3-8

 ほの暗さの満ちた部屋で、柑橘のにおいに抱きしめられていた。

 鼓膜に届くのは、とくん、とくんと脈打つふたつの鼓動。

 コチ、コチ、コチ、コチ――。

 時計が秒針を刻む音より早いその音に。

 背へと回された腕の強さに、ヒュマシャはぶわりと喉元に溢れそうになる感情を、呑み込むように喉を鳴らした。

 久々に触れ合った青年の温もりに、どうしようもなく胸の裡にくすぐったさが生まれてしまう。うなじの辺りがじわりと熱を孕み、指先に痺れが走るその理由を教えてくれたのは、いま身体を寄せ合うこの青年だった。


(あー、もう……っ)


 すきだなぁ、と。

 ふ、と口にしてしまいそうになり、ヒュマシャは再びそれをごくりと呑み込んだ。

 青年の肩越しにちらりと見遣った空は、気づけば鈍色の雲が少しずつ、でも確実にその重さを増している。先ほどまで、確かに陽射しがあったはずだが、いまはもう東方の国で書かれた墨画のような色に染まっており、湿った空気がカタカタと窓を叩いた。

 完全な雨雲に襲われるその前に、と、宦官たちによって後宮ハレム中のよろい戸が次々に立てられていく。この【黄金の鳥籠カフェス】も例外ではなく、スュンビュルとギュルが慌ただしく走り回り、気づけばすでに居室から外の景色が見えなくなっていた。


(……どんだけの間、抱き合ってたのよ……)


 実際、時間にしたら大した事はないのだろうが、景色が変わる程と考えるとそれなりに長い気もする。ヒュマシャが彼の肩口から顔をそっと持ち上げると、自身の金糸へと顔を埋めていた青年と、藍晶石カイヤナイト榛色ヘーゼルの視線が重なり合った。

 互いに似たような事を考えていたのだろう。何となく気まずそうに、ゆるゆると外されていくそれと同時に、互いに回していた腕も解いた。


「……まだ日暮れには早いってのに、戸を立てられると真っ暗になるな」


 ルトフィーはそう言うと、手元にあった装飾ランプへと手を伸ばす。緑がかった青いタイルの敷き詰められた部屋が、ぼぅ、と橙色に染め上げられた。

 彼と離れた事で、寒さを感じた肌がぶるりと震える、ヒュマシャが両腕で自分自身を抱きしめるように身を竦ませると、それに気づいたのか、ルトフィーがちょいちょい、と人差し指を動かした。

 寵愛を得ようとしているわけではなく、ただ彼の信念を支えたいと言った手前、自分から抱きつくのはどうだろうか。ヒュマシャが思案するように、軽く身を引くと、大層な出自であるはずの青年の唇が「チッ」と、下々のような舌打ちを発した。


「俺も寒ぃんだよ。ほら、とっとと来いってんだ、湯たんぽ」

「は!? 湯たんぽぉ!?」


 強引に腕を捉えられ、そのままグイ、と彼の許へと引かれた少女の痩躯は、先ほど同様ぽすんと柑橘系のにおいの中へと埋まった。確かに寵愛を得て側室イクバルになりたかったわけでもないが、だからと言って湯たんぽになりたかったわけでもない。


(でも思えば、コイツを意識しているって事を完全に自覚したのも、あの怪我で発熱した時の湯たんぽからだわ……)


 身体を強張らせていたヒュマシャが諦めたように力を抜くと、背へと回されていた彼の手が、少女の金の髪をさらりとくしけずった。ふわ、と舞うのは薔薇のにおい。肩を抱いたルトフィーの手によって、僅かに上体を起こさせられたヒュマシャは、その指示に従うように彼の胸へ背を向けると、ぽてん、と頭を肩口へと預けた。

 既に勢いを失った暖炉の薪が、パチと小さく火を爆ぜさせる。


「……で、どこまで聞いてた?」


 ヒュマシャの腹の上で手を組んでいる青年の声が、髪に触れた。

 少女は軽く首を彼へと回しながら、過去をなぞるように思考を一巡させ、そして「まぁ大体全部よ、全部」と口にする。


「ユーフス・パシャって宰相ヴェジールからの手紙で、ルーシがまた攻めて来ようとしてるって話とか、でも時期的にそれはおかしいんじゃないかとかなんとか言ってた事とか……」

「ほんと最初からだな」

「いや、だって浴場ハマムにひとり残されても困るじゃないの。特に用がなければ、とっとと上がってくるわよ」

「ま、そりゃそうか」


 実際のところ、自分よりも大分前に上がったルトフィーたちの話を最初から聞いていたとは思っていなかった。

 けれど、一度昂った男は、欲を吐き出さなければならないと聞く。浴場から出たルトフィーがソレ・・をどう処理したのかは、気にしてはいけない気がしていたのであまり深く考えないようにしていたのだが、まぁ、そういうコト・・・・・・なのだろう。


(……って、駄目。これ考え始めると、変な気持ちになるから……)


 浮かび上がった思考を、脳内でぱっぱと払うと、少女は続ける。


「あとは……、もう一度、皇帝スルタンになるんだって……」


 知らず、声は小さくなる。

 この館に住まう者で耳が聞こえるのは、ルトフィー以外ではヒュマシャしかいない事はわかっているが、それでも大声で話していいような話題ではない。


「前に、この国はもう腐り落ちかけているって話をしたの、覚えてるか?」

「うん。もう皇帝陛下には権力はなくって、歴代の皇太后ヴァリデ・スルタンさまと大宰相ヴェズラザムさまによってまつりごとが行われてて、昔強かった常備歩兵軍イェニ・チェリもその政に取り込まれた組織になっちゃったから……国全体が、弱くなったって話でしょ?」

「そうだな。結果的に、領土もどんどん失われていった」


 皇帝に仕える為の教育を受けていた時は、この国こそが世界中で一番強く栄えているのだと、そのまま信じ込んでいた。ヒュマシャの世界は、教本から得たことのみで成り立っていたし、実際故郷での生活よりも何十倍も、何百倍も素晴らしい生活を送らせてもらっていたのだから、そう思うのも仕方ない。

 けれど、言われてみればルーシ大公国の南下によって領土が奪われるなんて、自国が弱いからに他ならない。


「……ところでお前、【革命】って知ってるか?」

「革命……って、あれ? ブリタニア連合王国とか、フェロス王国で起きたっていう……」

「そう。それ。まぁ一般論として、既存の政治とか国家体制を破壊して、市民によって政治を行う……ってやつだな」


 近年、貴族や僧、王家といった支配層の権力が徐々に弱まっている風潮は、諸国どこでも見られる現象らしい。

 ブリタニア連合王国の場合、【革命】といっても王の娘夫婦による国王追放を示しているため、未だ王家は存在しているわけだが、フェロス王国は国王夫妻が処刑され、市民による政治が執り行われるようになったという。もっともそれも長くは続かず、結果的にあの国に皇帝を誕生させる事となったらしいが。


「でも、それは尊ぶべき血を敬えない野蛮な行為だって……偉大なる皇帝陛下を頂くトゥルハン帝国では、あり得ない事だって習ったわ」

「はっ、この何代かでしょっちゅう入れ替わってる皇帝の、一体どこに偉大さがあるんだって話だな」


 自嘲にも似た笑いを弾きながら、ルトフィーはヒュマシャの身体を抱え直すかのように腕の力を強くする。


「母上……皇太后や、大宰相たち国の高官、軍部は決して認めようとしないが、ここ一、二年の間でこの国でも【革命】の空気っていうのは、大分濃くなってきてる」

「っ! このトゥルハンでも……?」

「そりゃそうなるだろ。いまもまだ近隣諸国にも支配者層である王族、貴族はいるが、これだけ技術が発展してきてる世界で、いつまでも古い以外に然したる価値もないようなやつらが権威を保ち続けられるわけがない」


 実際、王族などよりも財を持つ市民、商人というものが、海外では出てきたという事だ。そうなれば、いつまでも慣例による特権階級として胡坐を掻き続ける支配者層というものを、邪魔に思う民衆が出てきてもおかしくはないだろう。


「ってよりも、まぁ俺がユーフスを動かして、そういう動きを扇動してるんだけどな」

「っ!? ルトフィーが!?」

「なんだよ、おかしいか??」

「……っ、だって……!」


  ――じゃあ、帝位に返り咲くおつもりは、まだあるって思っていいかしら。

  ――俺がそうする以外はないと思ってるよ。この国の未来の為には。


 そう、言っていた。


  ――逃げない。女の存在によって政を変えた結果が、今のこの国だ。


 だからこそ、自分が再び帝位に就くのだと。


「そう、言ってたじゃない……。もう一度、皇帝になるんだって」

「まぁ、言ったな」

「じゃあ……、なんでっ」

「俺がこの国で再び帝位に就くタイミングがあるとすれば、上層部の混乱を狙うしかなかったからな」


 曰く、最初は【革命】の空気を濃くしていき、上層部の足並みを乱した上で政変クーデターを起こすつもりだったらしい。けれど、今回、ユーフスのもたらした情報次第では別の動きもするという判断になったそうだ。


「でも……だったら、もう一度、皇帝になった後に、その、【革命】が起きちゃったら……?」


 まだこの国でそんな【革命】が起こるだなんて、俄かには信じられないが、そうなった時に、君主専制の象徴たる「皇帝」は、どうなるのだろう。状況が違うとはいえ、かつてのフェロス王国でのそれと同じく、血の惨劇が行われる可能性も、あるのではないだろうか。

 急に背筋を上ってきた寒気に、少女の奥歯がカチ、と音を立てた。知らず、自身の外衣カフタンの袖を握りしめていた手が、硬い手のひらに覆われる。

 ぽん、ぽん、とあやすように、触れてくるその感触に、彼と出会ってからどれだけ助けられてきたのだろう。少女はどうしようもないほどのいとおしさに、は、と吐き出す吐息を震わせた。

 ルトフィーはふ、と唇の端を持ち上げると、ヒュマシャの手の甲をぎゅ、と握り締めてくる。気恥ずかしさに「痛い」と嘯けば、噴き出したかのように彼は笑った。

 そして、「これ言うと、お前怒りそうなんだけどさ」と会話を続ける。


「ヒュマシャ、お前もさっき言ったように、この国は腐り落ちつつある斜陽の国家だ。皇太后や大宰相、常備歩兵軍は自身の足元を高くすることばかりを考えているし、国として末端からどんどん壊死し始めてる。そんな状況で、【革命】が起こったとして、どうなると思う?」

「……えっ。よく、わかんないけど……、壊死してた末端とやらをもう一度生かす為に、その、【革命】は起きるんじゃないの? だったら、いいんじゃないの?」

「国内は、な。でも、フェロス王国の例にもあるように、【革命】が起きたらほぼ間違いなく、諸外国から物言いがつく」

「それは……政治的とか繋がりがあるから?」

「そうだ。諸外国の王族なんて、大体どこもかしこも親戚だしな。トゥルハン帝国うちはそういう柵を嫌がって、外戚に正式な諸外国の血を入れないようにしてるけど、それにしたって各国の外交官がいて、領事館が国内にあって、諸外国との付き合いがある以上、【革命】が起きれば確実に他国からの干渉がある」


 フェロス王国の王妃は他国の出身であった為、血の革命によって命を落とした彼女の兄弟姉妹をはじめとする海外の王族、貴族からの批判が殺到し、当時新たに市民の手によって作られたフェロス共和国とその他諸外国、という一触即発の事態にもなったという。


「いまのまま、このままの状態で、帝国が解体して、【革命】が成ったとしても、諸外国に食い潰されるのは目に見えた話だな」

「…………わかんない、けど。もしかして……、アンタがこのタイミングで復位しようとしてるのって、いつか来る【革命】とやらの為に、国をある程度立て直して、強い国の状態で、帝国を解体しようと……してるの?」

「…………」


 そんなに変な事を言っただろうか。突然押し黙ったルトフィーの目が、驚いたかのように、丸くなるのへ、ヒュマシャは睫毛を上下させた。


「え。ごめ……、なんか変な事言った? あたし」

「いや……、正解」

「え、正解!?」

「うん。正解」


 ふ、と頬を溶かし、常より下がり気味な眦を一層下げて青年は笑う。


「すごいな。元々頭の回転は早いとは感じてたけど、ヒュマシャ、お前いいよ。すげぇ……ははっ」

「え、えぇえ? そ、そう、なの??」

「いや本当…………後宮の、ジャーリヤなんかにゃ惜しいくらいだ」


 少女を抱きしめていたルトフィーの腕の力が強まり、少女の髪の中に青年の声が埋もれていく。彼の言の葉が耳朶に触れるよりも先に、首筋に青年の吐息が触れた。

 ヒュマシャが俄かに身を固くすると、ちゅ、とうなじで小さく濡れた音が弾かれる。


「~~~~ッ、ちょ……、」

「は~、本当……欲しいんだけどな」


 明らかに熱を孕んだ常よりも低い声でそう呟いた青年は、次の瞬間、何事もなかったかのように、すっと少女の髪からおもてを離した。

 そして、後ろ向きに抱えられていたヒュマシャは、くるりと方向を再び変えられ、青年の真正面へと座らされる。ふわ、と外衣の裾が空気を孕んだ時に、宙に滲むにおいが自身の薔薇ではなく、柑橘系のそれであったことが、胸にくすぐったい。

 唇をもにもにと動かしながら、そっと目の前の青年を窺い見れば、彼もまた榛色の瞳を少女へとまっすぐに向けていた。


「【革命】が起こった後、帝国がなくなって……国が民主化したとしても、そのまま国が機能していけるようにするために、俺はもう一度帝位に就くことを望んだんだよ」


 病院や学校、道路、水道、鉄道など、公益的な福祉施設を充実させ、帝国解体による混乱時にもなるべく救いの手があるように。

 そのために、トゥルハン帝国の皇帝一族の所有する財産を使い、社会基盤インフラを整えたいのだと――そう、ルトフィーは言った。


「だから」


 青年の手のひらが、ヒュマシャの白磁の頬へとす、と触れる。

 親指の腹が、少女の口唇へと口吻けをするかのように撫ぜていく。


「ごめん、な」


 俺は、お前を選べない。

 おまえを、選べない。

 紡いだ傍から、苦い感情をそのおもてへと滲ませる青年に、少女は震える声を返す。


「……まだ、あたし、何も言ってないし……、大体、言われてもないわよ」


 バカ。

 俯いた青年の「ごめん」声が、引き寄せられた金糸に再び埋もれた。

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