第四章 幸せの鳥

4-1

 その日、トゥルハン帝国・皇帝スルタンの宮殿では、新年の宴が催されていた。

 各地から集められた数百人からなる料理人たちが、腕に縒りをかけて作った様々な料理や酒が、豪奢な部屋に所狭しと並べられた円卓の上に置かれている。

 国内の食器ばかりでなく、東方の国から取り寄せた青磁セイジなる陶磁器に盛りつけられた料理は、その見栄えも、質も、間違いなく世界に誇る事の出来る最高級のものだろう。


  ――宮殿の警護はわたくし・ユーフスの軍にお任せ下さい。陛下は、この寒空の中、日々警護している常備歩兵軍イェニ・チェリの方々への慰労をされては如何でしょうか。


 すでに年が明けて、五日経つ。

 第四宰相ヴェジール・ラービーにそう言われ、年中後宮ハレムに入り浸っている皇帝・マフムトも、新年くらいは、と宴を開く事にしたらしい。

 日頃、何かと目障りな大宰相としよりたちも、今年は北方からの進軍の警戒のためにみんな出陣している。いま、この首都・ケトロンポルスに残された者は、後詰の控えとしての第四宰相の軍隊の他は、皇帝の城である新宮殿イェニ・サライを警護するごく少数の若いばかり。

 若いマフムトと話の合うような比較的若い者たちばかりの宴は、すでに無礼講に近いものとなっており、飲めや歌えや踊れやの大騒ぎである。広間の至る所で食器がぶつかる音やグラスがひっくり返る音など、「喧噪」以外表現する言葉が出ない程の状況だった。


  ――バンッッ!!


 外にまで漏れ出るほどの騒がしさが、突然開かれた広間の大扉の音によって一瞬で静まり返る。顔を赤くし、正体を失いかけていた面々の顔が、一斉に入り込んだ冷たい外気にのせいか、一瞬で凍り付いた。


「あ、兄……う、え……っ!?」


 玉座からふらり、立ち上がった当世ときの皇帝の手のひらから、ぽろり、ありとあらゆる宝玉を埋め込まれた黄金の杯が零れ落ちる。その様子に、広間の右から左へとゆっくり視線を巡らせていた訪問者――ルトフィーは、唇の端を持ち上げた。


「二年以上ぶりだってのに、随分なご挨拶だな。マフムト」

「な、何故……アンタが、ここに……っ」

「何故って……、もうわかるだろ」


 ルトフィーは軽く持ち上げた手で、背後に控えている武装した兵たちへと軽く指示を出す。すると、完全に訓練された動きを以て、一斉に広間へと流れ込み、酔いも醒めただろう者たちを取り囲んだ。


政変クーデターだよ」


 その声と同時に、武器の先を広間の人間へと向けていた兵たちが、彼らの身柄を拘束していく。すでに状況を悟ったらしい者たちは皆、特に大きな騒ぎを起こす事なく、青ざめた表情のまま何とか命だけは、と両手を持ち上げていく。

 ユーフスの軍全てが宮殿内へと入り込み、展開していく音さえも気づかなかった程の大騒ぎは、既に恐怖の色で塗り潰されていた。

 まるで雨風に震える小動物のようなその姿に、この者たちが「世界最強の軍」だとトゥルハン帝国が誇っている常備歩兵軍だと、誰が信じるだろうか。


  ――トゥルハン帝国の常備歩兵軍は世界で一番強いって教わったけど、なんで負けたの?

  ――なんでもなにも……そりゃ、弱かったからだろ。


 かつて、猫のように気まぐれで、図々しくて、誰よりも楽しそうに笑う少女と交わした会話を思い出す。

 青年は、榛色ヘーゼルの瞳を切なさに揺らしながら、次々に捉えられていく者たちの合間を縫うように歩を進めた。そして、広間の最奥にある、馬鹿らしいほどの黄金を使った玉座の前で怒りのせいか、ふるふると頬を震わせている弟の姿を、その瞳に見留める。

 前回会ったのは、自身が皇帝の座から蹴り落とされ、【黄金の鳥籠カフェス】へ入る事になったあの時――。

 三つ年下だった彼は、当時まだ十四歳の子供だった。


  ――兄上。俺はさぁ、アンタは賢い人だとばかり思っていたけど、意外と愚かバカだったんだね。


 子供なのに、か。

 それとも、子供だからこそ、なのか。

 無邪気な雰囲気で、どこまでも残酷な毒を胎を同じくする兄へと向ける、そんな少年だった。


(まぁ、そんな俺も胎を同じくする弟を、追い落とそうとしてるんだから……血は争えないってやつか)


 それを考えると、後宮で権力をほしいままにする母の血が相当に黒かったという事だろうか。

 二年前はまだまだ幼さの方が印象に強かった彼も、奢侈淫佚に興じ過ぎていたせいか、年の割に身体が緩み切っており、怒りに震える頬や顎にはたっぷり肉が乗っている。美しさを買われた母は言うに及ばず、決して悪い容姿ではなかった父――ふたりの血を引き継いでいるとは俄かには信じられない外見に育っていた。


「バ、バカな……っ! 何故、いま……この時に……ッ!!」

「アホか。この時だから、狙ったんだろうが」

「……っ!! ま……、まさか、大宰相ヴェズラザムたちが今、首都ここに、いないのは……」


 ルーシ南下の情報によって、大宰相はじめとする高官たちが、みんな北方の境界へ向かうなどという大掛かりな出兵をしていなかったら、常備歩兵軍もまた最低限の警備兵残し、首都を離れるなんてことはなかったはずだ。

 日頃、任地にいるはずの第四宰相の軍がこの首都を警備する事もなく、隙をついて一気に王手チェックメイトをかける事など、不可能だった。


「ルーシの南下情報は偶然だった。でも、それを利用して大宰相ジジイどもを追いやったのは、俺の計画だ」

「……馬鹿な……、あ、兄上が……、政変だって……? 皇帝の座から蹴り落とされ、鳥籠で、死んだように飼われてた、あの兄上が……!? あ、あり得ない……、あり得ないあり得ないあり得ないッ!!」


 マフムトがぶるぶると首を振るたびに、たっぷりとした顎が二重にも三重にも肉を重ねる。


「まぁ、お前が信じる信じないはどうでもいいけどな」


 ルトフィーは手に持った短剣を鞘から抜くと、その歪曲した切っ先をまっすぐ弟へと向けた。


「もう、鍋はひっくり返されたんだよ」


 トゥルハン帝国・皇帝の直属軍――常備歩兵軍。

 その旗印を、「戦鍋旗カザン」と呼ぶ、

 同じ釜の飯を食うことで結束するという意味から来ているこのシンボルは、皇帝への忠誠が失われた時、ひっくり返されると言われている。

 もっとも、いまルトフィーが連れている軍隊は常備歩兵軍ではなく、第四宰相であるユーフスが密かに子飼いとして育て上げた軍隊ではあるが。


「嘘だッ!! 嘘だッ!! 嘘だぁぁああッッ!!」


 絨毯の上で蹲るように身体を丸め、全てを拒絶し、絶叫するマフムトだったが、鍛えられた兵によって両手を縛り上げられ、広間の外へと転がされるように連行されていく。


「ルトフィーさま」


 次第に人がいなくなり、酒気と食べ物のにおいがこびりつく豪奢な広間へ視線を這わせていた青年へと、背後から声がかけられた。肩越しに振り返ると、そこには今回の騒動の立役者である第四宰相の姿。

 彼には、カランフィルと共に後宮を抑え、そこに住まうジャーリヤ側室イクバルたちを、今後彼女たちの軟禁場所となる旧宮殿エスキ・サライへと連行する役目を与えていた。


後宮あっちも終わったか」

「はい――、皇帝陛下」

「……いや、まだ再即位もしてないし、流石に気が早くないか」

「ですかね……? 俺としては今までも、これからもずっと皇帝陛下はルトフィー陛下、ただおひとりなので、特に違和感はないです」

「お前が違和感あるかどうかって話じゃなくて、俺がどうかって話だよ。……それにしても、二年ぶりか」


 ユーフスは、ルトフィーが退位させられた後もずっと忠誠を誓ってくれていたが、そのやり取りは当然カランフィルを通した書簡の往復のみであり、実際こうして顔を合わせるのは二年ぶりの話である。


「あぁ、そう言えば……お伝え忘れるところでした」

「ん?」

お届け物・・・・は、無事受け取らせて頂きましたよ」


 ちら、と見遣った先の、ユーフスの唇が薄く弧を描いている。

 揶揄うつもりはないのだろうが――いや、実際この表情を何と評するかといわれたら「揶揄っている」以外に相応しい言葉はないはずだ。

 年が明ける前に、ルトフィーは鳥籠から一羽の美しい幸せの名を冠する鳥を逃がした。ユーフスの事だから、手ぬかりなどないだろうと思っていたが、きちんと無事保護されていたようだ。


「………………元気してるのか」


 と、そこまで口にするものの、彼女が元気ではない状況というのが、ルトフィーにはちょっと想像しにくい。

 いつだって、笑っていた。

 大きな口を開けて、それは楽しそうにケラケラと笑い声を上げていた。

 怒っていた時も、元気だった。

 唇の先を尖らせて、頬をぷぅ、と膨らませ、眦をキッと持ち上げるその表情さえも、元気だった。


「って、悪い。訊くだけ無駄だった」


 元気じゃないわけはなかった。

 そう言って、苦笑を鼻先に集めて弾くと、ユーフスもまた何とも言い難そうな感情をおもてに滲ませている。


「えぇ……、まぁ、そう……ですね。体調は変わりなく、お元気にしていらっしゃいますよ。ナクシディルとも気が合うらしくて、妹が出来たみたいだって可愛がってます」

「妹? アイツ、そんな可愛げある性格してるか?」

「さぁ……俺からは何とも。ただ、年齢差のある女同士の関係性ともなれば、またちょっと変わるんじゃないですかね。お元気な人柄ですが、でも、まだ、十六の少女ですから」

「……そう、だな」


 まだ、十六。

 十六だ。


  ――お前には、鳥籠ここから出た後の人生が、あるだろ。


 彼女に説いた言葉だ。

 彼女には、これからの人生がある。

 まだ、十六。

 まだ、十六だ。

 女として開花したかどうか、というような――まだ、十六歳。

 いま、一時的にユーフスの許で庇護させているが、いつまでも世話をさせ続けるわけにもいかないだろう。ユーフス夫妻はそれでもいいと言うかもしれないが、それでも人並みの人生というものを与えてやりたい。


(ユーフスの方で良さそうな縁があれば……)


 後見して、嫁がせてやってほしい。

 そう思う気持ちは嘘ではないはずなのに、どうしてもその言の葉が音を帯びて唇から零れていかない。

 幸せになってほしいと思う気持ちと。

 自分だけのモノでいてほしいと思う気持ち。

 手離したのは、他でもない自分自身。

 鳥籠から、解き放ったのは他でもない自分だというのに――。


(未練、だな)


 どこまでも、身勝手な――。

 知らず握り締めていた指が、手のひらに食い込む。


「まだ……、十六、か……」

「えぇ。まだ、十六です。ですから……」


 ちらり、とユーフスの琥珀アンバーの瞳が向けられた。

 何事かと、ルトフィーの眉が軽く疑問を刻む。


「……彼女、夜、たまにひとりで泣いている事もあるそうですよ」


 そう向けられた言葉に、ルトフィーの瞳が驚きに見開いた。思わず飲み込んだ息が、胸の裡へと入り込み、その出口を塞ぐ。

 息苦しささえ覚える程の感情が、出口を失い胸を叩いた。

 その、瞬間――。

 

「ルトフィ――――ッッ!!」


 背後から耳をつんざく声が、鼓膜を衝く。

 金属音を思わせるその声音に、ルトフィーは不快感を隠す事なく眉間に表しながら険を含んだ視線を流していくと、先ほど自身が入ってきた大きな扉の前にひとりの女の姿があった。

 年の割には美しいと言わざるを得ない容姿だが、最高級の貂皮ミンクと思しき毛皮を襟と袖口にあしらった外衣カフタンは、肩口から落ちかけており、大きな紅玉ルビ―で装飾された頭布ターバンは緩んでいる。

 恐らく綺麗に巻かれた髪は乱れきって、汗で額や頬に張り付くありさまだった。


「これは……元・皇太后ヴァリデ・スルタンさま」


 二年ぶりに見かけた母・マフヴァシュの姿に、ルトフィーの表情が氷点下まで下がる。

 ユーフスたちには、遠慮せずに連行しろとは告げていたが、流石に身分が身分なだけに遠慮が出たのか。旧宮殿へと向かっているはずだった彼女が、何故か後宮の門を越え、皇帝の私邸空間にやってきていた。


「元!? 元、ですって!? わたくしは、皇帝陛下の母ですのよ!?」

「えぇ。つい、先ほどまでは。ですが、恐らくユーフスかカランフィルから説明があったかとは思いますが、無事政変クーデターが成り、俺が帝位に返り咲きましたので、マフムトはすでに皇帝ではない」


 先ほどユーフスには、まだ再即位はしていないと言っていたが、いまだ権力にしがみつきたいらしい彼女には、この方便が最適だろう。北風を思わせる声で、どこまでも傲慢にそう告げてやると、口紅が剥げかけている唇が、ギリ、と嫌な音を立てた。


「そう……。お前、大人しいフリして、ずっとわたくしを欺いていたのね」

「欺かなければ、とっくに俺はこの世にはいなかった。それともすっかり耄碌されて、自分の息のかかった妾を俺の許へ侍らせようとしていたことを、忘れたとでも?」

「いつまでも女に興味を示さない息子を案じた母の愛ではないの」

「……その女が毒なんて仕込んでなければ、の話でしょう?」


 めつけてやると、マフヴァシュの肩がびくっ、と小さく揺れた。


「……それでも、お前が皇帝になるのなら、わたくしは皇太后のままだわ」


 確かに彼女は、以前ルトフィーが皇帝として即位した時に皇太后となった。その後、ルトフィーは退位させられたが、弟のマフムトの母もまた彼女であった為に、その後もずっと――皇太后のままだった。

 皇帝の生母が後宮の最大権力者・皇太后となる事が慣例なのだから、マフヴァシュという名を与えられたこの女は、きっと今後もその地位にしがみつくだろう。

 ――このトゥルハン帝国に、後宮が、存在する限り。


「残念ながら、元・皇太后さま。あなたにはマフムトの後宮の女たち同様、旧宮殿へ軟禁させて頂きます」


 もっとも、帰る家がある者や、外に出て自身で生きたいと願う者は、順次解放していく予定ではある。だが、国のまつりごとに関わりすぎ、知りすぎている彼女は、今後諸外国と通じ、国を乱さないとも限らない。

 恐らく、皇帝同様に半永久的に軟禁予定となるだろう。


「……な、にを……っ! わたくしがいなくて、後宮はどうするのですっ! 誰が、あそこをまとめ、支配するのですっ!」

「俺の後宮は、もう作りません。もう、女人の天下カドゥンラール・スルタナトゥは、終わったのです」

「……な……、」


 母の目が、大きく見開く。


「う、嘘をおっしゃいな。あの、妾……、そうよ。あの妾はどうしたの? 知ってるわよ。女を送り込んでも、すぐに追い出すはずのお前が、あれ程長く鳥籠に囲っていた女ですもの。相当に可愛がって寵を与えていたんでしょう!?」


 身体を重ね、肌を交わす事を、寵と呼ぶのならば。

 熱を絡め、もう互いの境界がわからないほどに、繋がり溶けあう事を寵と呼ぶならば。


(それが寵なら)


 与えた。

 あの、最後の夜に、一生分愛した。

 けれど。


  ――すきだよ。たぶん、ずっとこれからも。


 最後まで、「すき」を与えなかった。

 言えなかった。


(俺は)


 後宮を、終わらせる皇帝になる。

 だから。


幸せの鳥ヒュマシャなら、とっくに逃がしてやりましたよ」


 ――鳥籠から。

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