2-8
【
自身の腕の中で、完全に身体を預け荒い息を繰り返す青年に、少女の胸の裡で恐怖によって心臓が溺れてしまいそうになる。ひとつも怪我など負っていないはずの自分が、息苦しくなる理由なんてないはずなのに、それでもうまく息が吸えなかった。
――ねぇ……! 誰か……!! お願い、誰か来て!! ルトフィーが……っ!!
叫んでも、この声が届かない事は知っている。
(だって、
ここに仕える宦官は全員聴力を失っており、音による異変にはみんな気づかない。だからこそ、自身が投げ入れられた時も真っ先に出てきたのはルトフィーだった。
このまま叫んでいても気づかれないのだから、探しに行った方がいいという事はわかっている。けれど、このままルトフィーを置いて彼らを探しに行っている間に、彼の体温が失われてしまったとしたら。いまはまだある意識が、闇に潰されてしまったとしたら――。
少女はぶるりと身を震わせて、届くはずのない叫び声を上げる。
そこへ、顔見知りの宦官が偶然通りがかったのは、奇跡と言っていいだろう。その後すぐに、カランフィルへと連絡が行き、ルトフィーは部屋まで運ばれ、手配された宮殿の医師によって治療が行われた。
痛みのせいでか、既に意識を失っているルトフィーから、肩口が血で濡れた
一番深いところで一センチほどになる傷だったが、幸いにも凶器となった短剣に毒などは塗られていなかったようだ。
医師は「季節的にも、さほど酷くはならないだろうが」と言いつつ、化膿止めの軟膏を傷口へと塗りつける。そして、ほっと息を吐くヒュマシャたちを一瞥し、医師はため息混じりに口を開いた。
「まぁ、もっともこの国には、トゥルハンの血は決して流してはならないという戒律がありますから、最初からルトフィー殿下への殺意があったのかどうかは、悩ましいところですな」
診察した手を
医師を見送りに館の外まで出ていたカランフィルが、面白くなさそうな感情をそのまま足音に表し、帰ってきた。
「ねぇ、ちょっと。足音」
「あら。そうね。ごめんなさいね。……で、ルトフィーさまはどう?」
「変わりない、かな……」
寝台の中で眠るその表情は、苦しげな様子は見られないが、傷のせいで今夜あたり熱が出るかもしれないとは医師から言われている。
ヒュマシャは彼の額にかかる髪を、細い指で軽く撥ねると、そっとそこに手のひらを置いた。特にまだ発熱の様子はないが、何か起こった時のために、解熱効果のある鎮痛剤を近くに用意しておいた方がいいかもしれない。
「……ところで、あの、犯人は?」
「アンタ見てたんじゃないの? とっくにくたばってるわよ。陽が落ちた後に、外に出すわ」
「『埋葬の門』から?」
「そうね。アンタが、いずれ出ていく門よ」
「……そう、だったよね」
それが、一体いつになるのかと思っている最中のこの騒動である。
「あのさ……。犯人、はあの宦官だったけど。……黒幕って言うの? 誰かと、かわかってんの?」
「証拠があるのかって言う意味なら、わかってないわよ。でも、まぁ……皇太后さま以外にはほぼ考えられないわね」
「そう言えば、さっき医師が言ってたけど……。トゥルハンの血を流してはいけない戒律ってなんなの?」
「……昔、この【黄金の鳥籠】に幽閉された皇子たちが殺されてたって話、したじゃない? でもね、トゥルハンの血は尊いから流しちゃいけないそうよ。過去の皇子たちはみんな、絞殺によって弑されているの」
「……あの宦官、思いっきり短剣で襲い掛かってきたわよ?」
当初の彼の計画がどういったものだったかは、今となっては知りえぬ事だが、少なくともヒュマシャからの問いかけによって隠し持っていた短剣を迷いなく抜いてきた事は確かである。
「だから、よ。此度の凶行が誰からの差し金であれ、殿下の血を流させる事はほぼあり得ない状況の中で、それでも結果刃物が使われたって事は……アンタ、もうこの意味、わかるでしょ」
「…………、つまり、それって、最初からあたしが……、狙われてたって事?」
確かに彼が差し入れだと持ってきた南瓜の入った籐の籠の中にも、彼自身も短剣以外の武器になるものは、一切携帯していなかった。念の為、南瓜に毒が仕込まれていないか確認するそうだが、あの場で即襲い掛かった事を見るに、最初から殺害方法は刺殺のつもりだったのだろう。
(でも……、なんであたし……?)
皇太后には、自身の存在は知られていなかったはずだ。
否。
仮に知られていたにせよ、子供を孕んだとしたら即殺される運命である
「あぁ、アンタには言ってなかったけど。皇太后さまはもう、
「え、なんで??」
「ミフリマーフが喋ったのよ。自分の知る後宮の情報を皇太后に売るためにね。まぁ、深い理由もなし、考えなしの、媚び売りよ」
「……なるほど……」
昔の彼女は、取り巻きたちから見え透いた媚びを売られる立場だったが、だからこそ優位に立つ人間がどういうものを求めるのか、その心理がわかるという事なのかもしれない。
「ルトフィーさまにお伝えしたら、どうにもならない事をヒュマシャに教えて無駄に恐怖を与えても仕方がないって言われたから黙ってたけどね」
「そ、そう……」
自身の預かり知らないところでの、青年からの気遣いを聞かされ、ヒュマシャの唇がくすぐったさを覚えた。思わず唇に三日月を描いてしまいたくなるような、それでいて、それを人に知られる事が気恥ずかしいような――。
面はゆい、というのは、まさにこういう時に使う表現なのだろう。
「でも、あたしが皇太后さまから狙われる意味が、わからないんだけど」
そもそもルトフィーにしたところで、母親が実の息子へと執拗に殺害を企てるという状況は理解できないのだが、それでも現在の
けれど、ヒュマシャは違う。
それこそ文字通り、後宮の右も左もわからない状態で、突然ここに放り込まれ――、さらに彼の寵を受け懐妊したというわけでもない。
「まぁアタシもあの方が何を考えてるのかは、わっかんないわ。でも、ひとつわかる事は
「何それ。恐ろしい人だとは聞いたけど……皇太后さまは、気まぐれで人を殺すような方なの?」
「どうかしら。アンタは別に、ルトフィーさまから寵愛を受けているわけじゃないけど…………ちょっと待って。受けてないわよね!? 毎晩同じ部屋で寝てるけど、まさか襲い掛かったりしてないわよね!?」
「はぁ……っ!?」
するわけないでしょ!
とほぼ脊髄反射で答えかけ――、けれど、ふと視界の端に映る青年の
――じゃあ、なんであたしには触るの?
――触りたいから。
そう言って、少女の指ごとぱくりと菓子を口に含んだ事を不意に思い出し、俄かに彼女の頬が赤く染まる。
「え。ちょ……、待って何その顔。まさかアンタ……」
「す、するわけないでしょっ!! バッカじゃない!?」
「じゃあなんで赤くなってんのよ!!」
「ア、アンタが変な事言うからでしょッ!!」
「ふんっ、どうだかっ!!」
鼻息荒く、ぷいっと横を向いた彼は、しばらくの沈黙の後で不本意とでもいうように渋々口を開き、話を続けた。
「まぁ、今まで皇太后さまが遣わせた妾――」
「暗殺しようとしてたって妾?」
「そう。その娘たちはみんな、即日、鳥籠から出されているのよ。
「何それ……。息子を若い女に取られるのは嫌だ、みたいに聞こえるわよ」
「……実際、そうなんじゃないかって思う事もあるわ」
故郷にいた頃も、姑が嫁いで来た若い嫁をいびる姿というのは、よく見かけた。母も、父の母――ヒュマシャから見れば祖母からチクリチクリと嫌味を言われていたらしいし、姑が可愛い息子を奪った嫁を可愛がるなんて、おとぎ話のようなものなのかもしれない。
けれど、まさかそれが高貴な立場でも行われるとは思っていなかった。ましてや、殺そうとしていた息子に対して、そういう感情を持つなんて理解しがたい。
(あ、でも歴代皇帝の夜伽は、母后が決めるとか言われてるし……。権力を掌握するために、全てを管理しているのかと思っていたけど、でももし、そういう感情も要因のひとつなんだとしたら、自分の箱庭の中で、息子に男女の色事させているようなもんじゃない……)
きもちわるい。
眉を顰め、思わず呟いたヒュマシャへ、カランフィルはちらりと視線を向け「そうね」とため息混じりに頷いた。
「あら、やだ。もうこんな時間」
カランフィルの言葉に、ふ、と窓の外を見遣れば、夕日はとっくに西の地平線に沈んでおり、闇の帳が落ちた空の低い位置に月が転がる。
その形は、まるでトゥルハン帝国旗のように口角を持ち上げた唇のようだ。
「とりあえず、アタシはこのまま自室に戻るけど、もし夜間、ルトフィーさまの状態に異変があったらすぐ知らせてくれていいから、呼んでちょうだい」
「わかった。さっき医師が、もしかしたら熱が出るかもって言ってたけど、もしそうなったらもらった解熱剤飲ませていい?」
「そうね……お願いするわ」
そう言い、去っていったカランフィルの背をしばらく見つめていたヒュマシャは、小さく息をつくと、再び睫毛の先を寝入っている青年へと落とした。装飾ランプが灯され、橙色に染まる部屋で、僅かに汗が滲み始めたのかルトフィーの額が光を弾く。
少女は彼の傍へとにじり寄り、そっとそこへ手をやると、触れる前からむわっとした熱気が手のひらに伝わってきた。ぽっぽ、という表現が一番当てはまるような火照り方で、医師の言った通り、傷のせいで熱が出始めたのだろう。
(どのくらい、熱が上がったら解熱剤飲ませたらいいんだろ……)
自身の額と手のひらで熱を測り比べてみるものの、確かに自分よりは熱いがどの程度の発熱状況なのかよくわからない。それでもヒュマシャの手のひらの冷たさが心地よかったのか、寝具の中にしまわれていたルトフィーの手が額、頬へ振れる少女の手へと這わされた。
「……っ!」
少しカサついた手のひらと、骨っぽく長い指の感触に、少女の息が思わず出かかった声を呑み込む。心臓が一瞬で跳ね上がるのを呑み込んだ声と一緒になんとか静め、震える唇からゆっくりと息を吐き出した。
「ヒュ、マ……シャ?」
ほぼ音をなさない掠れた声が、小さく響く。
「ルトフィー! 起きた? 大丈夫?」
「あー……そうか。俺、気ぃ失ってたか」
「医師に診てもらったの。怪我はあまり大きくないそうだけど、そのせいでちょっと熱出るかもって。おでことか、熱い気がするけど、どう?」
ルトフィーは、少女の手を握りしめたまましばらく考えるように宙へと
「あー、確かに。熱出てそうだな……」
「じゃあ、この後まだ熱上がっていくかもね。解熱剤、あるけど飲む?」
「ん? あぁ、んじゃもらう」
上半身を起き上がらせようとしたルトフィーが、肘をついた瞬間にガク、と再び寝具の中へと沈んだ。肩から背へと走る傷は、損傷の程度としては大したことのない部類なのだろうが、それでも刃物で斬りつけられているのだ。痛くないわけがない。
「ちょ……、大丈夫? あんま無理しない方がいいよ」
「いや、でも熱出て身体中痛いんだよ」
「じゃあちょっと待ってよ。あたし、起こすの手伝う――」
手に持ったグラスと薬を傍らへ置き、彼の背へと手を回そうとするが、僅かな刺激が響くのか、再び青年の眉が大きな皺を刻み、頬が歪んだ。
「……っ」
「あ、ごめん。触った? 当たり前だけど、痛い、よねぇ……?」
「いや……、あー、まぁ、痛いのは事実だな」
「……だよね。ごめん」
寝具に沈んだ青年の
は、と苦しげに吐き出された息は、明らかに発熱時のそれ。
近くにいるヒュマシャにまで、彼の全身の熱さが感じられるほどだ。
(……、となれば)
もう、とっとと薬を飲んで寝てもらった方が、いい状況だ。
ヒュマシャは俄かに騒がしくなり始めた心臓を鎮めるように、一度喉を鳴らす。熱があるわけでもないのに、勝手に火照り出す頬が恨めしくてしょうがない。
「……あの。ルトフィー」
「ん?」
「ごめん。先に謝っとく」
「?? は?」
だるそうにしていた青年の瞳が、少女を訝しげに見上げたその、瞬間。
ヒュマシャは傍らに置いていたグラスの水を口に含み、解熱剤を唇に食み――。
――そして。
「…………っ!」
青年の
少女の赤味がかった金糸が、さらりと彼の顔の横へ流れ、薔薇のにおいが周囲へ溶けた。
ぴちゃ、という小さく濡れた音の直後、青年の喉がごくりと上下するのを確かめて、ヒュマシャは僅かに身体を起こす。
白磁の肌に、さらりとかかる髪をかけた耳朶が熱い。
コチ、コチ、コチ、コチ――と。
先ほどまで気にならなかった時計の秒針が、妙に煩い。
――否。
本当に煩いのは、時計の音でも、自身の胸の裡で脈づく想いでもなく――。
「あ、ああぁあの! これは、あれよ。人命救助。薬を飲ませる為のものだからっ! だから、あの、ほら。他意はないって言うか……!」
驚きに目を見張ったままの青年の榛色が、どうにも気恥ずかしい。
思えば既に彼には身体を暴かれており、もっととんでもないところに指を這わされねじ込まれた経験さえもあるというのに、ただ、口唇と口唇が重なり合ったその事実が、ただひたすら恥ずかしかった。
沈黙に耐えられなくなった少女が、まくしたてるように喋り出すと、しばらく唖然としていたルトフィーの唇が、ふ、と笑いを零した。
「な、何よ!?」
カァ、とますます染まる頬に両手を当てると、手のひらの冷たさに気づく。
(い、いや。これは頬っぺたが熱いの!? それとも手足冷えてんの!?)
混乱に、固まる少女へと、しばらくニヤニヤ笑いを食んでいた青年が、寝具の中でもぞもぞ動き、僅かに身体の位置をずらした。
「? 何??」
「俺さ、熱出てるだろ」
「うん」
「寒いんだよな」
「……うん?」
まだまだ熱が上がっていく段階なのだろう、と思ったからこそ、恥を忍んで口移しで薬を飲ませたのだ。一体何を言いたいのかと、ヒュマシャは眉を顰め、小首を傾げる。
けれど。
「…………あ」
不意に、青年が寝具の中で意味ありげなスペースをあけていたことを思い出た。音のしない声をぱくぱくと紡ぐ少女の頬へと、彼の手のひらがさらりと触れてくる。
「だからさ」
来いよ。
ルトフィーの掠れた声に、耳にかけた少女の金糸が、さらり、と揺れた。
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