第三章 革命前夜

3-1

 コトコト、と、鍋の中で南瓜が煮込まれていた。

 すでに煮汁のほとんどが沸騰しており、焦げ付かない程度に煮詰めていく段階に入ったこの南瓜は、先日皇太后ヴァリデ・スルタンからの刺客が持ってきたもの――では当然なく、後日カランフィルより届けられたものだ。

 結果的に、あの招かれざる客人が持ち込んだ南瓜から毒物は検出されなかったらしいが、念には念を入れ、焼却処分したという事だ。幼い頃、それこそ時に草の根を噛むような貧乏暮らしさえあったヒュマシャからすると、なんと勿体ないと思ってしまうが、流石に自身も食べたいと思えるものではなかったのでそこは騒ぐことなく頷いた。


(おっと。そろそろ、かな……)


 ヒュマシャは鍋の取っ手を握り持ち上げると、作業台の上に敷かれた陶器製の鍋敷きの上へと置いた。花を模ったその鍋敷きは、このトゥルハン帝国の至る所で見かけることの出来るタイルで作られている。

 赤や青、緑がかった水色といった色鮮やかな着色が目を惹くその表面に描かれているものは、国花であるチューリップの花。よその国からもこのタイルを求める人も多いらしく、トゥルハン帝国を代表するもののひとつと言えるだろう。


(まぁ……それでも、この国はすでに斜陽だっていうんだから……、わからないものよね)  


 十二歳の頃より先日まで、このトゥルハン帝国こそが世界の中心であり、他のどんな国よりも強く偉大なのだと教わってきたヒュマシャからすると、俄かには信じられない事だが、それでも世界最強の軍だと言われていた常備歩兵軍イェニ・チェリが破れ、国が削り取られているのだと言うから、信じるほかはない。


(それに、皇帝陛下スルタンはとにかく才能豊かな素晴らしい人柄だって……そう、聞いてたけど)


 少なくとも、前・皇帝陛下に関しては、素晴らしい人柄などではない事は、身を以て確認済みである。


(……まぁ、嫌な奴では……ないし、嫌いとかじゃ、ない、けども……)


 下唇を軽く口内へ含ませながら、心の声など外に漏れるわけでもないのに、何となく人の視線が気になりキョロリキョロリと藍晶石カイヤナイトの瞳を右へ左へ彷徨わせる。

 ルトフィーが宦官の手によって怪我を負った時を境に、彼とヒュマシャの関係は明らかに変化した。

 幽閉された前・皇帝と、そんな幽閉所へと投げ込まれた後宮ハレムジャーリヤ。それ以上でもそれ以下でもなかった関係は、ふとした拍子に視線が絡まると、どちらからともなく口唇くちびるを寄せ合うようになった。

 強引に抱き寄せるわけでもなく、何か先を求めるような熱さがあるわけでもなく。

 まるで挨拶でもするかのように、首が軽く傾げられ、ふたりの間にある空気を互いに食むように、軽く交わしあう口吻け。

 少しカサついた厚めの口唇が、自身を食べるように押し付けられる感覚は、嫌いじゃない。胸の裡でじわりと滲む、砂糖のような感情も、嫌ではなかった。


(……でも。どういう、つもりなんだろ。アイツ……)


 ――否。

 ルトフィーだけでなく、自分も。

 ここ最近何度も繰り返しているその声に、都合のいい答えを生み出しそうになる自分の感情が焦れったくて、面はゆい。

 鍋の中のほくほくとした南瓜がある程度冷えた事を確かめると、少女は皿の上にそれを移し、その上からクルミやピスタチオといったナッツ類を砕き、振りかけていく。甘煮カバクタトゥルスと呼ばれる甘味は、この上からさらにクリームカイマクを乗せ完成する、これまたお手軽なヒュマシャの得意とする製菓である。


(ってか、あたし……思考が煮詰まると、お菓子作りに走る傾向があるのね……)


 今朝、届けられたばかりのカイマクをスプーンで掬うと、南瓜の上へとふんわり乗せる。見栄え的に、さらにこの上に砕いたナッツを散らせばいいのだろうが、もう見た目を気にする女の同士はいないのだ。


「ま、いっか。どうせ食べるの彼らと、アイツくらいだし」


 ヒュマシャは小分けした南瓜の甘煮を真鍮製のトレイへと乗せ、お供の珈琲でもそろそろ煮立てようかと小鍋ジェズヴェを用具入れの中から取り出したその瞬間、コンコン、と入口を叩く音がした。

 ふ、と視線をそちらへと向ければ、【黄金の鳥籠カフェス】で働く宦官の姿。正直、人種が違うと顔の認識がしづらい事実はある。なかなか顔を覚えられなかった結果がああいった事態を招くことになったわけだが、それでもきちんと相手を見て、話していくうちに知らずひとりひとりを認識していくものらしい。

 後宮に住まう宦官の数は、当然世話をする妾たちよりも多く、最盛期には数百人以上いたという話だ。いまは後宮含め、その規模は縮小しつつあるようだが、それでも大部屋を監督する宦官は十人以上、側室ともなれば、ひとりあたりに対して大部屋と同等の直属宦官がつけられるそうだ。

 けれど、この華やかな区画においての暗部と言われる鳥籠は、勤める宦官の数も非常に少なく、現在未だ豊頬が残る幼顔のスュンビュルと、やや釣り目がちで鷲鼻の宦官がギュルという二名のみだ。

 すっかり顔見知りとなったふたりに、少女はパ、と頬へと花を咲かせる。


「スュンビュルにギュル。ちょうどいいタイミングよ」


 ヒュマシャが皿に盛った甘煮を指さしながら向けた笑顔に、彼らの口角も一気に持ち上がった。ニコニコと宦官が笑うなんて、後宮入りする前の教育時代には決して見ることはなかった。


(やっぱりアレよね……。根回しは大切)


 こちらから好意を示せば、あちらだって同じように好意を示してくれるものだ。

 彼らとの距離が縮まった事で得た恩恵は、小さいものの山ほどある。

 例えばいま、彼らが腕に抱いている大きな袋もそうだ。ヒュマシャは菓子作りが日課となっているため、その消費も著しい。今朝、少なくなってきていると彼らの前で軽くボヤいたのだが、さっそく手配してくれたようだ。


「ありがとうね、本当助かる。お礼に、これ持っていって」


 皿を差し出すと、ぺこりと頭を軽く下げた彼らが嬉しそうに顔をくしゃりと綻ばせる。自分の作る菓子なんて、それこそ素人の手作りで大したものではない。全てが目分量なので、微妙に失敗している日もある。

 けれど、こうして差し出すたびに喜んでくれる姿を見るのは、こちらとしても作り甲斐があるというものだ。根回しだとか、そういった事を除外したところにある感情で、彼らの笑顔を見たいと思うようになっていた。


「あれ、お前らここにいたのかよ」


 ふたりが皿を手に、厨房から出て行こうと踵を返したその瞬間、開けっ放しになっていた扉の向こうからルトフィーが覗き込むように室内へと顔を出している。


「ルトフィー」


 見れば、頭布ターバンを被らずに肩に薄布ペシテメルをかけている。どうやらこれから浴場ハマムにでも行こうとしていたのだろう。

 この館の主たる青年の登場に、スュンビュルとギュルがその場で膝をつき、平伏しようとするのを「あぁ、いい。いい」と彼は手を振りながらそれを留めた。


「この時間に浴場行くの、珍しいね?」

「書物読んでたんだが、考えが煮詰まった。……から、ちょっと肩でも解そうかと思ったんだけどな」


 ヒュマシャの入浴は、ひとりで済ませているが、ルトフィーは宦官ふたりに手伝わせている。たかが妾に馴れ馴れしい口を許すような型破りな人間なので、入浴くらいひとりで行くものだと思っていたが、生まれた時からずっと皇族であった為に、そういう手助けが当たり前らしい。

 知った時は、さすがに少なからず驚いたものだ。


「まぁいいや。お前ら、これから休憩予定だったんだろ?」


 ルトフィーの唇の動きで何を言われているか判断したのか、ふたりは困ったように首を振ったが青年は「いいよ」と笑う。


「でも、アンタひとりで入れるの?」

「どういう意味だよ。赤子でもあるまいし……」

「いやなんか知らないけど……高貴な身分の方にしか許されてない手伝ってもらわなきゃ入れない特殊な入浴方法でもあるのかと思って」

「んなもん、あるわけないだろ。浴場で、どんな特殊なことすんだよ」


 飽きれたように瞼を重くした青年が、何かを思いついたかのように軽く睫毛を羽ばたかせた。


「ん? どしたの?」

「いや……そうだな。特殊な入浴方法か……」

「え。なに、ほんとにあんの??」


 口許を抑えていた彼の指の間から、三日月を模り始める唇の動きが見えた。榛色ヘーゼルの瞳の奥には、かつて故郷で見かけた悪ガキと同じ光が宿っている。

 良くない予感しか、しなかった。


「えと……ルトフィー、さん?」

「なんで急に『さん』付けだよ」

「いや何となく? 元皇帝陛下ですし??」

「だったらそこは『さま』にしとけよ。……まぁいいや。そうなんだよな。俺、元皇帝だったわ」

「う、うん??」


 ニコニコとしながら厨房へと入ってきた青年は、作業台の前で固まる少女の上に影を落とし、その手を取る。


「お前も一緒に入るか」


 訊ねているようで、すでに決定事項を伝えたかのような抑揚に、少女の表情がぴしりと固まった。


「…………………………は?」


 長い長い沈黙ののちに、なんとか声を絞り出すが、ルトフィーはそんな少女を構う事なく手を握ったまま厨房入口へと再び戻るために歩を転がし始める。くん、と引っ張られた少女の身体が、突然ぴたりと止まった青年の背へとぶつかった。

 すん、と噛んだ鼻が、柑橘のにおいを運ぶがその刺激さえ少し痛い。


「ちょ、もう……、急に止まるとか……ってか、そんな事より、一緒にってなによ!?」

「一緒には一緒に、だろ」

「えっ……待っ……、ちょ、本気なの!?」


 彼の背へと喚き散らす少女へと、肩越しに振り返った青年の唇の角度は、凶悪の一言で――。


「後宮仕込みのマッサージ、期待してる」


 やっぱり、良くない予感的中じゃない。  

 恨めしそうに呟いた少女の声は、その後降ってきた口唇に塞がれた。

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