3-10
ルーシ大公国に南下計画が持ち上がっている、という情報は、風が運ぶかのようにトゥルハン帝国の上層部へと伝えられた。
すでに冷たい空気の支配し、吐く息が視界を白く染める
けれど。
――皆さまが仰る通り、首都であるパヴェルグラードをはじめ、ルーシの主要都市のすべては既に冬に閉ざされてはおります。ですが、いま、
――どういうことだ、ユーフス。
――ルーシは既に、ルィムをその支配下に置いております。確かにトゥルハン帝国よりも北方に位置してはおりますが、その緯度はウェネト共和国と変わりません。
――ま、まさ……かっ。
――その、まさかのようです。ルーシの将軍であるエゴール・スチェバネンコは冬の到来の前に、ルィムに軍の本隊を置いているとの情報を掴んでおります。
――ま、待て。ルィム半島は我が国の海を挟んだ向こう側だぞ。もしそれが事実ならば……。
――海と陸、両方に警戒をしなければならないのではないか……!
事実、聖ガリーア神国とアブズブール君主国を煽り、南下の噂が流れるように仕組んでいたルーシ大公国は、寒波の懸念をルィムに既に本隊を置いているというものによって消すつもりだったに違いない。
ともあれ、ルトフィーが仕掛けた罠に上手くハマってくれたトゥルハン帝国上層部は、その後俄かに慌ただしくなり、各地の軍が北方の領土境界へと警戒のため次々に出撃していく事になった。
首都・ケトロンポルスの守備を任されたのは、今回の件で完全に出遅れた
「って言っても、ルトフィーとユーフス・パシャは、最初からそのつもりだったんでしょ?」
ヒュマシャが散らかった書物を整理しながら、そう訊ねると、装飾ランプの傍でユーフスからの手紙と思しき紙に視線を落としていた青年は「まぁな」と頷き、
とっくに夕餉さえ終えた時刻――。
窓にはよろい戸が既に立てられており、ときおり天井近くのステンドグラスの向こうでヒュォ、と甲高い風の音が響いている。
「元々ユーフスを嫌ってた
「でも、手柄って言っても、
「これが夏ならな」
曰く、いくらルーシ大公国の名将として知られるエゴール将軍と言えども、この時期にルィム・ハン国に配置した軍団のみで他国に進軍してくるのはかなりリスクが高い行為らしい。首都や主要都市からの進軍が出来ないからこそ、ルーシ大公国の中では南方に位置するルィム半島へ軍を置いているが、それはつまり本国からの物資支援が得られないという事を意味する。
「あー、そっか……。現地調達しようにも、ルィムは貧しいもんね」
「だな。だからこそ、今ならルーシに勝てるってんで、
「なるほど……。そう言えば、聖ガリーアとアブズブールはどうなったの? ユーフス・パシャがウェネトに頼むって話……うまくいきそうなの?」
どこか雑談めいた口調で、ヒュマシャは軽く彼へと訊ねた。
すると、重なっていた青年の
「……そう、だな。首尾よくいったと、
ぺらぺらと手紙を振る様子に、やはりユーフスからの報告だったのかとどこか他人事のように冷えた思考が呟く。けれど同時に、少女の胸の裡で心臓が一瞬でぐぐ、と喉元へせり上がってきた。
恐怖にも似た感情に、一瞬で背中に冷たいものが流れる。
(覚悟は)
していたつもりだった。
けれど実際のところは、どこか夢にも似たような気分だったのではないか。
所詮は貧困層の、農奴の娘。
国を影から動かし、
(ルトフィーの、力になりたくて)
彼の進む道が、少しでも平坦であるように、と。
歩きよい道であるように、と。
そう願って申し出た協力だったが、その実、なにもわかっていなかった。
(本当に)
(離れる日が来るなんて)
きっと、本当の意味ではわかっていなかった。
急に表情を凍りつかせたヒュマシャに気づいたのだろう。青年は常よりも一層目尻を下げながら、軽く一度、唇を噛んだ。
言の葉を探すように、口内で舌を遊ばせる。
「……だから」
ルトフィーは僅かな沈黙の後に言葉を刻むように紡ぎながら、読み終えた手紙へと、ピリ、と亀裂を走らせた。
ビリビリビリ――。
千々に破かれたそれを手に、青年は立ち上がるとそのまま暖炉へと足を運び、パチパチと火花を弾くその中へと投げ入れる。白いそれは、一瞬で火を纏ったかと思った瞬間、黒い炭となり炎の中に消えていった。
「お前を明日にでも、【
わかっていた。
最初から、わかっていた。
彼が
ヒュマシャを
(最初から、ルトフィーは言ってたじゃない)
だから、わかっていた。
わかっていたからこそ、いま喉を無理やり通った唾がこんなに苦いのだ。
「……
「……新年。
「あれ。コアーム教って、新年は文字通り争い事御法度じゃなかったっけ?」
「まぁな。でも民主化する事を考えると、これからの時代、政治と宗教は切り離した方がいいだろうからな。その時に批判が出て揉めるより、滅びた帝国の皇帝がやってた方が後々いいだろ」
「……帝国の、最後の皇帝が?」
「そうだな」
最後の、皇帝だ。
自分自身へと言い聞かせるかのような、静かな、青年の声音。
先ほどまで恐怖にも似た感情が、心臓に汗をかかせ溺れさせていたというのに、不思議と今は少女の心も、凪いでいた。
「きっとアンタ、歴史書にひっどい皇帝として名前書かれるわよ」
「だろうな。古今東西、帝国や王朝の終わりの君主なんて、ろくなモンじゃないだろ。私欲のために権力を振りかざしたり――」
嘘つき。
国の為に、わざと泥をかぶるつもりのくせに。
「重税を強いて、奢侈の限りを尽くしたり――」
嘘つき。
初めて会ったばかりの
「苦言を呈す忠心を遠ざけ、甘言ばかりを口にする佞臣を重用したり――」
嘘つき。
アンタ、カランフィルから相当お子さま扱いされてるじゃないの。
「あとは、あれか。後宮に美女を侍らせて、色に溺れ――」
「嘘つき」
かつて滅んだ国々の暗君の、お約束とも言える所業の数々を口にするルトフィーへ、ヒュマシャはぴしゃりと冷や水をかけたかのような声を上げた。
「こんな美人が近くに侍ってたって、アンタ色になんて溺れなかったじゃない」
「……お前、自分はそんな言うほどじゃないとか言ってなかったか」
「そりゃ百花繚乱の後宮の中では、自分の顔が際立ってはいない事くらいわかってるわよ。でも、だからって後宮入ってるんだから、そこそこ美人なんだろうなーって自覚くらいあるわ。これで謙遜した方が嫌味じゃないの」
「ふはっ、……まぁ、そうだな」
笑いを小さく噴き出すルトフィーを、ヒュマシャは軽く唇を吐き出したまま
「……極悪非道の最後の皇帝らしく、
ハッ、と弾かれた様に、ルトフィーの
静まったはずの心臓が、再びバクバクと弾み始め、頬にカァッと熱が集まる。耳朶も、まるで暖炉の火で炙られたかのように熱い。熱い。熱い。
熱くて、仕方ないのだ。
――心の、一番深いところが。
「…………俺は、嘘つきらしいからな」
「……だからアンタも歴史に倣って、悪行のひとつくらいは踏襲したらって言ってんの」
「ははっ。それなのに、後宮の百花繚乱の花々じゃなくて
「当たり前よ」
ヒュマシャは立ち上がると、彼の方へと歩を進めていく。シュルリ、と衣擦れの音が暖められた部屋へ流れた。
軽く肩を揺らした青年へと、真っすぐに彼へと睫毛の先を向ける。
「極悪非道の皇帝は、自分の好きな女を寵愛するものでしょ」
語尾が終わる前に、気恥ずかしさから少女の
「…………お前ほんっと、何て言うか……ほんと、図々しいよな」
呆れたような、それでいて柔らかな声音。
自分は、この声がすきだった。
「何よ。何か文句あんの?」
逸らした視線をちらりと元に戻せば、苦笑が滲んだルトフィーの
この、垂れた双眸もすきだった。
「いーや? でも、実際図々しいにもほどがあるだろ。お前も恥ずかしがれってどんな理屈だよ」
「だって、アンタ、……あたしの事、絶対すきだもん」
「……お前、この前、自分は何も言ってもいないし、言われてもないとか言ってたなかったか」
「はぁ!? あ……、あんな、いっつもいっつも、キ、……キスしといて……いまさら言い逃れ出来るとでも思ってるわけ!?」
ふと気づけば、まるでそうする事が当たり前だとでもいうように口吻けてきたくせに。
そう指摘してやれば、ルトフィーの頬にも朱が走った。
気まずそうに、彼の指が唇を覆い、榛色の瞳が逃げようとちらりと横へと走ろうとするのへ、ヒュマシャは両手で彼の両頬をびたんと抑える。
逃れる事を許されなかった彼の双眸が、少女のそれと交わった。
「……お前には、
ヒュマシャの両手を包み込むように、ルトフィーの手のひらが覆ってくる。彼の体温によってゆっくりと剥がされるように、頬から手を離した少女は、その言葉に顎に皺を刻んだ。
「アンタにだって、この後、長い長い人生があるじゃない……」
側室にしてほしいわけじゃない。
寵姫さまよ、と褒めそやされたいわけでもない。
後宮を持たないという彼の傍に、ずっといれるだなんて夢も、見てない。
一度だけ。
ただ、一度だけでいい。
「あたしは、アンタに一生温もりを知らない人生を送ってほしくないのよ……! どうせ
悪逆非道の最後の皇帝は、愛し愛された存在であったのだと。
心の底から、彼をすきだった女がいたのだと。
それを、残して行きたい。
農奴の娘で、立派な考えも持ってないし、高尚な精神があるわけでもない。生まれた意味など、あるのかないのか、それすらわからない。
ただ流されるように、ここに辿り着いた。
けれど。
「ルトフィーが国を救うのが生まれてきた意味だっていうように、あたしにもその意味があるなら……、だったらあたしは、その理由をアンタにしたい」
もう二度と、触れる事が出来なくても。
傍にいれなくなったとしても。
一度でいい。
一度だけでいい。
「あたしは、最後の皇帝をただひとり愛して、愛された女になりたい」
「……っ!」
ふわ、と柑橘系のにおいと共に、赤味がかった少女の金糸が舞い、華奢な身体が、青年の
ぎゅぅ、と締め付けられるような胸の甘さに、ヒュマシャはしがみつくように彼の背へと手を回した。
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