳥籠カフェス】に勝手に連れて行ったこと、忘れちゃいないんだからね」

「あら。あれは、迷子になったヒュマシャが、勝手に入ったんだって監督長クズラル・アースゥさまから、聞いていたわ」


 にこにこ、と。

 どこまでも天使の顔を崩すつもりはないらしいミフリマーフに、ヒュマシャは大げさなため息をひとつ、吐いてやる。


「で、結局アンタが孤児院ここにいる理由はなによ」

「あぁ、そうね。旧宮殿から逃げ出したくてつらい想いをしていた時に、ちょうど御用商人と出会ってね? そこで、見初められたのよ」


 後宮の女たちというのは、世間の男性からすると遥か見上げるほどの位置に咲く高嶺の花だった。それは、旧宮殿に移ってからも同じ評価のようで、市井の羽振りのいい商人や、新帝ルトフィー一世の御世になってから役職についた高官たちからも求められる事があるらしい。

 見初められた、と彼女は言っていたが、実際そうなるようにわざと運命的な出会いを演出したのだろう。だが、幽閉するにも、それは国の税金を使い行っている事であり、いい出会いや縁があるのなら、なるべく出すようにというのが皇帝の願いでもあるらしい。


「この孤児院に、旦那さまが食品を納めていらっしゃるの。今日は、その付き添いで来たのよ」

「……へぇ……、旦那さま……」

「とってもお優しい方よ」

「そりゃ、アンタみたいな性悪女と結婚するくらいだから、相当心広い人なのはわかるわ。ま、ともあれ、良かったわね。おめでとう」


 別に好きでもない――どころか、どちらかと言うと嫌いだが。

 それでも共にこの国に売り飛ばされ、同じく後宮に入れられ、その後も何かと縁続きの古い知己だ。ヒュマシャが祝いの言葉を口にすると、少女の瞳が一瞬、きょとんと丸くなり、そして「ありがとう。嬉しいわ」とふわり、微笑んだ。


「あぁ、でも……。私もヒュマシャとこんなところで再会するとは思わなかったわ。二年前のあの日・・・――ヒュマシャ、まだ【鳥籠】にいたのでしょう?」

「…………そう、ね」


 彼女の言うあの日・・・とは、間違いなくルトフィーが政変クーデターを起こした日の事だろう。その数日前には、後宮を抜け出し、ユーフス・パシャの屋敷に保護されていたので、彼女への返答は嘘だ。けれど、散々煮え湯を飲まされ続けた過去もあり、彼女への信頼など底辺も底辺。地面を掘っても足りない程に、低い。

 正直な事など、何ひとつ教えるなかった。

 彼と、自分との間にあったものを、何ひとつ、教えたいとは思わない。


「私は直接、あの方に会ったわけじゃないけど。多分、彼の命で、政変コトを起こす直前に、出ろって言われて後宮から突然出されたのよ」

「そう、なの? じゃあユーフスさまのお世話になっているのは、どうして?」

「さぁ? 出ろって言われて出た先で、そのまま保護されただけよ。その時、一緒に出た【鳥籠】の宦官たちもいま一緒にお世話になっているから、もしかしたらあたしを僅かなりとでも憐れんだ、皇帝陛下のご慈悲なのかもしれないわ」

「そう……」


 納得いっているのかいないのか、どちらともつかない表情で、軽く小首を傾げながらミフリマーフが頷いた。さら、と彼女の繊細な金糸が肩口から滑り落ち、ふわ、と薔薇のにおいが冷たい空気に舞う。

 懐かしい、後宮のにおいだった。


「でも、ヒュマシャ。本当に【黄金の鳥籠】でお手がついていなかったのね」

「…………だから、前、そう言ったじゃない」

「ふふ。だって……、こんなに可愛いヒュマシャなのに、お手がつかないなんてあり得ないって思うのが当然じゃない?」

「……言ったでしょ。偏屈な方なんじゃないの、って」

「ふ、ふふっ。不敬よ、ヒュマシャ。いまの皇帝陛下に向かって」


 かつて、後宮で交わした会話を再現してやれば、ミフリマーフはくすぐったそうに肩を揺らして笑う。


「あぁ、でも……そんな皇帝陛下も、近々、奥方をついに迎えられるらしいわね」


 一通り笑った後に、不意に思い出したようにミフリマーフが呟いた。ヒュマシャは一瞬で変わりそうになった表情に、無理やり無関心の感情を貼り付ける。


「あ……、そう、なの?」

「えぇ。私が旧宮殿にいた頃、だから……二か月ほど前の話になるけど。皇太后さまが、怒ってらしたもの」

「怒っ、て……?」

「ほら。この国って、元々皇帝の妻は、みんな後宮の女奴隷だったじゃない? でも、今の皇帝陛下が後宮を廃止してしまわれたし、諸外国のように正式な婚姻を結んで、妻を得るって話が出ているらしくて……」


 それを知ったらしい皇太后が、皇帝の母である自分が幽閉されているのに――などという怒りに震えていたのだと、ミフリマーフはその時の彼女の様子をクスクス笑いながら、楽し気に話している。「相変わらず性格が悪いな」と頭の片隅でぼんやり考えながら、それでも少女は心の中が、ぽっかり穴が開いたような気分に陥った。


(ルトフィー、が)


 奥方を、迎える。

 諸外国のように、正式な婚姻を結んで――。


(わかってた)


 皇帝となったルトフィーと、自分の人生が、今後交わることはないのだと。


(わかってた)


 あの日・・・、口にした「さよなら」は、嘘なんかじゃないって事は。


(わかってた)


 もう、二度と、会う事なんてない事くらい。


(わかってた)


 でも。

 何故か急に熱くなった喉へと、無理やりごくり、唾を飲み込む。


(胸が)


 痛い。

 苦しい。

 思わず視線を落とした少女の藍晶石カイヤナイトの瞳に、二年前踏み歩いたあの場所によく似た石畳が飛び込んでくる。

 長い睫毛を頬へと落とすと、さら、と肩口を流れた赤味を帯びた金髪が、背で揺れた。

 ふわりと漂うのは、柑橘系のにおい。


  ――ヒュマシャ。


 二年前のあの日、自分の近くに確かにあった人の声が、姿が。

 鼓膜で、眼裏まなうらで、蘇るのを、少女は感じた――。


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