2-7

 砂糖と挽かれた珈琲豆を孕む水が、手鍋ジェズヴェの中で、くつくつと鍋の中で音を立てている。

 橙色の熱を放つ炭に抱かれた鍋は徐々に温度を上げて行き、中の珈琲はふわふわとした泡がどんどん量を増やしていた。直接、火に炙られているわけでもないのに、その熱に惑わされるかのように上下左右へと踊っている。

 はっ、と気づいた時には沸騰寸前。一瞬でその量を増した珈琲が溢れ零れそうになり、ヒュマシャは慌てて鍋を炭の中から取り出した。


「あぁぁああ!! あ、危なかっ、た……っ」


 ギリギリのところで、大惨事は免れたようだ。

 手鍋の限界以上に膨れ上がっていた泡は、熱の供給が失われると、まるで見えない誰かに吸い取られたかのように一気にその体積を萎ませていく。

 ほっと安堵のため息をひとつ吐き、少女は救い出した手鍋の中へと睫毛の先を落とした。先ほど溢れ返りそうになった珈琲は、今は静かに収まっているものの、ほんの少しの熱があれば再び先ほどの状況になることは疑うべくもない。


(違う)


 いまだ、そこには熱があるのだ。


(冷めるのには、かなり時間がかかるのよね……)


 思わず独りごちたその一言が、先ほどの沸騰からの顛末と合わせ、自身の状況そのものだと気づいてヒュマシャは軽く唇へと歯を当てる。


(そうよ)


 冷めるのには、時間がかかるのだ。


  ――ねぇ、ルトフィー。じゃあ、なんであたしには触るの?

  ――触りたいから。って、言ったら、お前はそれを、許してくれるか。


 この【黄金の鳥籠カフェス】の主たる青年と、そんな会話をしたのは早数日前の事。

 確信があったというほど自信があったわけではないが、育ちが育ちということもあり、それに全く気づけないほど鈍感でもない。

 核心に触れようとしないままに、けれどそれを掠めるように交わされる会話に焦れて、先に仕掛けたのは自分だった。


(アイツ……は、どういうつもりなんだろ……)


 恐らく、嫌われていないという事だけは、ほぼ確実だと思う。

 自分は悲しいかな、お世辞にも性格がいいとは言えないが、それでもここ最近共に過ごす時間は退屈なものでもなければ、気分が悪くなるようなものでもなかった――はずだ。

 少なくとも、ヒュマシャは手作りした菓子をつまみながら、彼とときおり本を眺めたり、軽口を叩いたり、戯言を口にして互いに笑い転げるような生活は、嫌いではなかった。


(ルトフィーの立場なら、あたしを本気で嫌っているならとっととこの鳥籠から出ていけって言えるだろうし……)


 そこまで考え、ふ、とかつて彼と交わした会話が脳裏に巡る。


  ――じゃあ、あたしも……この後何も問題なければ、こっそりここから出されて、誰かに嫁ぐ事になるの?

  ――実家がわかるなら、そっちに送ってもいいが。

  ――……はっきりとは、わからない……。

  ――じゃあ、恐らく高官の誰かに嫁ぐ事になるだろうな。


 今までにも皇太后ヴァリデ・スルタンたちから送り込まれたジャーリヤを、殺したという体にして密かに後宮ハレムから出し、その後、遠い任地で知事を務めている高官や将軍たちに嫁がせていたというし、自分もいずれ、そうするつもりだと彼は言っていた。


(そうだった……。あたし、外に嫁がされる予定だったわ)


 けれど。


(それって、いつなんだろ……)


 古い知己であるミフリマーフによって、鳥籠ここに放り込まれてからそろそろ一月近く経つ。

 カランフィルの会話から察するに、ルトフィーが鳥籠ここに妾を住まわせる事は、かなり稀有な事のらしい。もっとも、自身を暗殺するべく送り込まれた女を警戒するのは当然の事なのだが、基本的に、皇太后より遣わされた妾たちは、その後カランフィルが身元を預かりすぐに外に出してしまうという事だった。

 けれど、ヒュマシャは経緯が違うという免罪符を得た為に、しばらく様子見のため鳥籠で匿われている。

 ――という事に、なっている・・・・・・・・・・・


(でも)


 その為だけに、一月もの間、女嫌いな青年が匿ったりするだろうか。


(わかんない)


 いま、自分がどういう立ち位置に置かれているのか。


(わかんない)


 彼が、どうしたいのか。

 彼の、想いがどこにあるのか。


(わかんない)


 触れたいと、そう口にしたこの鳥籠の主の――その、心が。

 この数日、繰り返し繰り返し、胸の裡に問いかけた音のない声は、手鍋の中の珈琲のように沈殿していくばかり。


(……あ~~~~、本当、不毛だわ)


 こうして答えの出るわけもない問いを、自身の中で繰り返す事も。

 少しのしげきで溢れかえってしまいそうな、想いも。

 それに、名付けたい衝動に駆られている自分も。


(ほんっと、不毛よ……)


 ヒュマシャが、まるで青年の心のように見えなくて、自身の心のように沈殿したものを孕む珈琲へと大きなため息を落としていると、ふ、と近づいてくる足音に気づく。少女は軽く小首を傾げながら、厨房の入口へと足を運び、窺うように廊下へと視線を送った。

 厨房へと近づいてきたのは、円筒帽フェズを被った南国出身の特徴を纏うひとりの男の姿。大きな籐の籠を両手に抱えており、ちらりと頭を出しているのは橙色の南瓜だろうか。


「どうしたの? それ。南瓜?」


 ヒュマシャが一言一言、わかりやすく、口を大きく開けながら指差し訊ねると、男は軽く瞬きをして眦を下げた。


「はい。カランフィルさまから、南瓜のお届けものです」


 柔らかな声だった・・・・・・・・

 少女は一瞬、違和感――という表現が一番近いと思われる「なにか」に引っかかったような気がして「ん?」と眉を顰める。けれど、その理由は即座にはわからない。南瓜、になにかあったような記憶はないし、カランフィルにも取り立て今、用はなかったはずだ。

 まぁいいか、と少女は頭だけ出していた厨房入口から一歩、二歩と廊下へ歩を刻む。


「南瓜? あれ? そんなのくれるなんて言ってたっけ?」


 再びヒュマシャは、口の動きを大きくわかりやすく動かしながら、訊ねる。すると、男は「えぇ」と、はっきり返事をした。


「ちょうどいい南瓜が届いたそうで。おすそ分けということです」

「そう? まぁ、だったら遠慮なく頂いて、甘煮カバクタトゥルスでも作るわ」

「それはいい。ルトフィー殿下も喜ばれるでしょう」

「あはは。知ってる? 意外とアイツ、甘いの好きなの。あー、待って。甘煮作るなら、クリームカイマクも欲しかったな。ナッツ類は、結構在庫あるんだ、け……ど……」


 まるで水が流れるかのように滑らかに行われる会話に、少女の頬が最初に感じた違和感を再び訴えた。口の開き方は、明らかに不自然なほど大きく、一言一言区切っている為、きっとそれだけで、何を話しているのか察する事が出来るような動き方だ。

 ――まるで、耳が聞こえない者へ話しかけるように・・・・・・・・・・・・・・・・・


(……待って)


 ゾク、と背筋に冷たいものが走った。

 この【黄金の鳥籠】に仕える宦官は、後宮の他の宦官とは明らかに違う特徴があるという。

 この場所で行われている会話を漏らす事がないように、鼓膜を破き、舌を裂き――聞こえないように、喋れないように。


(そうよ……、だから、あたし……)


 聞こえない彼らのために、それでも自身の声が伝わるように、彼らの前では口を大きく開け、喋るようになった。それに対する彼らの返事は、いつだって言の葉の形をしてはいなかった。

 けれど――。

 男のおもてをよくよく見れば、この鳥籠で一度も見かけたことのない顔だった。外気のような冷たさを、その黒い瞳に宿らせて一歩、一歩、少女へと近づいてくる。

 ヒュマシャの喉が、ごくりと鳴り、一歩足音を後ろへと響かせた。

 シュル、と衣擦れの音を、下穿きシャルワールが立てる。


「どうされました? ヒュマシャさま」

「……お前、誰なの。ここの宦官ものは、喋れないはずよ。聞こえないはずよ」

「…………あぁ、そうでしたね」


 男はそう言うと、両手に抱えた籠をその場にどさりと落とし、長衣カフタンに隠れていた腰布サッシュから短剣を取り出した。そして、少女の喉が悲鳴を上げるその前に、バサッと長衣の裾を翻しながら、一気に距離を詰めてくる。


「……ッ! い、いやァぁあ……ッ!!」


 両手で頭を抱えながら、その場にしゃがみ込んだ少女の悲鳴が、引き攣るように喉から絞り出される。けれど、そんな声さえ切り裂くように、極端に歪曲した短剣の切っ先が、少女の頭上に振りかぶられた――その、瞬間。


「ヒュマシャッ!!」


 背後から突如、名を呼ばれたと思ったら、ふわ、と少女の身体ごと何かに覆われた。同時に鼻腔を擽る柑橘系のにおいに、「ぐ……ぅ」という低い呻き声。

 慌てて睫毛を持ち上げると、真っ先に藍晶石カイヤナイトの瞳に飛び込んできたものは頭布ターバンがはらり、とほどけ落ちる様だった。その後、その下から栗色ブリュネットの髪が現れる。


「……っ、ルト……ッ」


 眉の間に皺を刻み、歯を噛み締めた彼の様子に、少女が視線をさらに流して行けば、肩口付近の長衣が切り裂かれ、そこは赤く染まっていた。


「ルトフィー!!」

「……ッ!」


 彼はそのまま乱暴に、ヒュマシャを後方へと押しやるとほぼ無意識のうちに肩口を抑える。彼の指の間がどんどん血の色で染まる中、凶刃を振るった後にどうやら体勢を崩していたらしい宦官が、その短剣の切っ先を今度は青年へと真っすぐに向けてきた。

 しかし、次の瞬間、ルトフィーの足がまるで鞭のように床を滑り、男の足を払う。ふわ、と一瞬浮いた身体がそこに落ちたと同時に、青年は男の身体を踏みつけた。


「が……ァッ!!」

「訊くまでもないと思うが……、皇太后の差し金か?」

「…………」

「答えない、か。いくらで買われたか知らんが、飼い主に忠実」


 ルトフィーは、フン、と鼻先に集めた嘲笑を弾くと、彼の身体へかけた足に、体重をぐ、っと乗せていく。


「ぐ……ッ!!」

「実に、奴隷らしい選択だ」

「やめろ……ッ! やめてくれ……ッ!! 俺は……!!」

「報酬が……いくらだったかは知らんが、失敗したときの覚悟ってのも、金で買われた時にしとくもんだぜ」


 青年はそう言うと、踏み叩くように男の身体を一度蹴り付け、床に転がっていた短剣を手に取った。ぬるりとした血を塗した指が、柄を握る。そして、男の心臓の上に冷たく尖る、その切っ先を静かに向けた。

 彼が、何をしようとしているのか、答えはひとつだけだろう。

 人の命を狙った者は、自身もまた同時にそのリスクを背負う事となる。

 当たり前の――当然の、成り行きである。

 けれど、ヒュマシャは廊下へぺたりと座り込んだまま、は、は、としゃくりあげるような息を繰り返す。決して暑い季節でもないというのに、汗が滲んだ首筋に、少女の金の髪が貼り付いた。

 怖い。

 怖い。

 怖いのだ。


「女に、見せるような……、光景じゃない事だけは、確かだが……」


 荒い息を吐きながら、ルトフィーは歯を食いしばる。


「恨むなら、皇太后を恨めよ……ッ」


  ――グチュ。


 と、鈍く、濡れたような音がした。

 逃げるようにもがいていた男の足が、ぱたりと止まる。

 命乞いの声は、もう二度と上がらない。


「ル、ト……」


 少女の震える声が、青年の名を紡いだ瞬間、ぐらりと彼の背が傾いだ。


「ルトフィーッ!!」


 ヒュマシャは倒れそうになる青年へと慌てて駆け寄ると、その身体を受け止める。けれど、成人した男の体重など細い身体で支え切れるわけもなく、ふたり一緒に廊下へとどさりと転がり落ちた。

 ふわ、と鼻腔を擽るのは、柑橘のにおい――そして、錆びた、におい。

 青年を抱きとめた自身の手に、ぬるりとしたものが触れる。

 それは、鮮やかな赤。

 ――血、だった。


「ルトフィー!? ねぇ、ちょっと……!!」 


 声をかけても、返事はなく、荒い吐息が繰り返されるばかり。


(怖い)


 怖い。

 怖いのだ。


(人が、死ぬことじゃなくて)


 怖いのだ。


(この人を、失うかもしれない事が)


 怖かった。

 怖かった。


「ルトフィー!! ねぇ……ッ、待ってよ!! 誰か……!! 誰か、来て……!! ルトフィーが、死んじゃう……ッ!!」


 幸せの鳥、と名付けられたはずの少女の叫び声が、死のにおいが染み付く鳥籠で響き渡った。

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