2-9

 格子のはめられた窓の向こう側の景色が、うっすらと白み始めていた。

 夜の帳はゆっくりとその幕を持ち上げて行き、爪の先で引っ掻いたような笑みを模る月の姿は、とっくに西の空へと落ちている。

 ときおり、ピチチ、と鳥の歌う声が窓を叩き、遠くでボーっと響くのは、ヒッポス海峡を渡る船が蒸気を噴く音だろうか。

 ヒュマシャは自身の身体へと回されている腕の重みに、指一本動かす事が出来ず、固まっていた。


(い、一睡も、出来なかった……!)


  ――来いよ。


 そう言って寝具の中に誘われたのは、まだこの部屋が月明りに包まれていた時刻の話だ。

 流石に状況的にも、そういう・・・・意図からの発言でない事くらいはわかっているが、それでも自身がたった今、彼になにをしたかを考えればどうしても身体は緊張に硬くなる。

 ガチガチになったまま、布団の中へ何とか入り込むと、抱きよせるように腕を回された。


  ――ちょ……っ、アンタ、怪我……っ!!

  ――だから言っただろ。怪我して熱出て寒いんだっての。


 そう言った後、しばらくすると寝息が聞こえ始めたので、本当に彼としては湯たんぽ代わりのようなものなのかもしれない。


(いや! あたしだって、別に疚しい気持ちがあったわけじゃないけどっ! そもそも、あれもこれも、人命救助って言うか……!!)


 誰に聞かせるわけでもない言い訳が、頭の中で並べ立てられる。

 言い訳とは言え、嘘ではない。

 どんどんと上がってくる熱に、解熱剤を飲ませる必要があった。

 けれど、怪我のせいで起き上がれなかった青年にそのままの状態で薬を飲ませるには、あの方法しかなかったのだ。

 あの、口移ししか――。


(ぎゃぁああ!!)


 脳裡で「口移し」の言葉が浮かんだ瞬間、一気に心臓が暴れ始める。

 喉元まで競り上がる悲鳴を、なんとか押しとどめるように、ヒュマシャは渇いている口内で集めた唾液を無理やりごくり、喉へと流し込んだ。


(あ、あたし……、あの日、どんな神経して一緒の布団で寝てたわけ!?)


 彼が触れていない場所なんてなかったほどに、身体を検められたというのに――、出会って僅か一時間、二時間ほどだったというのに、よくもまぁ同衾しようと思ったものだ。過去の自分の図々しさに、軽く感動さえ覚えてしまう。


(でも、あの頃は……わかってなかったしっ)


 この【黄金の鳥籠カフェス】がどういう場所なのか。

 何故、自分がそこにいるのか。

 この館の主たる青年の、髪の色も、瞳の色も。

 彼がどういう人物なのかも。


(何も)


 知らなかった。

 その後、彼とどんな関係が結ばれていくのかも。

 自身の中に芽生える想いにどんな名がつくのかさえ――。


(何もかも、知らなかったのよ……)


 ふる、と震える睫毛を持ち上げ、彼へと藍晶石カイヤナイトの瞳を貼り付ける。垂れ目がちで、日頃どこか愛嬌のあるそのおもては、その瞳が伏せられている事で精悍さが増していた。

 栗色ブリュネットの髪は、外の光を浴びてその輪郭を明るい色に染めている。額から鼻筋にかけてのラインは綺麗だが、やや大きめの印象があり、その下の閉じられた唇は、ヒュマシャのものよりもぽってりと厚そうだ。


(くちびる……)


 ふ、と目に入ったそこに、昨夜の自分のしでかしたことを再び思い出し、胸中で「もぎゃぁあ」と悲鳴が上がった。彼の腕ががっしりと自身の身体に回されたこの体勢は、どうあっても彼が視界に入ってしまうため、精神安定上よろしくない。

 なんとか抜け出したいが、起き上がる事の出来ないほどの怪我を負っていた人間のどこにそんな力があるのかと思うほど、身体の上から重い腕がどいてくれない状況だ。否。怪我を負っているからこそ、彼も動けずこのままでいるのかもしれないが。


(いやじゃあ最初っからあたしを抱きすくめて寝るなって話よ……っ!)


 僅かに身じろぎした瞬間、ふわ、と寝具から立ち込める柑橘系のにおいと自身の纏う薔薇のにおいが入り混じったものが鼻腔を擽る。こうしてふたり、ここでいつまでも暮らしていたら、彼のにおいが薔薇のにおいになるのだろうか。それとも、自身が柑橘系に包まれるのだろうか。


(思えば、最初からにおいだけは好きだったな)


 ヒュマシャが軽く頭を彼へと寄せながら、視線を再び青年のおもてへと這わしていくと――先ほどまで閉じられていたはずの榛色ヘーゼルの瞳と少女のそれが俄かに交わり合った。


「……ッ!?」


 ビクゥ! と肩を揺らしながら離れようとする少女に、させるかとばかりに青年の腕が絡みつき、ぎゅぅ、とその中へしまい込まれた。


「あんま見んな。穴開くだろ」

「あ、あ……アンタ、起きて……っ!?」

「そりゃあんだけもぞもぞされてたら、嫌でも起きるっての」


 吐息が届くほどの距離で、声が降ってくる。

 ヒュマシャの心臓が先ほどまでの緊張など比ではないほど、バクバク大きな音を立て弾み始めた。カァ、と頬に朱が走り、耳が熱い。

 そのくせ、鼻腔に届く彼の香水の香りに、思わず泣いてしまいたいほど嬉しくて、笑ってしまいたくなるほど切ない想いがじわりじわりと騒ぐ心臓を溺れさせる。


「ははっ。ガッチガチに緊張してんのに、こうやって抱きしめると意外と柔らかいな」

「わ、悪かったわね……。殿方好みな、豊満な、身体つきじゃなくて」


 ミフリマーフガーリャん家の葡萄、食べときゃよかった。

 再会した知己の大きく豊かに育った胸を思い出しながら、少女はどこか不貞腐れた気持ちでぽつり、呟く。農奴の娘として、葡萄のアクに爪先を汚し、髪が枯草のような手触りだった頃から、人と自身を比べ羨むような事なんてほとんどなかった。

 その境遇に対し、やっかむことは確かにあった。

 けれど、ミフリマーフは外見だけは美しかったが、中身は性悪である事を知っていた為に、あんな風になりたいだなんて思ったことは一度としてなかったのだ。


(なのに……、あたし、変だ)


 いま、どこの誰とも知れない、男好きのする柔らかな肢体を持つ、数多の女が羨ましくて仕方ない。

 かつて、ルトフィーの寝所に侍り、例え最後までする事はなくとも、その肉体で彼を愉しませたという名も知らないジャーリヤたちに、はっきりとした敵意を抱いてしまうほどに、感情が低い温度でチリ、と燻っていた。

 けれど。


「まぁ、好みはそれぞれなんだろうが……。歴代皇帝スルタンが好んだ女は、豊満な身体つきの女じゃなくて北方出身の女だったって話だけどな」

「そんなん言ったって、その北方出身の女たちが、豊満な身体つきだったんじゃないの?」

「……まぁ、そうとも言えるかもな」

「ほら、やっぱり!」


 ミフリマーフを見れば、北方出身である事と豊かな胸を持つことは矛盾するわけでないのは確実だった。不貞腐れついでにそれを指摘してやると、青年は楽しそうに「ははっ」と声を弾ませる。

 そして、彼はヒュマシャを腕の中に抱きしめたまま、くるりと身体の向きを変えると、少女を寝具の中へ縫い止めてきた。


「うわぁ!?」


 柔らかな衝撃が背へ生まれる中で、少女の金糸が寝具に散らばる。

 持ち上げた睫毛の先には、自身を組み伏せ見下ろす青年の姿があった。

 彼の肘は少女の顔の両側へと衝かれており、ルトフィーの重みを身体の大半が受け止め支えている状態だ。

 いつぞやの夜と、全く同じ光景である事はきっとお互い気づいている。


(違うのは)


 きっと、あれがら育った――育ってしまった、自身の心。


「ふは。相変わらず、色気のない声だな」

「悪かったわね! 咄嗟に可愛く『きゃぁ!』なんて叫べる女がいたら、それ絶っ対、演技よ。覚えとくといいわ」

「ははっ。皇帝に夢を見させるための後宮ハレムの妾だったとは、とても思えない台詞だな」

「お生憎様。もう、あたし『後宮の妾』じゃないもの」

「…………そう、だったな」


 ベェ、と舌を出しながら言ってやれば、軽く睫毛を羽ばたかせた青年が、僅かな沈黙の後、意味ありげに言の葉を落としてくる。突然変わった雰囲気に、少女の心臓が再び焦りに汗を掻き始めた。


「あー、あ、あのっ。……ほら、アンタ、怪我は……? 大丈夫なの?」

「あ? あー、薬が効いたんだろうな。まぁ痛いっちゃ痛いが、動けないほどじゃない」

「……そのようね」


 細身とはいえ、女ひとりを抱え寝具に組み敷けるほどの力は出せるのだ。

 自身も昔、葡萄の収穫中に刃物でざっくりと腕を切ったことがあったが、ああいうものは日にち薬。昨日よりも今日、今日よりも明日、明日よりも――と、日を追うごとにぐんぐんよくなっていくものだ。

 解熱剤を使ったことで、体力消耗させなかった事が功を奏したという面もあるだろう。


「まぁ、無理は禁物……なん、じゃない?」

「そうかもな」


 射貫くような榛色の瞳に、ヒュマシャがゆるりと視線を逸らすと、頭上の影がどんどん濃く落ちてくる。

 鼓膜がその音を拾うよりも、吐息を感じる方が早いほどの距離で、「ヒュマシャ」と青年の声が響く。


「……なに」

「こっち向け」

「……それは、命令?」

「そう言った方が素直になりやすいなら、言ってやるが?」

「~~~~っ!!」


 頬も、耳朶も、熱い。

 そむけたばかりの藍晶石をちらりと再び彼へと戻すと、至近距離でふたつの色が重なり合った。あの夜、互いになかった色が、いまははっきりその瞳の奥に宿っている。

 さり、と青年の手のひらが、少女の頬を覆った。


「ねぇ」


 彼の口唇が、自身に近づくのを感じながら、少女は声をかける。


「なんだよ」

「……歴代の皇帝陛下は、北方出身の女を好んだんでしょう?」

「? そうだな」

「……じゃあ、アンタは?」


 前・皇帝陛下。

 そう訊ねると、ルトフィーの瞳が一瞬見開き、そしてやや気まずげに頬を歪ませる。さり、と彼の指の腹が少女の眦へと触れられ、もう片方の手で、寝具に散らばった赤味がかった金糸が弄ばれた。


「……歴代皇帝の、例に漏れず、だよ」


 直後、ふわ、と鼻腔を擽る柑橘系のにおい。

 落ちてきた影に、北方生まれの少女が思わず怯えたように目を閉じると、昨夜触れたばかりの口唇に、今度は吐息ごと奪われた。

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