3-5
俯いた睫毛の先に、石畳の廊下が続いていた。
背を預けた壁は、この館の居住部屋と同じく緑がかった青を基調としたタイルだが、天井や、廊下に設けられた窓から入る橙色の陽射しによってどこか切なげな色に染め上げられている。
(……なーんて思うのは、自分の感傷に浸りすぎだわ……)
ヒュマシャは預けていた背中をタイルから起こすと、ちらと、隣にある扉を見遣る。この先には、日頃少女が寝泊まりしているルトフィーの部屋が広がっており、中で主たる元
――お前も一緒に入るか。
その一言で、突然彼の入浴に付き合うことになったわけだが、実際のところ
――じゃあ、こういう事を、許すのも?
そう言って、先に仕掛けてきたのは彼の方で。
けれど。
――……ん、それは…………違う、と思う……。
――その理由は、アンタだから――だわ。
知らず、互いに計っていたいた距離を一歩踏み出したのは、恐らく自分だった。
挨拶代わりに交わされていた口吻けの温度が一気に上がり、息苦しささえ覚える程の甘い想いで溺れかけた。
角度を変え、吐息を溶かし、何度も何度も熱を絡ませた。
節ばった指が、自身の白い肌を舐め、双丘の頂を悪戯に弄ぶのを、甘い声で受け入れた。
(……なんか、想像以上に凄かった……んだけど……)
後宮入りする前の教育機関で、閨事は大切な授業の一環だった。
皇帝の寝所に侍る際の夜伽作法、寝台の上で皇帝を悦ばせるための閨房技術。ありとあらゆる性の知識を教えられる為、生娘だろうと何だろうと
もっとも、妾たちの身体は「皇帝のもの」である為に、彼女たちが自身の身体をみだらに触る事は禁じられており、そういったふしだらな遊びに耽る事は許されてはいなかった。それでも、習った知識によって性に目覚めてしまう少女たちも少なくはなかったのだが、ヒュマシャは故郷にいた幼い頃より、たまに野山で動物が交尾する姿を見かけていた為、生殖行為に関して「秘めなければならないもの」という感覚が薄かった。
そして何より、詳しい事を学んだ際に「葡萄の受粉と同じだな」という感想を一番最初に抱いてしまったために、それ以上の興味関心があまり育たなかったのだが。
(確かに実技はあったけど……でも、口淫の練習とか、顎がすっごい疲れるだけだったし……)
話には聞いていたし、実際、睦言を喘ぐ練習などもしたわけだが、あんな声が本当に勝手に自分から出てくるだなんて、思わなかった。
触れられるたびに、身体の奥がじくじくと熱を持つような感覚を持つようになるなんて、思わなかった。
――痛いって言ってるでしょっ!! この、下手くそ!!
ほんの少し前に、触れられた時は、確かに愛撫もなしにただ突っ込まれただけなので、その痛みは当然とも言えるのだが、それでも――。
(まさか、本当に、自分が濡れるなんて……思わなかった、よね……)
そうしないと、挿入が出来ない事は知っていた。
そうするように、身体が作られている事も知っていた。
(でも)
膝を割って入り込んだ青年の、骨ばった指が足の付け根へとそっと入り込み、粘度の高い水音を立てた、まさに、その瞬間。
――ルトフィーさま……っ! 申し訳ありません、緊急の……ッ
浴場へと転がり込んできたカランフィルによって、濡れた空気など一瞬で霧散していき、――そして、今に至る。
ルトフィーたちが浴場を出て行った後は、ぐったりとした身体がしばらく動かせないままだった。何とかそこで気持ちを落ち着け、身支度を済ませ、部屋へと戻ろうと扉の目の前まできたその時。
――ルーシの南下?
そう、訊ねるルトフィーの声に、ドアノブへかけていた少女の指がぴたり、止まった。ルーシの南下は、それこそ大昔から日常茶飯事と言わんばかりにあった珍しくもなんともない出来事だと聞いていたが、その日常茶飯事が再び起きたという事だろうか。
ヒュマシャに対して、隠し事をしている素振りがない彼らだが、それでもどうしても入り込めない領分というものが存在する。入り込むな、と言われたわけではないが、どうしても見えない壁がある。
貧困層で生まれ育ち、奴隷として売られ買われた自分には、国を治めるために生まれ育ったルトフィーの領域には入っていけない時が、ある。
(……まぁ、住む世界が違うって事くらい、最初からちゃんとわかってたけど……)
ドアノブから指を離すと、扉を背にした少女はそのまま耳を
同時に、どこかふわふわとしていた思考にも、北風が一陣吹き抜けていった。
その後、交わされる部屋の中の会話を、まるで他人事のように聞いてしまうのは、やはり「国」というものが自身にとっては遠いシロモノだからなのだろうか。
そして。
――えぇ……、アタシもそう思う。だから、お訊きしてもいいかしら。
――何だ?
――ヒュマシャ。
突然出された自身の名に、少女はハッ、と息を呑んだ。
徐々に大きくなっていく胸の音を抑えるように、胸元で握り締めた手が、どんどん指の力を強くしていく。
――復位と同時に後宮の
――それは、ない。
その後の会話を聞くに、どうやらヒュマシャの身を案じるが故に、それはする事はないのだと。
自身が嫌ったあの場所に、置きたくはないのだと。
そう言っていた。
それを耳にした少女の胸に、自分自身どう形容していいかわからない感情が靄のように広がっていく。
(別に、あたしはアイツの側室になりたかったわけじゃない)
彼の後宮で、
なんせ、彼が皇帝に復位しようとしていた事も、知らなかったくらいだ。
この後の自分たちの運命が、日々が、どうなっていくのかを頭の片隅で常に考えていたけれど、そこへ思い至る事がなかったのは、所詮自分はそういう生まれなのだと思う。
ルトフィーのように、大きなものを考えようと思う視点がない。
目の前にいる宦官たちには、優しくしようと思う。
勿論、巡り巡って自分自身の為になるという利点があっての行動だが、それでも、目に見える位置にいる人が困っていればどうしたのかと気に留める。
(でも)
それが「国」という大きなものになると、ヒュマシャの目には見えないのだ。
目の前の宦官の姿は見えたとしても、「国」の形はわからない。
それが自然と理解出来るのは、きっと彼がまさに
(あたしは、貧乏な村の、貧乏な農奴の娘で)
今でこそ身綺麗にしているが、故郷にいた頃は爪の間入り込んだ葡萄のアクが取れずにいつも真っ黒な指をしていた。いま、背を流れる金糸は、まるで枯草のような手触りだった。
誘拐され、売られ、買われ。
皇帝陛下の後宮の妾になるのだと、ありとあらゆる教養を詰め込まれ、心身ともに美しくあれと過ごした数年だったが、やはり生まれというものはどこまでも身体に染みついているものらしい。
(まぁ、最初から側室とか、そんな事を望んでたわけでもなかったし、そもそもあたしは権力が欲しいわけでもないんだけど……)
でも。
そんな事はあり得ないと思いつつ、このままずっと彼の許で暮らせるのではないかと、そんな甘えた想像が脳裏を掠めなかったわけじゃない。
頭の片隅に常にあった現実を、なるべく見ないように、考えないようにしていたという事は、つまり今が、今日が、永遠に続けばいいと――そう、願っていたに違いないのだ。
少女の痩躯を刺すように窓から差し込む陽射しは、橙色。
――斜陽、だな。
部屋の奥から、ルトフィーのどこか笑いの滲むような声が響く。
斜陽。
終わりに近づく事。
まさに、自分たちの関係も、この陽射しそのものだろう。
不意に、橙の光が、ふ、と弱まり陰った。ヒュマシャは一度、二度、睫毛を羽ばたかせると、窓へと視線を凝らしていく。
「……?」
「……っ、あんた……、ミフリマーフ!?」
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