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バイオールという地区は、トゥルハン帝国・首都のケトロンポルス中心部に位置しており、そこに建てられたモスクは、かつてこの国最大の版図を描いた
高い四基の
「……あらあら。相変わらず、すごい勢いねぇ……」
十日ぶりに訪れたその場所で、手作りのロクムや先ほど買った林檎を広げた瞬間、歓喜の声と共に子供たちが一斉にそれらに手を伸ばしてくる。生まれついてのお嬢さまだった彼女には、おやつの争奪戦の経験は流石にないだろうし、この光景になるたびに置いてけぼりになるようだ。
ロクムや林檎を手渡すと言うより、もはや手から奪われるような状況に対しておっとりと驚きの声を発するナクシディルに、少女は苦笑を喉で鳴らした。
「まぁ、あたしもルーシにいた頃、スープにジャガイモの欠片を見つけたら大喜びで誰にも取られないようにって口ん中、速攻で頬張ったし、正直、気持ちはわからなくもないけどね」
「まぁ、ジャガイモを?」
「うん。甘いのよ、ジャガイモ。だから、嬉しかったの……って、こらーッ!! 順番守んなさい!!」
一応順番と言ってはいるが、ご丁寧に一列に並んでいるわけでもない子供たちの集団は、やはり身体の大きな子が前へと出てくる。この孤児院にいる子供は、それこそまだ乳離れしていない乳幼児から、上は十歳ほどの子たちなので、食べる量にも差がありナクシディルの言うように全てを平等にというのはやはり難しい問題だとも思う。
(年齢ごとに、こう……分けちゃえばいいのかもしれないけど……。あ、でもそれはそれで、あっちは多いとかそんな不満になるのか)
一瞬思考の渦に入り込んだヒュマシャの隙を衝き、さっ、と後ろから手が伸びて林檎とロクムを奪っていった。
「ちょ……、待ちなさいっ!
子供たちの集団からあっという間に抜け出して去っていく小さな後ろ姿へ大声を上げ、少女は腰を持ち上げる。ちら、とナクシディルに視線を落とすと、彼女も苦笑を滲ませた
「ごめん、ナクシディル。ここ、頼んで大丈夫?」
「えぇ、頑張るわ」
そう答えた彼女へと一度、頷くと、ヒュマシャは膝を立て立ち上がる。シュル、と衣擦れの音と共に、
恐らく彼が向かった先は、礼拝堂だろう。
本来ならば宗教的な儀式や祈りの場だったそこも、このモスク全体が孤児院となったいまは、そういった使い方はされず、広く丈夫な造りという事もあり有事の際の避難所となっている。
とは言え、大人からすると、やはりそこは長年見てきた偉大なるモスクの礼拝堂に他ならず、あそこならば大声ではこっぴどく叱られない事を知っているのだ。
(まったく……要領がいいって言うか……ずるがしこいというか……)
同じ名前だというのに、どこまでも不器用な生き方しか出来ない
少女が日頃、小さな子供たちの昼寝の場所として使用しているこの小部屋を出ると、目の前には石畳の廊下が走っている。流石は皇帝の命で作られた建物だけあって、二年前に数か月過ごした
ヒュマシャは切なさを頬に滲ませながら、扉を越えて冷たい廊下へと足音を落として行くと、とっくに礼拝堂へと逃げ出したと思っていたルトフィーの姿がそこにあった。
「おい。お前、また割り込みしただろ」
「アリの事、押しやったの、俺見てたからな!」
「チビが最初だって言われてるだろ! 思いやりに欠けるんだよ、お前は!」
どうやら同年代の子供たちから、割り込みを非難されているようだ。とは言え、彼らの手にもしっかりと林檎が握られており、「ちびっこへの思いやりはどこにいったのよ?」と、内心ヒュマシャはツッコミを入れる。
如何に年長者組の子供たちとはいえど、まだ十歳。
まだ、十歳の子供たちだ。
我が身が一番可愛いのは当たり前。
しかもここにいる子供たちの大半は、二年前までは高官の息子として何不自由ない生活を送っていたのだから。
「ハーイ、ストップストップ。そこまでー!」
パン、パン、と手を叩きながら、少女は彼らへと声をかける。
ルトフィーを囲む少年たちが一斉にビクッと肩を揺らしたのは、自分たちのしている事に後ろめたさがあるからだろうか。
「ヒュ、ヒュマシャ……、あの、さ、これは……」
「なーに? 言い訳が先?」
「!! だって!! だって、コイツ、さっきチビのアリを押しのけたんだぜ!」
「知ってるわよ。あたしの目の前だったし。だから、お説教する為に、追いかけて来たのよ」
ちら、ちら、と、互いに視線を交わし合い、ヒュマシャの機嫌をそっと伺うように上目遣いに見てくる少年たちと、そこから数歩、離れた場所でブスっとそっぽを向いたルトフィーの姿。どちらも我儘を自由に言えて、自然に育っている、そんな子供たちだった。
けれど。
「ルトフィーが順番守らなかったのは、確かに悪いわよ。でもだからって、アンタらがそうやって集団で責め立てるのは、ただの弱い者イジメなんじゃないの?」
「俺、弱い者なんかじゃねぇしっ」
「こら。ルトフィー。ちゃんと、丁寧に喋んなさいよ」
「ヒュマシャだってお世辞にも丁寧な喋り方じゃないだろっ」
「あたしはいーの」
「何だよそれ。大人だからってズルいだろっ」
「そーよ。大人ってズルいの」
本当は、離れたくなどなかったのに。
あの場所から、出て行きたくなどなかったのに。
(物分かりのいいフリをして、)
自分の心にさえも、平気で嘘を吐いて何でもない素振りが出来る程度には、ズルいのだ。
自分の事を棚に上げて、にんまりと悪い顔で笑うヒュマシャへ、「何だそれ!」と子供たちから一斉に非難が上がる。
「ね? アンタたち、あたしみたいな大人になりたくないでしょー? ルトフィーが順番守らないのも、アンタらが寄って集って集団で責め立てるのも、ズルい事なのよ。今のうちにちゃぁんと、改めなさいよね」
「でも、ルトフィーは今回の事だけじゃないよ。ヒュマシャ来なかった時だって、こいつああいうズルばっかりしてんだぜ」
「そうそう。順番守らないし、超自分勝手なんだぜ」
「そうだ、俺、この前こいつに殴られた。注意しただけなのに」
日頃の不満もあったせいか、ヒュマシャの非難が呼び水になってしまったようで、少年たちから次々に出てくるのは、ルトフィーへの不満の言の葉。集団でルトフィーを責める彼らにも当然非はあるのだが、言われるだけの理由はルトフィーにもあるようだ。
(まぁ、こういう喧嘩って子供の内じゃないと出来ないし、あたしはいくらでもしとけばいいと思うけど)
ナクシディルには、自分たちの
(まぁ、この子にも、何か理由があってこういう態度になるんだろうし……)
そこを見極めて、根本解決した方が今後の為にもいいだろう。
そう思って事の成り行きを見守っていると、言われっ放しだったルトフィーの眦が、キッと持ち上がった。
「それは、お前らが俺のもの隠したり、汚したりするからだろ!!」
がなり立てるように叫ぶ少年に驚いたのか。
――否。
きっと
彼を責めていた少年たちが、ひくっ、と頬を歪ませながら、口を閉ざした。
「…………って、ルトフィーは言ってるけど。そうなの?」
腰に手を当て、そう疑問を静かに落とせば、きょろきょろと互いに視線を合わせていた少年たちは次々に唇の先を尖らせていく。
「…………だって……、さぁ……」
「なぁに?」
「こいつの名前……ルトフィーって、今の皇帝と、同じじゃん」
長い沈黙ののちに紡がれたのは、まだ僅か十年ほどしか生きていないはずの少年の心に巣食っている黒い闇。
彼らの多くは、二年前の
けれど、あの林檎売りの老婆同様に、現皇帝・ルトフィー一世が何を思いそれをしたのかなど、知るわけもなく――否。知っていたとしても、自身の父を、母を、暮らしを奪った人間など、許せるわけもないのだろう。
「……仮に、アンタたちが今の皇帝に対して持ってる恨みとかが、正しいものだとして。でも、それを
「……それ、は……」
「同じ名前だから何なの? ルトフィーなんて名前、このトゥルハン帝国にどんだけいると思ってんの? アンタら、親戚に『ルトフィー』いないわけ?」
慣例的にも、今から十年前、初めてルトフィー一世が即位した時、その名に
そもそもこの国において「ルトフィー」という名は昔からあるもので、珍しくもなんともないのだ。むしろ皇帝として即位したのが初めてという事が、ちょっとした奇跡に思えるくらいありふれた――この国ではどこにでもある名前だった。
「……確かに、俺の伯父さんの名前……ルトフィー」
「俺の従兄もそうだ……」
「僕も、親戚にいる……」
案の定、次々に上がる同意の声に、ヒュマシャは「でしょう?」と呆れたように声を返す。
ルトフィー。
このトゥルハン帝国では、よくある名前だ。
珍しくもなんともない、名だ。
だって。
「あたしの好きな人の名前だって、『ルトフィー』よ」
ヒュマシャが両端をつり上げた唇に指を当て「内緒ね」と呟くと、少年たちは一斉に目を丸くする。
「えぇえっ! ヒュマシャって、ユーフス・パシャの妾じゃないのか!?」
「違うわよ。ユーフスの奥さまはナクシディルだけよ」
「えっ、妾いないのか!? 偉い人なのに!?」
「俺の父上は、第三夫人までいたぞ!」
「僕ん家は、母上が第二夫人だったよ」
子供たちは、ルトフィーへのわだかまりを吐露したことで、どうやらスッキリしたようで次々に昔話を始める。この施設で、我儘に、子供らしく育っていながらも、それでも昔の話はしてはいけないという自身の中でのブレーキがあったのかもしれない。
ふ、とヒュマシャが顔を持ち上げると、楽しそうに話し始めた彼らから、僅かに離れていたルトフィーが静かに離れ、去っていく後ろ姿が見えた。
(まぁコイツらがスッキリしたからって、謂れのない虐め受けてたようなルトフィーにしたらたまったもんじゃないわよね……)
今度こそ、礼拝堂に向かおうとしているのか、少年の後ろ姿が曲がり角へと消えていく。少女は子供たちに気取られないよう、そっとその場から離れると、石畳の上へと足早に歩を落として行った。
横目に見える、窓の向こうは相変わらずの雪景色。
陽射しを受けた白い雪がキラキラと光を弾いている。
「ルトフィーっ!」
彼が曲がったその角へと差し掛かり、少女はやや大きな声を少年の後ろ姿へとかけた。――その、瞬間。
彼女の声に反応し、少年と、その傍らにいた女性が振り返る。
発光しているかと思うほど白い肌に、男ならば誰でもむしゃぶりつきたくなるような大きな胸、細い腰を持つ、天使のような女性――。
「ミフリ、マーフ……?」
かつての知己の名を、少女の唇が戸惑いの感情と共に零した。
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