4-3

 昨夜遅くから降り始めたらしい雪は、窓の外を一面、真っ白に染め上げていた。

 厨房にほど近い位置にある中庭からは、子供の甲高い声が響いており、恐らくこの屋敷の跡取り息子であるセリムが乳母たちと遊んでいるのだろう。

 すでに雪は止んではいるものの、空にはいまだ曇天が広がっている。早々に溶ける事もなさそうなので、子供にとっては絶好の遊び道具に違いない。

 トゥルハン帝国の首都・ケトロンポルスがここまでの大雪に見舞われる事は珍しく、ヒュマシャは窓の外へと睫毛を向けながら、道理で冷えるわけだと独りごちた。


「どうかしら、ヒュマシャ。準備出来ていて?」


 その声に、振り返ってみれば、樺で作られた籠を手に持った女性の姿があった。

 頭布ターバンから零れる明るい栗色ブリュネットの髪は、ふわふわと柔らかく背へと流れており、真顔なのに微笑んだように見えるその優しげなおもては、彼女をあどけない少女のようにも見せていた。

 ナクシディル――。

 この屋敷の女主人にして、ウェネト共和国の有力貴族の家に生まれた後、運命の悪戯によってこの地へと売られ――そして、このトゥルハン帝国の第二宰相ヴェジール・サーニを務めるユーフス・パシャの妻となった女性、その人である。


「私は、いつでも」

「そう。じゃあセリムにバレない内に、出かけてしまいましょうか」


 いたずらっ子のように、ふふっと頬に笑みを溶かすと、彼女は中庭にいる愛息子へと一度視線を向け、そしてそのままそそくさと、その足を玄関口へと向けた。今年、二歳になるセリムは母親の行くところはどこにでもついて行きたがる年頃で、まだ言い聞かせる事も難しく、彼を連れて行けない時などは、乳母との遊びに夢中になっている隙にこっそり出かけるようにしている。

 表門では、護衛役のスュンビュルとギュルが既に待機しており、ヒュマシャとナクシディルの姿を目にすると、軽く首を下げた。


「ふたりとも、寒かったでしょ。お待たせ」


 寒さに悴む頬に笑みを咲かせながら声をかけると、両者とも白い歯を見せながら首を振る。

 あの日・・・、彼らと共に【黄金の鳥籠カフェス】から逃がされたヒュマシャは、「埋葬の門」から宮殿の外へと出た先で、迎えに来ていたユーフスによって保護された。三者ともに、どこかへ行くアテなどあるわけもなく、そのまま彼の厚意に甘える形でここに滞在し続けている。

 「鳥籠」の宦官という役目から離れたスュンビュルとギュルは、春を迎える頃には鼓膜の穴も塞がり、聴力が元に戻っていた。切られた舌が元に戻る事はなかったが、鼓膜というのは、どうやらそのままにしておけば数か月で再生するものらしい。


あの日・・・から、もう二年かぁ……)


 月日の流れはあっという間だ。

 暖かな陽射しに微睡む春から、世界が白むほどに眩しい陽射しの夏、葉が赤や黄色に色づく秋を経て、全てを凍てつかせるようなあの冬へと辿るその歩みを、留まる事なく繰り返している。

 くるり、くるりと。

 季節は、巡る。

 くるり、くるり――と。


(アイツが……)


 そう望んだように――。

 眼前に広がる雪景色の中、サクサクとした懐かしい感触を足裏で楽しんでいると、道端の至る所に古代帝国を忍ばせる方尖柱オベリスクが立っており、その周辺の広場では子供たちが走り回る姿や、これから買い物へと向かう人の姿も確認できた。

 自分たちはいま、移り変わり行く外の世界を生きている。


「今日は、バイオール地区の孤児院だっけ?」

「えぇ、そうね。あそこは年嵩の子もいるから、それだけじゃ足りないかもしれないわ」


 ナクシディルは、人々が踏み均した事により雪掻きが勝手にされたらしい市場スークへと至る大通りと歩を落としながら、ヒュマシャの腕にかけられた籠を指さした。中には、ナッツをふんだんに使った一口サイズのロクムが入っており、これから訪れる孤児院の子供たちのために、昨日から下ごしらえしていたものだ。

 元々、ヒュマシャのロクムは後宮ハレムにいるジャーリヤ仲間とのお茶会用のレシピだったので、昔はより華やかで若い女ウケするような味付けにしていた。けれどいまは、対象が小さな子供であるため薔薇水ローズウォーターよりも蜂蜜や砂糖水、ナッツ類をたっぷり使う甘めの味付けへと変えている。


「結構今回、ナッツ入れたし腹持ちするんじゃないかなって思うけど……やっぱ足りないかなぁ」

「あら。前行った時の大喧嘩、もう忘れてしまったの? 絶対また、誰が何個食べただのどうだのって喧嘩になるわよ」

「まぁそうだろうけど。でも、子供の喧嘩なんて、好きなだけいくらでもさせときゃ良くない?」

「日々の暮らしの中での喧嘩ならそうなのかもしれないけれど……。でも、わたくしたちの訪問は、あくまでも慈善活動ワクフの一環だから。それによって差別が生まれるのは、良くないわ」

「……むー。まぁ、そう言われてみれば……確かに、そう……なのかも」


 二年前――、現皇帝・ルトフィー一世による帝位簒奪で、一部高官たちの失脚や市内混乱が見られた。その結果、国中で孤児が溢れる事となったわけだが、彼らを庇護するためにモスクを孤児院兼病院として開放するよう言い渡したのも、皇帝の意向だったという話だ。

 そして、ナクシディルたちトゥルハン帝国の高官の妻は、そういう施設を定期的に訪れ、きちんと社会的な援助が行き届いているのか、足りないものがあるのかを施設ごとに確認するという役目を与えられるようになったらしい。

 今までトゥルハン帝国の女性は、後宮ハレム皇太后ヴァリデ・スルタンを除き、基本的に政治には一切関わる事がなかった。けれど、皇帝が代替わりし、周辺諸国の文化を取り入れ始めた事で、徐々にこの国でも女性の活動というものが表に出てくるようになったのだという。

 ユーフス夫妻はヒュマシャを皇帝からの預かりものとして扱うつもりだったようだが、実際自身はルトフィーの寵姫ハセキなどという大層な存在モノではなかったし、【黄金の鳥籠】においても単なる居候に過ぎなかった。ここでタダ食らいしているだけの身の上というのは何とも居心地が悪かったので、春の足音が聞こえ始めた頃にはすでに、ナクシディルに手伝いをするようになっていた。


  ――あんたみたいに、国だとかまつりごとだとか、そんな大それたこと今まで考えた事もなかった。

  ――だからね、正直いまもあんたがやりたい事、やろうとしている事は、わからないの。あたし、性格あんま良くないし。そういうお人よし? の考え方が出来ないのよ。


 かつて、いま皇帝の座に君臨する青年へと、そう話した事があった。

 ルィムの田舎で生まれ育ち、爪の先を葡萄の汁で真っ黒に染め、明日食べるパンの大きさ、スープの具の有無を心配していた自分には、見たこともない誰かのために何かをしてあげたいと思う気持ちがわからないのだと。


(ナクシディルに慈善活動これ手伝うって言ったのは、まぁ身近にある仕事がそれだったからっていうのが理由だけど……)


 それでも――ルトフィーと離れ、きっと恐らくもう彼とは交わることのない自分の人生だが、少しでも近くにいた事を自分の中に残したかった。


(……なんていう乙女心も、もしかしたらあったりするのかもしれない)


 動機としてはよこしまかもしれないが、ウェネト共和国の大貴族の娘として生まれ、貧しい者への福祉の精神が幼い頃から教育されているナクシディルの近くにいれば、何か学ぶことがあるかもしれないと思ったのは事実だ。

 幼い子も多い孤児院に行くのだから、「息子のセリムも、遊びがてら連れて行ったら?」と訊ねた事がある。彼女は、しばらく言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、けれど次の瞬間真っすぐヒュマシャへと睫毛の先を向けて否と言った。


  ――わたくしが息子セリムを連れて行った瞬間、それは公儀としての慈善活動のていをなくすのではなくて?

  ――そう、かもしれないけど。でも、私的な訪問に近くなったとしても、結果的に支援をする事には変わりないし……セリムだってお母さまと一緒にお出かけして、お友達も出来れば、それはそれでいい事じゃないの?

  ――セリムを連れて行って……そこで息子と親しくなった子供がいたとして。わたくしはひとりの母親として、息子が大切に思う友人がいる施設に、より目を向けてしまう事を止める自信は、正直ないわ。


 国として行う福祉支援ならば、誰に対しても、どの施設に対しても、平等に行わなければならない。けれど、そこに私的な要因が含まれてしまうと、途端にその大義を見失いかねないのだと。


(広くものを見るのって……難しい)


 あの後宮の最奥にある【黄金の鳥籠】にいながらも、国という大きなものを見ていた彼とは、やはり住む世界が違ったのだろうか。


「そんなわけで、果物でも持っていこうかと思っているのよ」


 市場を目の前にしたナクシディルが前方を指さしながら、唇の端を持ち上げる。今日は市が立っているようで、ケトロンポルスの商人ばかりではなく外部からの行商人も店を開いており、賑わっていた。

 二年前までは、このさらに奥にある一角で人身売買が行われていたそうだ。もう六年も昔の話なので記憶にはないが、恐らくヒュマシャもそこで売られ――後宮へ上がる為の妾とするため、買われたのだろう。


(奴隷制度も、正式に廃止になったしね……)


 ルトフィー一世の恩恵改革タンジマートのひとつとして、長く続いていたトゥルハン帝国の奴隷制度の取りやめがある。後宮を持たなかった事により、女奴隷も同時に廃止。強制徴用デヴシルメによる徴兵もなくなり、公式にはこの国から奴隷階級はいなくなった――という事になっている。

 もっとも、モグリの人身売買は今も行われており、元々奴隷として買われた者たちは相変わらず奉公させられているという実態はあるのだが。


「あ、果物なら林檎がいいんじゃない? 旬のものだし、お腹いっぱいになるし」


 ヒュマシャは少し離れた場所で露店を開いていた商人の許へと、足裏を弾ませ駆け寄った。平織物キリムの上に置かれた籠には、大きな林檎が積み重なっている。


「あら、林檎が沢山……。でも、すでに空になった籠もあるし、人気なのかしら。繁盛してるのね」

「いや~。こういうのって、最初から空になった籠をわざと置いてそう見せてるって可能性もあんのよ」

「まぁ……、そうなの? すごいわね。でも、それはそれで、生活の知恵だわ」


 平織物の上ですでに空になった籠を見ながら声をかけてきたナクシディルが、どこかおっとりとしたそのおもてをやや驚きに染めながら、ふふ、と笑う。こういった庶民の生活の一部であるような場所では、流石に貴族のお嬢様として育った彼女よりも、ヒュマシャの方が事情に明るい。


「ちょいと、お嬢ちゃん。なんだい? 冷やかしなら商売の邪魔だよ。とっととどっか行っとくれ」

「あら、お言葉ね。おばあさん。上客か冷やかしかもわからないようなら、商売人としての目が相当曇ってるわよ」

「なんだい、客かい。買う気があんなら、最初からケチなんてつけるんじゃないよ。まったく」

「こっちは客よ。売れてないような美味しくないものなら、買いたくないのは当然じゃないの」

「まぁったく、口の減らない小娘だね。ほれ!」


 顔中皺くちゃの老婆が、懐から小刀を取り出すと籠の中の林檎をひとつ手に取った。そして慣れた手付きで一切れ分切り分けると、少女の口の中へと問答無用で突っ込んでくる。

 ふわ、と甘酸っぱいにおいが鼻腔に届いたかと思った瞬間、舌先に果実の風味が転がった。旬という事もあるのだろうが、文句なしに美味しい林檎だ。


「ねぇ、ナクシディル。子供たちへの手土産、これにしよう」

「あら、美味しかったの?」

「うん。甘酸っぱくておいしいし、絶対喜ぶと思う」


 ナクシディルへと許可を求めるヒュマシャへと、老婆がにやりと唇の両端を持ち上げ、三日月を作った。その奥にある歯は数本欠けており、彼女がこの林檎を丸ごとかじる事は難しそうだ。


「ほれ、言った通りだろう? だから、ケチなんてつけるもんじゃないってんだよ」

「あはは、そーね。悪かったわ。お詫びに、おばあさんの林檎美味しいって触れ回っとくから許してよ」

「そうかい。じゃあ許してやらんこともないね」

「うっわ、偉そう……」

「年寄りは敬うもんだよ、小娘」


 そう言われても、思えばこの国で一番敬うべき皇帝にすら、図々しく接していた過去のあるヒュマシャだ。「はいはい」と口先だけで返事をすると、老婆へと個数を伝え、懐から金の入った小袋を取り出した。

 すると、護衛のため着いて来ていた宦官ふたりが、予め持ってきていたらしい籠へと林檎を詰めていく。


「なんだい。アンタらの子に食べさせるにしちゃ、随分な量じゃないか」

「あたしたちの子じゃないわよ。バイオールの孤児院に届けるの」

「バイオールの孤児院って……あー、あれかぃ。皇帝が作ったっていう、モスクの」

「そうそう。バイオールだけじゃなくて、他にも色々各地のモスク解放して、孤児院とか病院とかにしてるの」

「そりゃ、まぁ……、知ってるけどねぇ……」


 老婆はそう言うと、白髪をまとめた頭布ターバンの中へと皺の刻まれた太い指を突っ込み、カリカリと爪で掻く。そして面白くなさそうに、ひとつ大きなため息を吐いた。


「あそこの孤児たちは、元を正せば皇帝が起こした騒動の犠牲者だって話じゃないか。自分で孤児を作っといて、それを国の金使って庇護するってアンタ……そんな道理があるかぃ?」


 突然老婆から発せられた、現皇帝への悪意に、少女は笑みを咲かせていた頬を俄かに凍らせた。先ほどまで和やかにしていた会話が、途端に嘘っぽいものになったような錯覚さえ感じてしまう。


「それにあれだろ? 自分の産みの母親でさえ、宮殿から追放したって話じゃないか。母親なんて、この世にふたりといない存在だってのに……高貴な人ってのは、みぃんなそんなもんなのかねぇ」


 いまだ持ち上がっているままの頬は、歪に引き攣っているような気さえする。


「でも……、ほら……。内陸に鉄道作る、なんて話もあるし。国の……為を考えてるんじゃ、ないかしら……」

「はっ、鉄道ぉ? そんなんありがたがる奴なんて、あたしらの中にゃいないよ。あんなの、戦争の為の運輸に使われるだけって話じゃないか」

「嘘っ! あれは、国内の産業に役立てる為に……っ」


「ヒュマシャ」


 少女が声を荒げた、その刹那――。

 背後で成り行きを見守っていたナクシディルが、そっと彼女の名を呼んだ。決して鋭いわけでもなく、大声でもなかったその声が、けれども少女の湧き上がりかけた感情へと冷たく注がれる。


「そろそろ、孤児院に行かなければ。子供たちが待っていますよ」

「…………っ、そう、でした……」


 は、と一度大きく息を吐くと、ヒュマシャは唇を噛み締めた。当の老婆は何が起こったかさえ分からず、突然感情を高ぶらせた少女へと訝しんだ視線をよこしている。


「……おばあさんも、ごめん。急に、大声出しちゃって……」

「あ、あぁ……、いいんだよ、別に。アンタらが行く孤児院を少し悪く言っちまったアタシも悪かったんだ」

「……本当に、ごめん……」


 そう呟いて、ヒュマシャは既に数歩先を進んでいたナクシディルの後を追うように、その場から踵を返す。


(わかってた)


 ルトフィーが、何故、最後の皇帝・・・・・になろうとしていたのか。


(わかってた)


 彼の進む道が、どういうものであるのかを。

 彼を、人々が――どう見るかという事くらい。


(わかってた)


 二年前のあの日まで、トゥルハン帝国の皇帝は、不可侵の存在だった。

 それはここ近年、いとも容易く挿げ替えられる程度の存在ではあったのだが、それでも唯一無二の偉大なる存在だった。

 そうあるように、皇帝位というものは作られていた。

 けれど、二年前に再即位した皇帝・ルトフィー一世は、今までその地位を保つためにあった様々なもの――例えばそれは、後宮の女たちであったり、強制徴用で得た私兵である常備歩兵軍イェニ・チェリであったり、トゥルハン家の莫大な私的財産であったり――それらを全て、撤廃していった。

 結果的に、皇帝という存在が、実は金メッキが貼られただけのものであると――、そう人々は捉えるようになった。

 皇帝を皇帝たらしめていただけの理由がないルトフィーへの批判は、今や市政の中では当たり前のようにされている話題だった。


(全部、あたしはわかってたじゃない……っ!)


  ――ところでお前、【革命】って知ってるか?

  ――まぁ俺がユーフスを動かして、そういう動きを扇動してるんだけどな。


 いずれ訪れる【革命】の足音が、この国を踏み荒らすその前に。


  ――【革命】が起こった後、帝国がなくなって……国が民主化したとしても、そのまま国が機能していけるようにするために、俺はもう一度帝位に就くことを望んだんだよ。


 より強い国として、今後も生きていけるように、と。

 そのために、最後の皇帝になるのだと――。


(国の未来の為に生きる、悪逆非道の皇帝なんだって)


 あたしは、全部、わかってたじゃない。

 眼の奥がチリチリ熱い。

 少女は、唇をぎゅ、と結んで、顎に皺を刻む。


(こんなことで、泣くな。泣くな。泣くな)


 本当に悔しいのは、自分なんかじゃない。


(でも)


 悪逆非道のあの皇帝の為に、泣いてあげられる人間がこの世界にどれだけいるのだろう。


(あいたい)


 会って、抱きしめたい。

 大丈夫だよ、と。

 髪に、頬に、口唇に、触れて、言ってあげたい。


(ひとりじゃないよって)


 ヒュマシャは行き場のない想いを、はっ、と荒く吐いた白い息に溶かした。

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