3-2 ☆

 もわ、と、蒸された空気が、石造りの部屋に立ち込めていた。

 全てが大理石で作られているらしいその一室の中央には、多角形の大きな台が置かれている。蒸気で汗ばむ身体を横たえ垢すりをしたり、そこでゆったりとマッサージを受けたり、時にお喋りの場となったりする場所である。

 原型となったのは古代王国の公衆浴場であり、そこは市民の社交の場だったという話だが、確かにトゥルハン帝国でも浴場ハマムの役割は、身綺麗にするばかりでなく、憩いの場としての意味合いも強い。

 特にヒュマシャのような年頃の女ともなれば、氷菓ドンドゥルマや果汁や花に蜂蜜、砂糖水などを混ぜ合わせたシェルベティと呼ばれるシロップ水を持ち込むお茶会へと発展する事もしばしばあった。

 厳しく当たる教育係の宦官の悪口を言い合ったり、近々後宮ハレム入りするのは誰々らしい、などという噂話、お菓子のレシピ、美容についてのお喋りに興じる――所謂大切な「根回し」の時間だったのだ。

 だから、浴場がそういう人と人との距離を縮める為の社交の場である事は間違いではなく、むしろ正しい使い方と言える――のだが。


「……後宮仕込みのマッサージ、なんて言うから、何させられんのかと思ったら……」


 ヒュマシャは多角形の大理石の上にうつ伏せに寝るルトフィーの背へと、指をぐ、と押し込めながら呆れるように呟いた。


  ――お前も一緒に入るか。


 突然そう言われ、連れてこられた【黄金の鳥籠カフェス】内にある専用の浴場。

 当然浴場に入るからには、ヒュマシャも裸にならなければならない。

 まるで挨拶でもするかのように、口吻けを交わし合い、夜は同じ部屋で休む生活をしていたというのに、未だに手を出される気配がないので、まさか浴場ここでそんな事が起きるだなんて思っているわけではない。――が、それでもやはり肌を見せあうという状況や、「後宮仕込みのマッサージ」などという発言に、後宮入りの教育をされていたとはいえ、男を知らない生娘が冷静な思考など取り戻せるわけもない。

 実際、薄布ペシテメルを身体に巻き付けた状態で、顔から蒸気が噴き出しそうなくらい緊張して浴場に足を踏み入れたというのに、誘ったはずの当のご本人は、腰に薄布を巻きつけた状態で台座にだらりと寝そべっていた。

 そしてヒュマシャが入ってきた事に気づくと、呼び寄せ、首や肩、腰へのマッサージをしてくれとその背を少女の前に現したのが、もう十分も前の出来事である。


「何だよ。何か、期待してたか?」


 寝そべったまま、ちらりと少女へ向けられた榛色ヘーゼルの瞳は揶揄いの色に染まっている。ヒュマシャは「し・て・な・い!」と思いっきり肩のコリを揉み上げた。


「あー!! 痛ってぇな!」

「凝ってんのよ! だから揉んでるんでしょ!」


 オイルに濡れた肌なので思ったよりも指の力を強く入れられないのが欠点だが、そもそもマッサージという本来の意味合いとしてなら、指の滑りが良くて当然である。とりあえず、この高貴な青年に対しての仕置きも終えたので、再びヒュマシャは肩から背へかけて、ゴリゴリと凝り固まった場所をほぐすように指の腹を動かしていく。

 館に幽閉されているので、運動不足なのではないかと思っていたが、それまでの鍛え方が良かったのか、それとも筋肉が落ちにくい体質なのか。オイルで濡れた肌の下は、明らかに自分とは違う身体の作りを感じる事が出来る。

 浴場の蒸気にあてられて、汗が滲む背へと、ぐ、ぐ、と押し込むように指を入れていく。


(平常心。平常心。少しでも焦ったら、コイツの思うツボよ)


 どれほど時間が経っただろう。

 少女の額に滲む汗が、ツ、と頬を滑り落ち、顎先で玉を作る頃、眼下で寝そべる青年から「もういいよ」と声がかかった。軽く瞬きをし、額の汗を拭うと、起き上がった青年の影が少女へと落ちる。

 柔らかな感触が離れる瞬間、蒸気のせいか、それとも汗か。チュ、と濡れた音が立った。


「お前も揉んでやろうか?」

「結構よ! 凝ってませんからっ」

「ふはっ、怒んなって」


 ぽんぽん、と既に蒸気で濡れた髪に、手のひらが落ちてくる。あやす様な、甘やかせるその感触も、すっかり馴染んでしまっていた。


「そう言えば……」


 台座の上に座ったルトフィーは、そのまま手をするりと髪の上を滑らせ、少女の金糸を指の間で弄びながら思い出したように視線を向けてくる。ヒュマシャは睫毛を一度羽ばたかせると、軽く小首を傾げた。


「お前、スュンビュルとギュルとすっかり親しくなってるよな」

「あー、そうね。お菓子作った時に、ちょっと渡した事があってね。なんかその時、喜んでくれたから、それ以降も渡すようにしてたら……気づいたら仲良くなってたわ」

「そりゃすごいな。あの二人、後宮で宦官をしていた頃は、そりゃジャーリヤたちから評判悪くてさ」

「何で??」


 根本的に、監督・教育する立場にある宦官たちと妾は、流石に「仲良し」とは言えないだろうが、それでも表面上はそこそこに付き合っていくものだ。もっとも、それは妾たちの宦官への多大なる媚び売りという努力があって初めて成り立つ関係なのだが。

 けれど、基本的に宦官の方が後宮では立場が上であるために、表立って嫌いだと公言する妾は少ないように思う。それはこの宮殿内の後宮であっても、教育機関の館であっても、変わりないものなのではないだろうか。


「妾たちが言うには、あのふたりは怖いんだとよ」

「怖い?」


 確かにギュルはやや目尻が吊り上がっており、鼻も大きな鷲鼻であるために、怖いという女はいるかもしれない。けれど、スュンビュルは豊頬が残り、可愛らしい印象の方が強いのではないだろうか。


「スュンビュルは、あの見た目からもわかるように、まだ子供ガキなんだよ」

「幼い顔立ちだなぁとは思ってたけど……何歳なの?」

「確かまだ、十五のはずだな」

「あー、そんな若かったのね……。でも確かにそのくらいに見えるわ」

「だろ。でな、後宮にいたのはさらに数年前。精神的に育ってないところに、監督員のひとりとして女に囲まれる生活をしてたら、どうやら勘違いするようになったらしい」

「それって……妾相手に威張ったり、みたいな?」

「そうだな。まぁあの年頃のオトコノコにはありがちな話だけどな」

「へぇ……」


 ヒュマシャの記憶にあるスュンビュルは、笑うとさらに頬が丸まり白い歯がくっきりと三日月の中に現れる、愛嬌のある少年だ。ギュルにしても、見た目は多少厳ついが、耳が聞こえないなりに一生懸命口の形で少女の声を聞こう・・・としてくれる優しい青年である。


「ハッキリ言うと、後宮から厄介払いされて鳥籠ここに左遷されたふたりが、ここまでお前に好意を示すなんて思ってなかった」

「……まぁ、好意って言われれば嬉しいけど。でも、餌付けしただけみたいな気がするけどね……」

「お前の言うところの『根回し』が功を奏したって事だろ」

「まぁ、結論から言うとそうね。そういう事だわ」


 元々、ヒュマシャは勝気な性格であり、相手が誰であろうと基本的に自分の意思は曲げないし、引かない。故郷ではそれが理由でしょっちゅうミフリマーフガリーナの取り巻きたちと言い争いになっていたし、そんなヒュマシャを内心嫌っていたであろうミフリマーフが、そうなるように仕組む事さえ一度や二度ではなかった。

 トゥルハン帝国に攫われ、得た技術の中で自分の役に立っていると思うもの――手芸に歌舞・音楽、学問など様々あるが、一番は人付き合いにおける「根回し」の大切さを学んだことだろうと思っている。


「全部、円滑に物事を運ぶために必要な『根回し』だわ」


 ふふ、と笑うヒュマシャの髪を指先でくるりくるりと弄ぶ青年の手が、それを解くとそのまま少女の持ち上がった頬へと伸びてきた。頬から耳朶へと触れるその感触に、少女の肩が軽く竦められる。

 さら、と赤味がかった金糸が何も纏わないまぁるい肩を滑り落ちた。


「じゃあ、マッサージしてくれたのも、円滑な生活のためか?」

「……無理矢理連れて来といて、何言ってんのよ」

「ふは。まぁ、それもそうか」


 ふ、と零された笑みが、少女の頭上で淡く溶ける。


「じゃあ、こういう事を、許すのも?」


 頬へ触れていた手のひらが、少女の細い顎を捉えた。クン、と持ち上げられたおもてへと、目を細くした青年のそれが降ってくる。ふ、と触れるだけの口吻け。何度も何度も、軽く感触を確かめるように押し付けられるそれは、チュ、チュ、と濡れた音を響かせた。

 ヒュマシャはくすぐったさに軽く身を捩りながら、睫毛をふるりと震わせる。そうして、口吻けの合間の吐息に、声を溶かした。


「……ん、それは……」

「ん?」

「……違う、と思う……」


 少女は一度、距離を取るように両手を彼の胸へと当てる。僅かに離れた青年の眉が訝しげに軽く寄せられるのへ、睫毛の先をまっすぐに向けた。

 とくん、とくん、と、手のひらに青年の鼓動が響く。

 垂れがちな双眸の中の、榛色。

 触れると思っていたよりも硬質だった、栗色ブリュネットの髪。

 高貴な生まれだというのに、思いの外、口は悪い。

 生まれも育ちも悪いこちらの軽口にも付き合いがよく、最初出会った時と比べたら信じられないほどによく笑う。

 その時目尻に刻まれる皺に、胸がぎゅぅ、と締め付けられる。

 骨ばった指が、自身の髪を掬う仕草に、泣きたくなるほどのいとおしさがこみあげてくる。


(あぁ、もう……)


 知らんぷりは限界だ。

 勝気な性格ゆえに、衝突しか生まなかった自分が、女の園での生き方を学び身に着けた「根回し」の方法。

 それは、確かに見知らぬ場所で共に生きる妾候補者たちとの関係をより良いものにしてくれた。こうして宦官ふたりと親しくなることも出来た。


(でも)


 違う。


(違うの)


 彼と、声を交わす理由。

 作った菓子を、差し出す理由。

 くだらないことで、笑い合う理由。

 髪に触れる理由。

 口唇くちびるを重ね合う――その、理由。


「その理由は、アンタだから――だわ」


 ぽつり、言の葉を紡いだ瞬間――。

 青年の双眸が、驚きに見開かれた。

 垂れた目が、見る見るうちに大きくなっていく。


「ルト……んぅッ!」


 少女が青年の名を呼ぼうとしたその声ごと、食らいつくように彼の口唇に飲み込まれた。同時に掻き抱くように、彼の腕が少女の細腰へと回される。濡れた金糸が、青年の腕を擽った。

 胸の中に崩れ落ちた少女へと、ルトフィーの口吻けが何度も何度も角度を変えて落とされる。突然の行動に、混乱と息苦しさから、僅かに開いた少女の口唇へと、ぬるりと青年の舌が入り込んだ。


「ん……ぅ、ぁ……んっ……」


 互いの吐息を混ぜ合わせるように、熱が少女の口内に絡みつく。知らず、ヒュマシャの腕が、胸に生まれた疼きに耐え兼ねるように青年の肌を軽く掻いた。

 抱きしめられていた身体は、やがて彼の体重を受け、台座の上へと崩れ落ちる。濡れた金の髪が、大理石の上へと散らばった。


「ル、ト……フィ……」


 元皇帝だった青年の名を紡ぐ少女の口唇へと、彼の影が再び落ちる。

 けれど、既に熱を絡める術を教えられた身体が、知らず触れ合う前に舌を出した。濡れた熱い舌が、くちゅ、と重なり合い、どちらの物ともわからない程に互いに吸い合う。

 激情の静めるかのように少女の髪を梳っていたルトフィーの指が、そこから離れ、頬から耳朶へ、耳朶から首筋へと這わされていき、身体へと巻き付いていた薄布へと引っ掛けられた。


「ちょ……、んッ」


 口唇から頬、首筋へと、指が辿った場所と同じところを口吻けられると同時に、青年の指が少女の胸元の薄布を解く。さほど抑えつけられていたわけでもない貧相な胸元が、ぷるりと僅かに揺れながら蒸された空気に晒された。

 首筋に顔を埋めていたルトフィーの動きが一瞬止まり、僅かに頭が持ち上げられる。その視線の先は、間違いなく自身の胸元へと向けられているはずだ。


「……っ、や……ッ」


 カ、と一瞬で顔から火が出たよな羞恥が噴き出す。

 思えばこの胸も、肌も、秘所でさえも、一度彼には暴かれている。

 今更、恥じるような事ではないと言えるかもしれないが、それでもあの時とは状況が違う。気持ちが違う。

 恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。

 慌てて薄布で再び隠そうとするヒュマシャの手を、ルトフィーの指が捉え、あの時・・・と同じようにひとつでまとめ、頭上で拘束してくる。その間も、彼の榛色が向けているのはお世辞程度にぷるりと山形になっている胸元――。


「…………あんま、見ないでよ」

「何で」

「何でって……、小さいから……恥ずかしい……」

「ふは。今更か」

「今更でもっ!! あ、あの時とは、色々……色々あたしの気持ちが違うんだから……しょうがないじゃないっ!」


 あの時にあったものは、恐怖だった。

 ここがどこなのかもわからず、組み敷いてくる青年が誰なのかも知らず。

 ただ無機質に身体を暴かれる事の恐怖。

 それは、犯される事への怯えというよりも、命そのものへの危機感だった。


(でも)


 今は、違う。

 ここがどこだか知っている。

 組み敷いてくる青年が、誰なのかも知っている。

 状況が、何もかも違うのだ。


(あたしの、気持ちでさえも――)


 ヒュマシャが頬を赤らめながら、恥ずかしさにめつけるように青年へと藍晶石カイヤナイトの瞳を向けると、双眸に明らかな渇きを宿した青年のそれと交わり合う。


「色々違う――か」


 俺も、そうだな。

 言の葉を紡ぐ口唇が、少女の胸元へと濡れた音を刻みつけた。


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