3-6

 ぺたりと座り込んでいた腰を持ち上げると、ヒュマシャは石畳へと足音を散らしながら【黄金の鳥籠カフェス】を窺う人物の許へと赴き、声をかける。すると、彼女も少女に気づいたのか、橄欖石ペリドットの瞳を零れんばかりに見開いた。

 鳥籠に限らず、この後宮ハレム内の窓はいらぬ心配が起こらないように、全て格子が取り付けられている。けれど、空調のためにほんの僅かならば上へとずらし、開けられる仕様となっているため、声ならば十分に届くだろう。

 ヒュマシャは窓枠に手をかけると、ガタッ、という音を立てながら窓を開ける。スゥ、と冷たい空気が外から流れ込み、少女の未だ濡れている髪へと絡みついた。


「久しぶりね、ヒュマシャ。元気だったかしら?」


 ヒュマシャの頬が固まったのは、外気の冷たさに凍り付いたわけではなく、まるで何事もなかったかのように、ふんわりと笑うミフリマーフのせいである。まさに「どのツラ下げて」という定型文そのままなシチュエーションに、少女の目は呆れを伴った色に染まった。


「まぁ、お蔭様で元気は元気だけど。でも、まさかそれをあんたに言われるとは思わなかったわ……」

「まぁ、何故? ヒュマシャがこんなところに入り込んでしまったと聞いて、私、すっごく心配したのよ?」

「自分で仕組んだ挙句、心配までしてたら世話がないわね」

「……まぁ。私には何のことか、わからないわ。ヒュマシャ」


 にっこりとしながら小首を傾げるミフリマーフの姿は、腹黒の本性を知ってるヒュマシャから見ても、騙されてもいいかと思えるほどに愛らしい。


(まぁ、騙されたりしないけど)


 ヒュマシャは窓辺に腰かけると、「それで」と睫毛の先をガラス戸の向こう側の少女へと向けた。


皇帝陛下スルタンのお気に入りの側室イクバルサマが、こんなところ・・・・・・に何の御用?」

「……だから、ヒュマシャを心配して……って言ったじゃない。何か乱暴されていたり、辛い目にあっているんじゃないかって思っていたのよ」

「なるほど。あたしが乱暴されてたり、辛い目にあっている事を期待していたわけね?」

「やだ。そんなこと思ってないわ。もう、どうしたの? 久々にお友達に会えて嬉しいのに、そんな事言われたら、私、悲しいわ」


 おともだち。

 これまた笑える言葉が彼女の口から飛び出してきたものだ。

 故郷にいた頃から、今日に至るまで、「お友達」であった事なんてただの一度もないだろうに。


「でも、元気そうで安心した。いまつけている首飾りネックレス翠玉エメラルドかしら。すごく素敵ね。ヒュマシャにとっても似合っているわ」


 鳥籠で暮らすようになってから、彼女の着る服やアクセサリー、雑貨に至るまで全てカランフィルが用意してくれたものだ。どうやら実際はどうであれ、ヒュマシャはこの【黄金の鳥籠】で囲われたジャーリヤとしての認識になるようで、その分の手当てが出るらしい。

 カランフィルが用意しただけあって、ヒュマシャがいま身に着けるすべては決して粗悪品ではない。


(でもだからって、それをミフリマーフが言うと純然たる嫌味になるっていうのがね……いっそ見事だわ)


 冷たい夕方の風に揺らされ、薔薇の甘いにおいを周囲へ溶かしているふわふわの色素の薄い金の髪を、軽く押さえている華奢な指には、大きな赤い宝玉――恐らく、紅玉ルビーだろうか――の指輪がはめられている。

 ほっそりとした白い首筋には、ヒュマシャの身に着けているものなんて子供の玩具にしか思えない程、大きな翠玉があしらわれた首飾り。

 発光しているのかと思うほどに白い肌の上で、翠玉を飾る金剛石ダイヤモンドたちが肌に負けまいとでもいうように、キラキラと光を乱反射させている。そのにあっても宝石たちに劣らないほどの迫力を見せる盛り上がった胸元は、もはや男にとっては凶器に等しいほどの存在に違いない。


(……ちょっとやそっとじゃお目にかかれないくらいの美少女で、ジャラジャラこれ以上はないほどの立派な宝石身に着けたような人間に外見褒められても、嫌味にしか聞こえないっての)


 思えば、昔からミフリマーフにはこういう言い回しで嫌がらせをされていた気がする。直接的な雑言は取り巻きたちにやらせておいて、自身は「まぁ駄目よみんな、可哀想だわ」と言いながら、その実誰よりも相手を貶すやり口だ。


(要するに、根性ひん曲がってるのよね……この女)


 まぁ、あたしも、人の事どうこう言える程の人間性でもないけど。

 ヒュマシャは、瞼の上にめんどくささを貼り付けた視線を目の前の美少女へと送っていたが、ふ、と脳裡に過った疑問に、睫毛を一度、上下させた。


「そう言えば、なんであんた、ここにいるの?」

「やだ、言ったじゃない。私はヒュマシャが心配で……」

「じゃなくて。ここにいてもいいわけ? って訊いてるの」

「? どういう事かしら?」


 風に流されそうになる金糸を首元に集めるようにしながら、ミフリマーフは軽く小首を傾げた。きょとん、とした顔は可愛らしいの一言で、性格の悪さはむしろ天は二物を与えなかったいい例なのではないかと思えるほどだ。


「いや……あんまよく知らないけど……、皇帝陛下に召される側室って朝から脱毛処理とか肌の手入れとか化粧とか? なんか色々時間かけて念入りにおめかしするんじゃないの?」


 あくまでも、後宮に入る前に教育期間中の妾同士で出てきた噂話だが、でも確かにそんな事を誰かが言っていた気がする。見た者、経験した者がいるわけでもないので、実際のところはどうなのかわからないが、あれ程までに全身全霊をかけて皇帝陛下へお仕えしろと言われていたのだから、お召しの際には丸一日を美容に費やしてもおかしくないと納得したものだった。

 ヒュマシャが軽く訊ねると、微笑んでいたミフリマーフの顔から、花が消えた。首元で抑えていた指が力を失ったのか、ふわりふわりと月明りのように柔らかそうな髪が一気に冷たい空気の中に舞う。


(あ、れ……?)


 ミフリマーフの橄欖石の瞳が、すぅ、と一瞬冷たい光を滲ませた。

 けれど、橙の夕陽に照らされているはずのこの場所に、昏い影が落ちたような――そんな錯覚を抱いてしまったのは一瞬の事。次の瞬間、ぱっと再び笑顔を咲かせた彼女は、風に遊ぶ金糸を再び柔らかく手のひらで留めた。


「あぁ、そうね。でも、今日、陛下は別の側室の方を召されていらっしゃるの」

「……ふーん? そうなんだ」


 確かにミフリマーフがお気に入りの側室とは聞いたが、それ以外にもお気に入りの側室がいないという話は聞いていない。単純に、様々大きなな花を愛でたいという男の欲望もあるのだろうし、それこそ後宮内の均衡バランスのためにも、ひとりの女に寵愛を傾け過ぎないという意味もあるのだろう。


  ――女子供の読む恋物語じゃないんだ。側室ひとりだけを寵愛し続けられるなんて、そんな保障はどこにもない。


 先ほど、扉の向こうでルトフィーが懸念し、そしてヒュマシャを後宮に入れないと断言させるに至った理由が、まさにこれなのだろう。


(あー、そう言えば、そもそも皇帝の夜伽を決めるのって皇太后ヴァリデ・スルタンさまなんだっけ)


 なんせ、幽閉している息子に侍る女さえも、管理したいほどの母親である。自身の権力のお膝元である後宮において、皇帝の夜伽役を選定する事なんて彼女からしたら当然の話なのかもしれない。


(……って、待って……。待ってよ)


 ふ、と脳裏を過った考えへと、慌てて手を伸ばし、それを掴んだ。

 指の間からふわりと紐解かれた考えに、少女の喉がごくりと上下する。


(ミフリマーフのこの美少女っぷりを考えれば、これに皇帝が飽きるっていうのはちょっと……考えにくいのよね)


 天使かと思うほどの愛らしい顔立ちに、男ならばきっと誰でもむしゃぶりつきたくなるほどの身体。多少性格に難があるとはいえ、きっとそれ故に皇帝の前では綺麗にその黒い部分は隠しているだろう。


(でも、それとは別問題で、皇帝は数多の側室や妾を召さなければならない……はず)


 天下の美女を集めた皇帝の後宮、とは聞こえはいいが、皇帝の仕事のひとつは後継者を設けることであり、女人の天下カドゥンラール・スルタナトゥの現状、言ってみれば皇帝は種馬も同然だ。

 そしてその牧場・・を管理しているのが、皇太后。

 たまたま、今日のお召しがなかっただけと言われればその通りなのかもしれない。

 けれど、先ほど一瞬凍り付いたミフリマーフの表情は、そうではない事を確かに物語っていた。


(皇帝個人の寵愛はどうであれ、皇太后の可愛がる側室は……変わった……?)


 もしくは、皇太后としては自身の権力を越える事がないように、調整しているだけなのかもしれない。

 けれど、誰よりも早く懐妊し、第一夫人パシュ・カドゥンの座を狙っているに違いないミフリマーフにとっては、他の誰へ夜伽が命じられても面白くはない話だろう。


(なんせ、後宮入りしたばっかの昔馴染みあたしさえ、そりゃもう遠慮なく排除したくらいだからなぁ……)


 まぁそれは結果的に、ヒュマシャにとってはこの上ない幸運だったので、むしろお礼を言いたいくらいなのだが。

 ちらりと睫毛の先を向けた彼女は、先ほどの笑みを殺した事が嘘のように、紅を刷いた唇に三日月を描いている。柔らかく頬を溶かしながら、旧友・・との時間を楽しんでいるように見みえる彼女の心中は、けれどもいま髪を弄ぶ風よりも冷たいものが吹き荒れているに違いない。


(って考えると、ミフリマーフが鳥籠ここにわざわざ様子見に来た理由っていうのも、そういう事なんだろうな……)


 元より「ヒュマシャを心配して」なんて彼女の妄言を信じているわけでもなかったが、いま彼女の立場での最優先事項があるとするならば、それはきっと皇帝の寵愛――つまるところ、皇太后の後見を再び得ることだろう。

 この後宮において、皇太后の信頼をなくしては皇帝に近づくことが叶わないのだから。


(要するに)


 焦った彼女は、皇太后の気を引くためのネタを探しに、鳥籠ここへやってきた。

 前回、気まぐれにヒュマシャの話を皇太后に伝えたら、思いの外、彼女の興味を引き、監督長クズラル・アースゥさえ呼び出す程の騒ぎになったことで、鳥籠ここの話題は使えると踏んだのだろう。


(まぁ、思えばガーリャ・・・・は昔っから、噂話とか内緒話、陰口大好きな女だったな……)


 如何に領主の娘とは言え、所詮は田舎の貧村。

 さほど豊かなわけでもなく、都会ケトロンポルスのように娯楽に溢れているわけでもない。ヒュマシャの毎日が葡萄の世話に明け暮れる事ならば、彼女の毎日は取り巻きの少女たちと村の噂話、自身の取り巻きにならない人間の陰口――というものだった。

 当時は退屈な生活の気晴らし程度だったのかもしれないが、それはきっといまの彼女にとっては、生きる為に欠かせない「根回し」なのだろう。


「でも、お召しがなくても、皇帝陛下のお気に入りな側室サマがこんなところ・・・・・・にいるの見つかったら、大変なんじゃないの? ここがどこか、あんた知ってるんでしょ?」

「えぇ。陛下のお兄さまの……前の皇帝陛下が住まわれている場所でしょう? 私は、拝謁した事はないのだけど……ヒュマシャは、ここにいるのだもの。もう、殿下にお会いした事あるんでしょう?」


 現皇帝の寵姫である彼女は、常より天使の歌声を思わせるほどの美しい声音だが、それがさらに高く、どこか媚びるような丸みを帯びたものへ変化している。昔、故郷にいた頃わざと取り巻きたちに媚びるような声を出して笑い合っていた、あの姿を不意にヒュマシャは思い出した。

 ミフリマーフの視線が、ちらりちらりと鳥籠の中を窺うように泳いでいる、もしかしたら、あわよくばこの館の主をその目で見てみようかというような算段なのかもしれない。


(させるかっての)


 ヒュマシャは彼女の視線から、館の内部を隠すように身体の向きを変え、彼女の眼の前へと自身を置いた。


(昔はともかくとして、いま後宮ここで生きていく為に、ミフリマーフがしている事は、否定はしない)


 でも。


(だったら、あたしもあたしが生きる為に必要な事をするだけだわ)


 自分が生きる為に、必要なもの。

 必要な人。

 大切な、青年ひと


(あたしには、大きなものを見るだけの目はない)


 目の前の人が笑ってくれていたら、何となく嬉しいなと思う。

 勿論それは、そうしてくれていた方が自分自身の気持ちが上向くからだ。

 宦官たちに優しく声をかけるのは、そうした方が結果的に自分の為になるからだ。

 全て、「自分」が基準で行っている事だ。

 けれど。


  ――……上に立つ者である、皇族としての義務だろ。


 ルトフィーは、違う。

 彼は、その日偶然助けた宦官の為に、故郷に病院を建てる事が出来るのだ。

 建てようと、そう考える事が出来るのだ。

 そして、それを当たり前だと思えるルトフィーとは、爪を葡萄の色に染めて生きてきたヒュマシャとは、やはり生きている世界が違う。見えている世界が違う。


(キスを何回、何十回、何百回したとしても)


 互いに、想いを告げたとしても。

 例え――仮に、あの時、彼に抱かれていたとしても。


(きっと、彼の進む道の隣は、歩けなかった)


 再び皇帝になり、国を導くのだと。

 この夕陽に染まる帝国を再び朝を迎えられるように導くのが、彼ならば。


(あたしは、それを護るだけよ……っ)


 いとしい、と。

 触れたい、と。


(すき、なんだと)


 生まれて初めて思った人の道を、絶対に邪魔などさせない。


「お会いしたって言える程じゃないわ。あたしはずっと、平伏していたし、殿下のお顔も拝見していないのよ」

「まぁ……。じゃあヒュマシャは、殿下のご寵愛を頂いているわけじゃないのかしら?」

「まさか。ずっとお部屋におひとりで籠られているわよ。あ、何かたまーに、監督長さまが様子見にいらしているけど……」

「きっとそれ、皇太后さまがご様子を見に行くように仰ってるからよ」

「あ、そーなの。でも、監督長さまもすぐに帰られるわよ。よくわからないけど、多分、殿下って偏屈な方なんじゃないの」

「ヒュマシャったら。恐れ多くも、前の皇帝陛下よ。不敬だわ」

「まぁ、そうかもねー。だから……あんたも、これね?」


 ヒュマシャが口許へ指を一本持っていき、口角を持ち上げながら、しーっ、とすると、窓の向こうでミフリマーフが鈴が転がるような声で笑う。


「もう、ヒュマシャったら。相変わらずね」


 ふふふ、と口許に両手を持っていき無邪気に笑う彼女へと、ヒュマシャは外気にも似た視線を這わせた。


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