3-9

 パチパチと爆ぜる音を立てていた暖炉が、気づけば何も喋っていない事に気づき、ヒュマシャは書物を整理する手を止めて、腰を持ち上げた。

 そろそろ暖炉の薪を足した方がいいかとは思っていたが、思っていたよりも先に燃え尽きてしまったらしい。部屋を暖めるためという本来の使い方の他に、いまこの【黄金の鳥籠カフェス】において、暖炉の火がなす大切な役目はズバリ「密書を文字通り炭にする事」である。


  ――国が民主化したとしても、そのまま国が機能していけるようにするために、俺はもう一度帝位に就くことを望んだんだよ。


 そう言ったルトフィーはあれ以降、ときおり様子窺いという名目で訪れるカランフィルを間に挟み、ユーフス・パシャとの密書のやり取りを続けているようだ。もっとも、そういった情報の交換は恐らく昔から――それこそ、彼がこの鳥籠の主となった頃から続いていたものだったのだろう。

 勿論その密書は、一見普通の近況を知らせる内容であり暗号が用いられているものらしいが、それでもユーフスの手紙がこの【黄金の鳥籠】に存在する事自体がまずいという事で、小まめに処分する役目としてヒュマシャが申し出ていた。

 厨房を使う事がある自分なら、暖炉だけでなく定期的に火に近づく事があるので、一番適任と判断したからだ。


「ルトフィー」

「ん?」

「ごめん。暖炉の火、消えちゃったから、あたし、薪、貰いに行ってくるね」


 後宮ハレム内で使用する薪を管理しているのは当然宦官であり、ここ【黄金の鳥籠】でも例外ではない。スュンビュルたちに運んでもらおうかと、彼らが日常的に待機している部屋へと向かおうとした、その瞬間。


  ――コン、コン


 部屋の入口扉がノックされた。

 「なんだ」というルトフィーの返事と共にガチャ、と扉が開き、後宮全体を取り仕切る監督長クズラル・アースゥが、その巨体を部屋の中へと滑り込ませてきた。


「ルトフィーさま」

「……何か、動きがあったか?」


 ちら、と背で扉が完全に閉まったことを確認したカランフィルは、絨毯の上に座すと、懐から手紙を差し出す。常よりも性急なその様子に、ルトフィーが訊ねると、是と短い返事がなされた。

 なんとなく、いまは人の出入りは多くない方がよさそうだ。

 ヒュマシャは外衣カフタンの裾へとふわりと空気を孕ませそれを翻すと、彼らの傍へと足を向け、ぺたりと腰を落とした。


「ユーフスからか?」

「えぇ。まずはご覧になられた方がよろしいかと」

「あぁ」


 受け取った手紙に走る文字を追うルトフィーの顔色が、みるみるうちに変わっていく。緊張の他に、怒り、恐れのような感情も見て取れる。間違いなく、悪い知らせだろう。


「……このタイミングで、聖ガリーア神国と、アブズブール君主国……か」

「元々あの二国は、我が国と領土問題で幾度も揉めていた歴史がありますけどね……。でも、ユーフスが言うように、これ、間違いなくルーシが絡んでますよ」

「まぁルーシ南下の情報がほぼ同時に上がったんだし、そうだろうな」


 ユーフスからの密書に添った話を交わすふたりに取り残されたヒュマシャは、とりあえず拾った単語から現状を何とか読み取ろうと思考の渦へと潜り込んでいく。

 聖ガリーア神国と、アブズブール君主国――。

 どちらもトゥルハン帝国に隣接する領土を持っており、所謂、古代王国時代を正式に継承すると謂われる国家である。故に、それこそ百年、二百年以上前から領土争いと和平を幾度となく繰り返してきており、国交は断絶とまではいかないが、仮想敵国に近い状況の時もあったはずだ。


(ふたりの話し方からすると、この二国が宣戦布告してきそう……って事なのかな)


 ルーシ大公国の南下と関係があるという事は、三国同時に攻めてくるという事だろうか。


(ん? でもこの二国はともかくとして、ルーシは冬将軍とやらでもう動けないって話じゃないっけ??)


 ヒュマシャが唇へと指を当てながら眉を顰めていると、それに気づいたらしいルトフィーが「あぁ」と呟き、少女へと視線をよこした。


「ヒュマシャ、現状、どう把握してる?」

「え……と、ルーシに合わせて、か、どうかはわかんないけど……聖ガリーアとアブズブールの二国が、同時に宣戦布告でもしたのかなって……。でもルーシは冬将軍のせいで軍はもう動かせないんじゃないかって、この前言ってたから、ルーシに合わせてってのはないのかな? とか……」


 身振り手振りでなんとか自分の考えをまとめつつ伝えると、少女へと向けられていた二名の双眸が驚きに軽く見開かれる。


「え……、やっぱ違う?」


 不安にちらりと窺うように視線を這わせれば、ルトフィーはふ、と頬へ滲ませた笑みを隠すように軽く横を向き、音のない笑い声を零していた。く、く、と肩が小刻みに揺れている。


「あらやだ。ヒュマシャ、アンタ、ブスなのに頭の回転はいいのね」

「ちょっ……!! いまブスって関係なくないっ!?」

「あるわよ。思考回路までブスかと思ってたけど、そうじゃないのねって褒めてあげたのよ」

「全っ然、微塵も褒められた気がしないんだけど……っ」


 半眼で眉間に皺を寄せても、流石は魔窟・後宮の監督長を務める男には、ヒュマシャ如き小娘からの睨みなど痛くも痒くもないらしい。心の中でこの大男を一度タコ殴りにした後で、再びこの鳥籠の主へと視線を戻せば、ようやく彼の笑いも収まりつつあるようだ。


「お前、相変わらずすごいな。ほぼ正解」

「え。そ、そうなの??」

「まぁ、ルーシの南下に関して言えば、フェイクだろうな。ユーフスの調べによると、聖ガリーアとアブズブールに、領土拡大という名のトゥルハンへの侵攻をルーシが水面下で認めたらしい」

「ん?? ルーシ南下は本当はないって事? ……なのに、そんな噂をわざわざ流したのは、そう思わせておきたいから……?」

「そうそう。ルーシを警戒させといて、その間、聖ガリーアとアブズブールが進軍してくる。そうなると、どうなる?」

「えっ、えぇ……っと、国はルーシを警戒しているから、そっちに大軍を割くから……」


 結果的に、その他の国境の防衛は手薄になる。

 ルーシ大公国の南下がフェイクであろうと、その二国に関しての進軍は本当なのだろう。そうなれば、結果的に領土がその二国がもぎ取っていく事になる。


「……待って。でも、そんな事してもルーシには何の得もなくない……?」


 過去の戦争で、トゥルハン帝国は幾度も複数の国を相手にしてきたらしいが、今回冬将軍とやらのために戦争に参加できないのだとしたらルーシ大公国への恩恵というものは何もないのではないか。

 北の大国と呼ばれる国が、ただの親切心で聖ガリーア神国、アブズブール君主国の二国に花を持たせるような事をするとは思えない。


「得ならあるだろ」

「えっ、あんの!?」


 驚きに、一歩、ヒュマシャは膝を進める。


「トゥルハン帝国の国力が削れる」


 ルトフィーのその声に、ヒュマシャは「あー」とだけ呻き、頷いた。

 確かにそうだ。

 南下のチャンスをずっと待っているルーシ大公国ならば、トゥルハン帝国の国力が削られるだけ、その後の自国の進軍が容易になるのだ。


「え……と、じゃあ……、どう、すんの? 今回のこの騒動を、どうにか利用しよう、みたいな話だったよね?? でも実際、聖ガリーアとアブズブールが進軍してきちゃっていいの?」


 確かに混乱には乗じて、政変クーデターは起こしやすいだろうが、そうなるとルトフィーの願う「国力を維持したまま、民主化の道へ」というものが、少し難しくなるのではないか。


「進軍してきていいわけは、ないな」


 案の定の返事である。


「え、じゃあどうすんの」

「それに関しちゃ、ウェネト共和国から停戦の圧力をかけさせるつもりだ」

「ウェネトから圧力……? そんなの、出来るの?」

「ユーフスが、あっちの貴族にコネがあるんだ。正確には、ユーフスの嫁のナクシディルが、だけどな。ウェネト共和国・元首ドージェの姪なんだよ」

「はぁ……。なるほど」


 ウェネト共和国とトゥルハン帝国は、過去こそ争いがあったそうだが、いま現在、国は隣接しておらず、領土争いも起きていない。仲がいいとは言わないが、そこそこの関係性を維持しているらしい。もっとも、それはユーフスがあちらへの外交を疎かにしていないからこそ齎された恩恵らしいが。

 ウェネト共和国にしても、それなりの付き合いをしていた国の国力が急に低下するのは自国への影響が大きいため、避けたいに違いない、という事らしい。何より国家として、自国が直接的に損をせずとも、他国がより強くなっていくのは面白くないという本音もあるだろう。

 軽く眉間に皺を寄せながら、視線を泳がせていたルトフィーは、自分自身の言の葉を一言、一言、確認するかのように声を紡いだ。


「……聖ガリーアとアブズブール、この二国はユーフスに任せるとして。ルーシの南下の情報は、生かしたいな」

「え。でもそれ、嘘なんでしょ?」

「勝手にルーシが火を起こす気もないのに煙を立ててくれたんだ。それなら、うちはその煙を本物の火事だという事にさせてもらおうか」


 ルトフィーの計画は、まずは正式にルーシ大公国の南下の情報を大宰相ヴェズラザム常備歩兵軍イェニ・チェリはじめとする国の高官へと報告を上げる。勿論、時期が時期なので訝しむ人間も沢山いるだろうが、それでも最大の敵国であるルーシ大公国の進軍という情報は、国として無視は出来ないだろう。


「もしかしたら、ハッタリだと気づいていても……いや、だからこそ自分の権威をひけらかす為に出陣しようとするやつらも多そうだな」


 結果的にそちらに兵の大半が割かれる事になり、武官や軍部イェニ・チェリは、そちらへと展開していくはずだ。その後、手薄となった首都・ケトロンポルスの隙をつき、ユーフス率いる軍が新宮殿イェニ・サライを取り囲み、それに合わせてルトフィーが【黄金の鳥籠】を抜け出し、恐らく皇帝の間にいるであろう弟から帝位を奪還する――。

 

「……すごい……、なんか、出来そうかもって、そんな気になってくるわ」

「まぁ、まだ机上の空論状態だけどな」


 まずはウェネト共和国への協力交渉を成功させ、そして聖ガリーア神国とアブズブール君主国への圧力など、水面下でやらなければならない事は、これから山のようにあるだろう。大宰相たちがどういった動きを実際に取るのかも、わかっていないのだから。


「でも、なんか……こう、一気に話が進んだ気がするっていうか」

「…………だと、良かったんだけどねぇ」


 案を出しルトフィーはじめ、カランフィルに至るまでその表情には晴れやかなものはなく、瞳は憂いの色が滲んでいる。思わず、「え、なんで」と呟いたヒュマシャへと、頬に分厚い手のひらを当てたカランフィルが、はぁと大きなため息をひとつ零した。


「アンタ、やっぱ脳みそブスね。ドブスだわ」

「はぁっ!? なんなの、急に!!」

「アンタもう忘れちゃったわけ? この国の軍を実際に取り仕切ってるのは、だぁれ?」

「…………あ」


  ――政治を行う場所は、内廷にあるドームの間クッベ・アルトゥだが、そこで決められたことなんて何一つない。全て後宮の、皇太后ヴァリデ・スルタンの部屋で決まった話が、大宰相たちの名でサインされていただけに過ぎないんだよ。


 かつて、そんな事をルトフィーが嘯いていたが、それは、もしかしたら軍部にも同じ事が言えるのだろうか。


  ――常備歩兵軍も、もう腐敗していたからな。自分の利権をまもるために、内部改革を拒否して、結果、皇太后側についた。


 軍部も――常備歩兵軍さえも、完全に皇太后の手の内に堕ちてしまっているのだとしたら。


「……何て言うか、心底腐った国なのね……」

「だから言っただろ。斜陽だって」

「そーでした」


 しみじみと呟くヒュマシャに、前皇帝であった青年は呆れたような視線を向けてくる。思えばだからこそ、政変クーデターを起こそうとしていたのだ。


「でもさぁ、いくら皇太后さまが軍部も高官もすべて支配下に置いていたにしても、ルーシが攻めてくるって知ったら、もしかしたら自分も危ないんだし、軍の派遣を許してくれないなんて事はないんじゃないの?」

「バカね。それを皇太后さまに信じさせるのがホネだって言ってんのよ」

「え。そのユーフス・パシャにうまいことその辺の報告させるって言ってなかった?」

「報告はさせるが……何事にしてもそうだが、皇太后は『自分が最初に決めた』事に拘るからな。自分よりも先に他人がなにかを決めるような情報を持つことを、ひどく嫌がる傾向にある」

「……後宮の中にいて、外部の情報を他人が先に知るのは嫌って……無理じゃない?」

「それが、女人の天下カドゥンラール・スルタナトゥなんだよ」


 ため息混じりで頭布ターバンの中に指を突っ込みガリガリと掻くルトフィーに、ヒュマシャも眉根を寄せて唇を軽く尖らせる。自分も人の事は言えないが、彼の母親は思った以上に、厄介な性格らしい。


(天邪鬼、なのかしら……。人から言われた事を素直に聞きたくない、みたいな?)


  ――皇太后さまから、「【黄金の鳥籠】のジャーリヤは、教育がなってないのではないか」と叱責されたわよ。アンタ、何しでかしたわけ?


 うーん、と思考の渦に迷い込もうとしたヒュマシャの脳裡に、ふ、と先日、すぐそこにいる監督長から言われた一言が蘇り、少女はハッと弾かれた様に顔を持ち上げる。

 あの時、さらっと冗談めかして言った事さえ、皇太后からの後見を得る為にそのまま告げた人間が、いたではないか。そして、それはそのまま正しく皇太后へと伝わり、信じられていたではないか。


(ううん、それだけじゃない)


 それどころか、ここ【黄金の鳥籠】にヒュマシャがいる事を皇太后に告げたのは――。


「ミフリマーフ……」

「は?」

「ミフリマーフよ! あの子に、さり気なく皇太后さまに情報を流させれば、信じるんじゃない……?」


 権威欲が強いらしい皇太后は、自分の知らない事を後宮の外から伝えられることをひどく嫌う。そのくせ、後宮内での噂話・・は自身の庭の管理として積極的に聞こうという姿勢で、さらに可愛がっている妾、側室イクバルからの話ならば、すぐに信じるというような俗っぽさも持っている。

 そうでなければ、ミフリマーフが漏らした情報でこれほどヒュマシャの身が危険になる事などなかったのだから。


「確かに……あの方は、アタシからの外部の報告はお好きではないようだけど、後宮内の噂話はよく聞こうとなさるわね……」

「でしょぉ? だから、カランフィルが外部からの手紙を読みながらついうっかり・・・・・・ミフリマーフの前でボヤいたりすればいいのよ。『ルーシからの進軍なんて、大変な事になるぞ』とかなんとか言ってね」

「……でも、そんなうまくいくか? 往々にして後宮の妾どもは、表向きな政には興味がない人間ばっかりだぞ。カランフィルのボヤきを聞いたとしても、それを皇太后に伝えるかどうかはカケに近くなるだろ」

「あら。そこはついうっかり・・・・・・聞かれてしまったわけだからね。『これは重要な話だから、内密だぞ』とか言えばいいのよ。そしたら、ミフリマーフの性格上、絶っ対喋るわ」


 誰がこうした、ああした、という噂話が、女の中で広まる理由のひとつがそれが「内緒の話」であるからだ。誰かの秘密を知ってしまい、それを共有する事で横の繋がりを太くするという「根回し」の目的もあるだろうし、単純に誰かの秘密にしている事を影でこっそりと笑い合いたいというゲスな感情というのも存在するだろう。

 ともあれ、女の世界ではその「内緒の噂話」が結構侮れない力を発揮するのだ。

 後宮の傍近くに生きており、世の中の男性の中ではそれなりに「女」というイキモノを知ってるはずのふたりが、呆気にとられたようにヒュマシャを見つめている。


「カランフィルがついうっかり・・・・・・喋っちゃった翌日には、皇太后さまの耳に届いてるはずよ。女の噂話・・・・としてね」


 にんまりと、頬の位置を高くして、唇に三日月を刷いた少女を見ていた男ふたりは、やがて少女の言を把握したのか、お互いへと目配せをし、頷いた。






 数日後――。

 後宮の監督長が、ついうっかり・・・・・・側室のひとりにルーシ大公国の南下の情報を漏らしてしまう事が起きた。

 「国の重要な情報故、決して他に漏らさぬように。他言無用である」と言われたその側室は、事の重大さを考えてそれを皇太后へと後宮で誰ともなしにしている噂話として報告したらしい。


 ――斯くして、ルーシ大公国南下の情報は、トゥルハン帝国の上層部全てが知る事となり、その警戒の為、常備歩兵軍を始めとする軍部が北方へと派遣される事に決まった。

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