3-12

 冷たい石畳に、音のしない足音がふたつ落ちていく。

 ちら、と見遣った横顔は、絶世の、とまではいかずとも「美人」と評する以外はないほど美しく整っていた。けれど日頃は、その言動のせいなのか、どこかこましゃくれた子供のような幼さが見え隠れし、一瞬、一瞬の気分で表情がくるくると変わる猫のような少女だった。


「……なに?」


 砂漠の砂を思わせるような声と共に、藍晶石カイヤナイトの瞳が向けられる。

 長い睫毛に彩られたその双眸は、眦がややツン、と持ち上がっており、なるほどやはり猫のようだとルトフィーは内心独りごちた。

 常よりも、装飾ランプで作られた影が色濃く見えるのは、その声が掠れているのは、つい先ほど――カランフィルから声がかけられるほんの少し前まで、夜通し抱き潰していたからに他ならない。


「……大丈夫か?」


 自分が望んだこととは言え、ルトフィー自身も相当気だるい。この細い身体で何度も何度も男の欲を繰り返し受け入れた彼女の疲労は、察するに余りあるだろう。


「……大丈夫、なわけないでしょっ」


 眉間に皺を刻みながら、呆れの感情を瞼に貼り付かせた少女にめつけられた。身体を重ねた後だというのに、色気もなにもあったもんじゃない。数時間の間、あれほど甘ったるい声で自身の名を呼び、肌を悦楽に染めていた人間と同一人物とはとても思えないその相変わらずの跳ねっ返りな態度に、ルトフィーは「ふはっ」と唇から小さく笑いを零す。


「笑いごとじゃないわよ。腰痛いし、喉も痛いし、色んなとこヒリヒリするしっ」

「だろうなぁ。でも、誘ったのはお前だからな?」

「だ、だって……! あ、あんなになんて、聞いてない……っ」

「よかったな。教本には書かれてない勉強が出来て」

「……なんか、ムカつくわ」

「ふはっ」


 せっかく身綺麗な身体で外に逃がしてやろうと思っていた鳥が、鳥籠の中で自ら啼き出したのだ。散々焦らされた若い男が、箍を外され我慢なんて出来るわけがない。

 むしろ、途中何度か完全に理性がトンでいたのか、よく思い出せないくらいだ。


(ただ)


 溺れるように、ひたすら柔らかな白い肌を求めていた。

 薔薇のにおいに、自身をずぶずぶに溶かすように、交わった。

 暖炉の火が、消えたことにも気づけないほど、夢中になった。


「ま、極悪非道の皇帝スルタンがやらかした、悪行のひとつだと思えよ」

「……極悪非道の――最後の皇帝?」

「……最後の、皇帝だな」


 ――じき、そうなるはずの。

 もう目の前に、【黄金の鳥籠カフェス】の出入り口である大きな扉が見えている。その先には、ヒュマシャを後宮ハレム――引いては、新宮殿イェニ・サライから逃がす為の手筈を整えた監督長クズラル・アースゥたる宦官が、少女を待っているはずだ。


「説明した通り、カランフィルが『埋葬の門』まで案内する。後宮のジャーリヤ側室イクバルたちは、夜間自分の部屋を出る事は出来ないから、誰に見とがめられる心配もないはずだ」

「……ん」

「『埋葬の門』から先は、スュンビュルとギュルが付き添って行く。宮殿の外で、ユーフスが待機してくれてるから、その後はあいつの庇護下に入れ」


 スュンビュルとギュルの二名は、この【黄金の鳥籠】に仕える宦官だが、彼らは鼓膜を破られ、舌も切られている。その先、政変コトが起こった際に状況によっては混乱に巻き込まれてしまう可能性が高い。

 もしうまくそれを乗り越えたとしても、トゥルハン帝国・最後の皇帝の即位の時点で後宮は消滅し、そしてやがて帝国も消える運命だ。だったら、ヒュマシャ付きの宦官としてユーフスの庇護下に入った方が、彼らのためにもいいだろう。


(本当なら)


 恐らく、あのふたりは見殺しにされていたのだろう。

 ルトフィー自ら、処断しようとは思わなかったが、だからといって彼らの身の安全を考えていたかと訊かれたら、答えは否である。

 ヒュマシャが鳥籠ここに来る前は、正直なところルトフィーと彼らの間に繋がりなんてなかった。互いに監視されているのではないか、という不安で視線を送り合う――そんな恐怖が常に影となり付いて回る関係だった。


(それを)


 こいつが、変えたんだ。


  ――根回しは、大切なのよ。あたし・・・の為にね。


 気が強くて、機転も利く。

 けれど跳ねっ返りでじゃじゃ馬で、面倒くさくて、厄介な女。


(でも)


 この、死んだように時間ときを進ませなければいけない鳥籠を変えたのは、他でもないこの少女だった。

 真っすぐにヒュマシャへと榛色ヘーゼルの視線落とせば、彼女もまた、長いその睫毛の先を青年へと向けてきている。思う存分掻き抱き乱した金糸は、まるでそれが夢での出来事であったかのように、いまは頭布ターバンが綺麗に巻かれていた。

 羽織った外衣カフタンは毛皮が裏打ちされており、ルトフィー用に仕立てられたものだった。彼女にはやや大きそうだが、きっといまだ明けない夜から彼女を守ってくれるだろう。


「じゃあ」


 少女がわざとらしい笑みを、唇で作り出す。

 日頃は、そんな真似をせずとも楽しければ笑い、何か面白くない事があればツンと尖らせるその唇が、この時初めて作られた形を青年へと見せた。

 最後なのに・・・・・、その笑顔ウソなのか。

 ――否。

 

最後だから・・・・・


 その笑顔ウソなのか。

 刹那、胸の中で膨れ上がった感情が喉を焼く。


「あたし、もう――」


 恐らく、「行くね」と続くはずだったその声を置きざりにさせ、ルトフィーは少女の腕を引くと、胸の中へときつくきつく閉じ込めた。

 ふわ、と鼻腔に届くのは薔薇のにおいと、外衣に染み込む柑橘系のそれ。

 もう、どちらがどちらのものなのか、わからない。

 わからなくなってしまえばいいと――、青年は奥歯を噛み締める。


「ちょ、ルト……、……っ!」


 驚きの声を発した少女の口唇へ、溢れ零れる自身の感情を流し込む。


  ――すきだよ。たぶん、ずっとこれからも。 


 何度も聞いた甘い吐息が、脳裡に木霊する。

 理性を、大義を溶かすようなその誘惑に、心の一番柔らかな場所がじわじわと痺れ出す。


(離したくない)


 離れたくない。

 ――けれど。


「――さよなら、だ」


 睦言のように、口唇に直接紡いだ言の葉は、ただただ切なさばかりを刻みつけた。





**********






 長い、長い、通路だった。

 冬場の寒さとはまた違う気がする寒さが、周囲を取り囲んでいるように思うのは、この道が本来死者の通るものだからだろうか。

 ヒュマシャは前方を歩く宦官ふたりの背を追いながら、柑橘のにおいの残る外衣ごと自身の身体をぎゅ、と抱きしめる。


(この香水のにおいは、最初からすきだった)


 故郷の空を思い出させるような、においだったからだろうか。


(あの垂れた目も、声も、すきだった)


 くだらない事で一緒に笑い合い、軽口を叩き合い――。

 思えば、この想いを自覚する前から、彼との時間は楽しかった。

 ガサツな性質タチなヒュマシャの言動を、お育ちのよい皇子さまである彼が眉を顰め咎め、けれどそれをのらりくらりと交わしながら反論し――、ふたり視線を合わせて笑い合う。


(すきだったな)


 すきだった。

 すきだった。

 いとおしいと、そう思える時間だった。

 かけがえのない、時間だった。


  ――ヒュマシャ。


 名前を呼ばれる事が、好きだった。


  ――ふはっ、図々しいな本当。


 垂れた目尻が、皺を刻むのが好きだった。


  ――おっ前なぁ……っ!


 飽きれたように、半眼でめつけるようにされるのも好きだった。


(すきだった)


 まるで挨拶をするかのように、口唇を重ね合わせる事も。

 そっと、金糸を撫でられる事も。

 あの骨ばった指が、自身の肌をなぞる事も。

 荒い息が、自身の名を呼ぶことも。

 汗が、ぽたりと自身の肌を犯す事も。


(全部、全部――すきだったのよ……)


 誘拐され、故郷を離れたのは、十二の年。

 そのまま売られ、トゥルハン帝国後宮の門へと足を踏み入れたのは、十六の年。

 何も知らないまま、【黄金の鳥籠】へと投げ込まれ――そして。


(そこで)


 きっと、一生分の「すき」を知った。

 この先、どれほど生きたとしても、得られない程の「すき」を知った。

 一生色あせぬことのなさそうな、「すき」を知ったのだ。


(……あー、でも。悔しいな)


  ――だって、アンタ、……あたしの事、絶対すきだもん。


 そうは言ったが、彼はついに自分に「すき」をくれなかった。

 とは言え、彼の気持ちを今さら疑うわけもない。

 間違いなく、好かれているだろう。

 きっと、愛されているのだろう。

 その自覚は、ある。


(でも、「すき」をくれなかった)


 記憶が曖昧になるほどに、何度も何度も肌を求め、カランフィルが迎えに来るほんの直前までずっと抱くほどの感情を、向けられていたのに、その間でさえ「すき」をくれなかった。


(くそぅ。……アイツ、ほんとどこまで行っても『皇帝陛下』だわ)


 寵姫・・は持たない、と。

 トゥルハン帝国最後の皇帝は、後宮も寵姫も持たないのだと言った、その通りに――最後までヒュマシャに「すき」をくれなかった。


(ったく……、何が極悪非道の、最後の皇帝よ……っ)


 重税を強いて奢侈の限りを尽くす事もなく、苦言を呈す忠心を遠ざけ甘言ばかりを口にする佞臣を重用する事もなく――。


(……そんなアンタだから)


 どうしようもなく、すきなのよ。バカ。

 これで最後なのだと、そう言うように求められた口唇が、ぽつりと音のない恨み言を呟く。


  ――さよなら、だ。


 「すき」の代わりに紡がれたそのいとしい声に、少女の頬へ、ツ、と涙が一筋零れた。


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