3-7
カタカタと、窓を風が叩く音が、部屋を小さく震わせた。
忙しなく、ぺらりと紙が空気を孕む音が響き、その合間を縫うようにコチ、コチ、コチと時計の秒針が時間の流れを刻む。
ちら、と見遣った睫毛の先にいるのは、この館の主たる青年。
書見台に置かれた書物へと真っすぐに視線を落とすその横顔は、お世辞抜きに整っている。額にかかる前髪をときおり指先で散らしては、
ヒュマシャが【
窓の外の空を見れば、どんよりと陽こそ出ているものの、明らかに空の位置が低くなっている。紅葉した葉も、すでにその枝に別れを告げている――そんな、
ヒュマシャのこの緑がかった青のタイルが敷き詰められた部屋での過ごし方は、二月ほど経ったいまも変化はない。書物を読んだり、暇潰しに菓子作りをしたり。
(でも……変わったところも、ある)
縫い止めていた視線を、再び近くへと巻き戻していく。少し前までは、この部屋で過ごすときは、互いの
声が耳朶に触れるその前に、吐息さえ感じるほどに、近かった。
柑橘系のにおいと、薔薇のにおいが混ざり合うほどに、近かった。
(でも)
いまは、同じ部屋で過ごしながらも手を伸ばしても届かない場所で、互いにそれぞれの時間を持っている。そのくせ、意識ばかりを相手の見ていない場所で刺しあうのだから、室内の空気はいつも軽い緊張に包まれているようなものだった。
あの日、
否。
――女の存在によって政を変えた結果が、今のこの国だ。だったら、惚れた女の為だけに、俺が国を見捨てるわけにはいかないだろう?
あの後、部屋に戻った彼のその言の葉で、ふたりの間には透明の壁が築き上げられた。
お互いの姿は見えるのに、声は聞こえるのに、触れ合う事が出来ない関係。相手の立っているその場所を考えれば考える程、透明な壁は厚くなっていく。
(何となく、気まずいなぁ……って思ってるうちに、まさかその事に触れられなくなっちゃうほど、ルトフィーとの間がギクシャクするとはね……)
ははっ、と内心落ちる、乾いた笑いさえも胸の裡でむなしく溶ける。
(だって、ルトフィーとは最初っからそんな感じだったし……)
顔も名前も知らず、事故のように出会ったころから、互いに遠慮だけはなかった。身分差を知った後も、言いたい事を言っていたし、したいようにしていた。
言葉を交わしたければ、話しかけた。
その中で笑いたい事があるなら、声を弾ませた。
距離を詰め、触れることさえ恐れなかった。
(キスだって、したいと思った時には…………してたのよ)
けれど、いまの彼との間にある空気は、それこそ息苦しさを覚えるほどに、固まってしまっている。
甘い甘い菓子を作っても、まるで砂を噛むような気分になる。
もぐもぐと、口の中で飲み込みにくいそれをいつまでも遊ばせて、ようやく飲み込んでも、喉元にいつまでも何かが貼り付いているような気分になってしまう。
飲み込んだそれが、菓子なのかそれとも表に出ることが出来なかった言の葉なのか。ヒュマシャにはもう、わからなくなっていた。
(……って、だからホンッット、こういう時間、不毛っ!!)
うじうじとひとり、悩んでいても答えなど出るわけがない。
彼との関係は、自分ひとりで完結できるようなものではなくて、あくまでも彼と話し合わなければ進むことも引くことも出来ないのだから。
(そもそもあたし、こうやって悩んでいるの、性に合わないのよ)
あたしは、物語の中のお姫様じゃない。
悲劇のヒロインなんかじゃなくて、草の根噛んだ事さえある、たくましい貧困層の――ただの娘なのだ。
ヒュマシャが再び彼へとちらりと
(なによ……取り繕った顔したって無駄なんだから)
生来のルトフィーは――、少なくともヒュマシャと共にいたルトフィーは、感情が割と素直に
どこにでもいる、普通の青年だった。
だから。
少女は「よしっ」と声を出しながら両頬を手のひらで軽く叩くと、
そして、青年の眼前まで行くと、彼の読む書見台の上に自身の影が差し掛かった。
「…………なんだ」
やや苛立ちを含んだような低い声と共に、ちら、と上目遣いに榛色の瞳が向けられる。少女はその視線をまっすぐに受け止めると、す、と落下するかのように素早く腰を絨毯へと落とす。
そして彼と自分を隔てる書見台をズルズル引きずるように、横へとずらした。
「ちょ……、おい。なんだよ」
ここ最近、努めて表情に感情を出さないようにしていたと思われる青年の双眸が、驚きに軽く見開かれた後、やや不快な感情を眉の間に刻んだのを見て、胸中で「ざまぁみろ」と独りごちた。
(なんて言ってたっけ……ユーフス??)
あの日、彼らが口にしていた
「ねぇ、訊きたい事があるのよ」
「…………あ? なんだよ」
「ユーフス・パシャからの手紙……って、具体的にどういう内容だったの?」
「……っ!? お前……っ」
視線だけ向けていたルトフィーが、はっと弾かれたように背を預けていた長椅子から体重を起こした。そして、「なんで」と彼の唇が音のない声を紡ぐのを、少女は鼻先に集めた笑いを以て受け止めた。
その表情に、事態を悟ったらしいルトフィーは、垂れ目がちな双眸を横へと流しながら、軽く舌打ちをする。
「…………お前には、関係のない話だよ」
「あるわよ」
「ないだろ。第四宰相からの手紙なんて、お前に関わりあるわけが――」
「あるわよっ!」
声を荒げたヒュマシャに、ルトフィーは不快そうに顰めていた眉を伸ばし、榛色の瞳を丸く見開いた。少女が癇癪のように彼へ感情をそのまま表す事は珍しい話でもなかったが、それでもいま、このタイミングでそれがされるとは思ってもいなかったらしい。
「
何も知らないままなら、良かった。
名前も知らず、彼の正体も知る事なく別れたのなら、無関係だっただろう。
でも。
(あたしは、もう知ってる)
この青年が、誰であるのか。
彼の、名を。
彼の、声を。
どんな笑い方をするのか。
どんな声で、自分を呼ぶのか。
彼の指が、どんな風に自身へと触れてくるのか。
少しカサついた唇も。
口吻けの、――味でさえも。
「なのに、今さら無関係だなんて言わせないわよ」
ヒュマシャが常より跳ね上がり気味な眦をキッ、と鋭くさせながら、真っすぐに
「んっとに、人の言う事聞きゃしねぇ……」
ガシガシ、と
「今さらでしょ。大体、もう話の大半はこの前、すでに盗み聞きしちゃってんのよ」
「……躾のなってない女だな」
「ふふっ、いまさら?」
――
皇太后の息のかかっていない妾と、彼の関係がどのようなものであるのか。
彼が、日々どう過ごしているのか。
目くらましのためにわざと零した内容は、思った通りミフリマーフによって皇太后へと無事、届けられたようだ。
「知ってるでしょ。跳ねっ返りよ」
そう勝ち誇ったかのように告げてやれば、横へ流した視線をちらりと向けてくる。そして「だな」と、ルトフィーの頬に苦笑を滲んだ。
「ねぇ、ルトフィー」
「なんだよ」
ヒュマシャが青年の名を呼ぶと、いまだ僅かに気まずそうにしている青年へと一歩、にじり寄るように近づく。ふたりの外衣の裾が重なり合い、窓から差し込む陽射しに焼かれたふたりの影が、絨毯の上へと貼り付いた。
「あたしはね、知っての通り、ルィムのど田舎で生まれ育ったの。あんたみたいに、国だとか
毎日葡萄の世話をして、隙間風の入り込む家で薄い毛布にくるまって、明日の朝のスープには今日より具が多く入ってればいいなと望みながら、ただ繰り返される毎日を生きていた。
誘拐され、故郷を離れ、売られた先で奴隷になった――と言えば、人の同情を引き寄せる事の出来そうな話ではあるが、正直、売られた先での暮らしの方が、元の故郷での暮らしなんかよりも何倍も、何十倍もいい思いが出来た。
明日のパンの心配をしなくてもよかった。
ひもじ過ぎて、草の根を噛む必要もなかった。
赤味がかった金糸は、枯草の手触りから柔らかな絹のようになった。
限度はあるものの、宝石も綺麗な服も与えられた。
読み書きに歴史、料理に手芸、楽器の演奏、吟詠――ありとあらゆる教養を、与えられた。
故郷の家族が恋しくなかったわけではなかったが、それでも売られた先での暮らしに大きな不満があったかと訊かれたら、答えは「否」だ。
「だからね、正直いまもあんたがやりたい事、やろうとしている事は、わからないの。あたし、性格あんま良くないし。そういうお人よし? の考え方が出来ないのよ」
国の為に、彼が危険を冒そうとする意味がわからない。
見たこともない誰かのために、そうしようとする意味がわからない。
「そりゃあ……普通、そうだろ。俺が、そういう考え方が出来るのは、帝王学を幼少時から学ばされるからだよ。まぁお前が性格悪いのは否定しないけど」
「ちょっと! そこは、お世辞でもいいからしときなさいよ」
「なんだよ、自分でも言ってただろ。跳ねっ返りだって」
「も~~~~! うるっさいわねっ」
唇の先を尖らせたヒュマシャを見たルトフィーが、ふはっ、と破顔する。その顔に、少女の眉の間の皺がふわ、と溶けて、ふたりの笑い声が重なった。
ふ、とした拍子に、絡み合う榛色と藍晶石の瞳。
交わっていたのは、もしかしたら一瞬だったのかもしれない。
けれど、ヒュマシャの細い指が、かつてのように知らず、ルトフィーの手へと伸ばされる。軽く青年の肩が揺れるのを気にせず、上からそっと骨ばったそこへと自身の手のひらを重ねた。
寒さ故に乾燥しているのか、カサカサとしている。きゅ、と握り締めると、指の腹はさらにザラついていて、むしろ触れたこちらが痛いほどだ。
この一月ほど、何かにとりつかれたかのように繰り返し書物を読み続けたせいで、指先の水分を持っていかれたのだろう。
「でもね……、あたし、目の届く範囲、手を伸ばしたら触れられる範囲にいる人たちには、笑っていてほしいって思うの。カランフィルとはまたくだらない事で言い争って喧嘩したいし、スュンビュルとギュルにお菓子作ってあげて、喜ばれたいの」
「……そう、だな」
「すきな人には、幸せになってもらいたいのよ。――
「ふはっ、お前のためかよ」
「そうよ。全部、あたしの為よ」
全部全部、「根回し」だ。
自分の為に、自分の好きな人には、幸せでいてほしい。
望むことがあるのならば、応援したい。
叶えてあげたい。
だから。
「やりたい事、やろうとしている事――全部理解する事は、出来ないけど。でもね、それがルトフィーの生まれてきた意味だって言うのなら、」
あんたのために、あたしはそれを叶えたい。
少女の言の葉が語尾を紡いだ、その、瞬間。
彼へと重ねていた手をぐい、と引っ張られる。
金の髪が、舞う。
「ぅ、わ……っ」
青年をして、「色気がない」と称された少女のその悲鳴は、青年の外衣の中に閉じ込められる。
部屋に、大きなひとつの影が、転がった。
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