2-6

 ちら、と視線を落とした珈琲カップの中は、既に粉が沈殿したようで上澄みは黒光りする宝石のような透明感があった。


(もう大丈夫かな)


 ヒュマシャはカップを手に取ると、逆の手に持ち変えて「はい」と、視線を送る事なくそのまま隣に座るルトフィーへと流した。


「ん」


 彼もまた、ヒュマシャへとその榛色ヘーゼルの瞳を向ける事なく、それを受け取る。青年の指先が少女の手に触れ、胸の裡で心臓が一瞬で汗を掻くような錯覚を覚えるが、それに溺れる事なく無理やりごくりと飲み込んだ。

 太陽が、空の一番高いところを通過し、やや西へ傾いた時刻。

 室内に入った陽射しの勢いも午前中に比べると大分弱まっており、時折カタカタと窓を冷たい風が叩いている。それでも朝から差し込んでいた陽射しに暖められた部屋はぽかぽか暖かく、甘い菓子や香ばしい珈琲のにおいが、鼻腔を楽しませていた。

 ほんの少し、身体を傾ければお互いの身体が触れ合うほど近い位置に座るのは、この【黄金の鳥籠カフェス】の主である、前皇帝スルタンのルトフィー。先日、彼とこうして書物や地図を並べて勉強会のようなことをして以来、日中ふたりで読書をする生活が日課となっていた。

 コチ、コチ、コチ、コチ――。

 時計の秒針が進む音と、時折ぺらり、とページの捲れる音。


(あー、一番眠い時間だなぁ……)


 昼食を終え、適度に満たされた状態で、この陽気に包まれると、どうにも睡魔と手を取り合ってどこまででも落ちていける気がしてしまう。徐々に重たくなる瞼に、知らずゆぅらりゆらぁりと身体を揺らしながら、ヒュマシャの痩躯が軸を失い始めた。

 ふ、と意識が黒く塗りつぶされたと思った瞬間、ガクンっ、と少女の身体が横へ振れる。落下する感覚に、ハッ、と意識が再び目覚め、そして――。


「うおっ!?」


 焦った声が近くで上がる。

 ぎゅ、と目を閉じ、覚悟した痛みの代わりに訪れたのは、後頭部を包み込む感触と、ふわ、と鼻腔に届く柑橘系のにおい。慌てて持ち上げた睫毛の先には、驚きに目を見開き、こちらを覗き込むルトフィーの姿があった。

 どうやら眠気に負けた身体が、隣にいた彼の膝の上へと落ちたらしい。否。恐らく絨毯の上に崩れていたところを、彼がとっさに自身の許へ引き寄せてくれたようだ。後頭部を包み込むものは、彼の手のひらなのだろう。


「……ごめん。一瞬、寝落ちた」

「だろうな」


 見りゃ、わかる。

 ステンドグラスを背景に、青年の影が、声が、少女へと降ってくる。

 藍晶石カイヤナイトと榛色が、真っすぐに重なり合った。

 彼の背後にはステンドグラスが七色の光を弾いており、少女の脳内で感情がそれに似た乱反射を繰り返す。 

 いつぞやの夜にも似た状況に、先ほど一瞬ざわめいた心臓が再び胸の裡でバクバクと主張を始めた。

 息の、仕方さえ忘れそうになってしまう。


「あ、……っと、えと。あ、ありがと」


 口の辺りがムズムズとするような――手足をバタつかせたい衝動を耐えるような感覚に、少女はいてもたってもいられず、慌てて起き上がろうと肘をついた。けれど、それより先に後頭部を抑えていた彼の指がシュル、と頭部に巻かれていたヒュマシャの頭布ターバンを引く。

 頭を拘束していた布が、はらりと取り払われ、青年の膝の上に少女の赤味がかった金糸が、まるで絹布でも広げたかのように散らばった。


「え……、ちょ……っと、なに……っ!?」

「眠いなら、このまま寝ればいいだろ」

「や、もう目ぇ覚めたから……、っ!」


 再び身体を起こそうとするヒュマシャの髪が、後ろへくん、と引っ張られる。そしてそれを手繰り寄せるように、青年の指が少女のうなじへと伸びた。ざり、と地肌を指の腹が舐める感触に、ヒュマシャの肩がびくっと固まる。


「な、な…………」


 口をパクパクとさせるものの、紡がれる言葉に意味はなく。

 ただ鼓膜に響くのは、自身の髪を青年が指の間に流す音ばかり。

 耳から頬へ、そして顔全体に、一瞬で血が巡っていく。

 熱い。

 いまにも湯気が上がりそうな錯覚さえ、感じてしまう。


「いいから、このまま寝とけって」


 唇の端を僅かに吊り上げたルトフィーが、垂れた目をすぅ、と細めた。そして少女のつるんとした額へとぺしりと手のひらを一度落とし、「真っ赤だな。あっつ」と声を降らせる。


(だ……っ、だだ、誰の!! 誰の、せいよ!!)


 言い返してやりたいのに、言葉がうまく紡げない。

 口から生まれてきたのかと、実の親を嘆かせ、昔馴染みと舌戦を繰り広げた過去が信じられない程、なにも出てこない。


(なに、これ……)


 ただただ、身体の裡の心臓の音がうるさい。

 ぎゅう、っと、心臓が握り締められたように、息苦しい。


(さっきまで、あんなに……眠かったのに)


 あれほど、穏やかで、ゆったりとした時間が流れていたことが、いまはとても信じられない。


(まぁ……でも)


 思えばルトフィーは、曲がりなりにも元皇帝陛下であり、後宮も持ってた。


(コイツからしたら、この程度の触れ合いとか、当たり前って感覚なのかもなー)


 片や自分は、後宮入りのために夜伽作法、閨房芸をたっぷり四年間、みっちり仕込まれてはいるものの、生身の男というものに慣れてはいない。ルトフィー曰く、ある意味箱入りとしてこの数年を過ごしたせいで、男という存在自体に慣れていないからこそ、距離感や危機感などが少しズレているらしい。

 けれどそれは、あくまでも男という存在を意識しなければ、の話である。


(いやだって、もうそれはしょうがないじゃない)


 日々、同じ空間で、ときおり戯言を言い合いながら過ごしていたら、どうしたって一人の人間として意識してしまう。

 どういう人柄なのか。

 どんな声で、笑うのか。

 どんな視線を、向けてくるのか。

 書物のページを捲る骨ばった指の長さ。

 ときおり、持て余したように舌で口内をつつき頬を膨らませる癖。

 戯言を交わしあうたびに、上下する喉元。

 読書三昧で肩が凝るのか、伸びをしながら腕を回す、その仕草。

 その時、ふわ、と宙に広がる柑橘系のさわやかな甘い、におい。


(ぜんぶ)


 知ってしまった。


(そうなったら)


 意識するのは、仕方がないではないか。

 しかし、睫毛の先にいる彼といえば、ヒュマシャに膝を貸し与えた状態のまま、再び書見台に置かれた書物をぺらりと捲り始めた。その表情は、特に日頃と比べて変化はないように見える。

 ときおり、ちらりとその横顔を窺っていた時と変わりない彼の姿に、動揺しているこちらの方が滑稽なくらいだ。


(……あー、やめやめ。うだうだ答えの出ないような事をひとりで悩んでも時間の無駄)


 ヒュマシャは青年の膝に頭を預けたまま、身体の向きを変え、少し離れた場所に置かれたままになっていた皿へと手を伸ばした。そこには先日作り置きをしていた色とりどりの菓子が転がっている。


「おい」

「あ、ごめん。ちょっとロクム取るだけ」

「ロクム?」


 ロクムとは、砂糖水にコーンスターチを入れ飴状になったものにナッツをまぶし、型に入れて冷やしただけの――これまたヒュマシャお得意のお手軽製菓である。

 ミントや薔薇水ローズウォーターを入れると、見た目にも華やかなものになるため、バクラヴァ同様に後宮入りするジャーリヤたちの必須レシピと言ってもいいだろう。

 大きさも数センチ角の正方形にカットし、粉砂糖をまぶすために手に取って食べやすいのも好まれる理由のひとつである。


「そう。昨日下ごしらえしといたやつ」

「あぁ、いいよ。俺が取る」


 前かがみになった青年の身体が、ぐ、っと少女に影を落とす。

 柑橘のにおいを孕んだ長衣が、ふわりと空気をかき混ぜた。


(変だ)


 変だ。

 どうにも、今日はおかしい。

 再び、顔に熱がこもる。

 

「ほら」

「……ん。ありがと」


 赤味を帯びた頬を見られたくなくて、彼の視線から逃れるように顔を背け、ぽつりと呟くと、頭上から笑い声が降ってくる。


「ふは。なんだ、それ」

「なんだって……お礼でしょうよ」

「ははっ、なんかお前から素直に礼を言われると、むず痒い気持ちになるな」

「あのねぇ! 人が下手したてに出てる内に、有り難く礼くらい受け取りなさいよね」

「下手もなにも、俺、元皇帝だからな?」

「あー、ハイハイ」


 先ほど広がりかけた変な空気は一瞬で霧散し、日頃の彼とのやり取りが再び戻ってきた。

 これ以上気負うのもアホらしいと、ヒュマシャは彼の膝の上に頭を預けたまま、傍まで寄せられた皿からロクムをひとつ指に取った。ぷにぷにとした何とも言えない感触が、妙に癖になる菓子である。

 ルトフィーはそんなヒュマシャに構う事なく、再び書物へと視線を向け始めた。ぺら、ぺら、と不定期にページが捲られる音が響く。何気なく視線をそちらへ向けると、鉄砲や大砲などの図や写真が載った説明書カタログのようである。

 故郷にいた頃に護身用の猟銃は見たことがあったが、こうして戦争のために使われる銃を目にするのは、写真といえど初めてである。


「……あ。そう言えば」


 ふ、と心の思いつくままで、少女の唇が言葉を紡いだ。


「ん?」

「や、この前ルトフィーさ、トゥルハン帝国の常備歩兵軍イェニ・チェリが負けた理由、『弱いから負けたんだ』って言ってたじゃない?」

「あぁ、言ったな」

「で、強くしようとして、国内の改革しようとしてたけど……失敗、した、んだよね?」

「そうだな」

「でも、それってなんで??」


  ――その母である皇太后ヴァリデ・スルタンや宰相、軍部イェニ・チェリと衝突し、廃された皇帝の名だ。


 初めて出会ったあの日、彼が紡いだその一言。

 それを考えるに、きっとその改革を皇太后、宰相や軍部に反対されたという事なのだろうが、弱いから負けたというのならば、国を強くしようとする皇帝の意見が封じられるのは何故だろうか。

 後宮入りする前の教育機関でさえ、間違いは徹底的に正された。

 何故、間違えたのか。

 何故、ミスをしたのかを分析させられ、良くない点数を取れば再教育されるのは当たり前の話だった。

 たかが後宮入りをするための教育でさえそうだというのに、何故国の未来を左右するような事態の解決方法が「皇帝を廃し、幽閉する」というものになったのだろうか。

 はむ、とロクムを口に咥えながら、視線の先にいる青年にそう訊ねると、彼はページを捲る手を自身の頭布へとやり、隙間に指を入れ軽く引っ掻いた。


「まぁ……ガキだったからってのが、一番の理由だろうな」

「……子供だったから、考えをナメられてたって事?」

「それも、まぁあるだろうが……。一番の理由は、根回しをしてなかったって事だな」


 トゥルハン帝国という国家は、皇帝の位が示すように専制君主国家である。

 その地位は絶対的なものであり、それ故に外戚からの圧力や政治的な干渉を受ける事のないように、その伴侶は全て実家さとのない女奴隷が担っている。皇帝を頂点として、彼の私生活は後宮が請け負い、公のまつりごと大宰相ヴェズラザムを頂点とする重役たちが御前会議ディーヴァーヌで皇帝の意思を元に話し合い、決めていく――という事になっていた。

 ――表向きは。


「実際のところ、皇帝の母親である皇太后の権力っていうのが、代を追うごとに強くなっていってな。気づけば女人の天下カドゥンラール・スルタナトゥなんて揶揄されるような国の形態になってたわけだ」


 実際のところ、周辺諸国で女性君主というものが存在しないわけではない。

 例えば西域の島国であるブリタニア連合王国のグローリア女王や、ルーシ大公国の女帝アナスタシア二世など、圧倒的な権力ちからと、それに見合うだけの器で国家を治め導いている女傑は存在する。

 彼女たちは、その過去から現在に至るまで、学んだ帝王学に則って国を治める為の努力を惜しまず、国の為に「私」を犠牲にする事さえあったという。

 けれど、トゥルハン帝国の女帝・・は違う。


「政治を行う場所は、内廷にあるドームの間クッベ・アルトゥだが、そこで決められたことなんて何一つない。全て後宮の、皇太后の部屋で決まった話が、大宰相たちの名でサインされていただけに過ぎないんだよ」

「んと……つまり、ルトフィーは皇太后さまとか、大宰相さまへのお伺いなしに、御前会議で持論を叩きつけちゃってたって事?」

「まぁ、そういう事だな。もっと言えば、近年皇帝が政治に直接関わることさえほぼなかったからな。皇帝おれが御前会議に参加すること自体が、慣例からするとあり得ない状態だったってわけだ」


 実際の彼の母親である女性を知りはしないが、話を聞く限り、かなり権力欲が強い気質の持ち主なのだろう。実の息子に対して、用済みとばかりに暗殺者を向けようとする事からもそれが伺える。

 そんな女性を無視する形で政を進めようとすれば、そこから一気に不満が噴出していくのもわかる気はする。大宰相さえ、皇太后に追従していたのならば、尚更だ。


「ん? でも、なんで軍部も?? 常備歩兵軍が弱いから、戦争に負けちゃったんだし、強くするっていうのは彼らにしても賛成するんじゃないの?」

「常備歩兵軍も、もう腐敗していたからな。自分の利権をまもるために、内部改革を拒否して、結果、皇太后側についた」

「なるほどねぇ……」


 皇太后はともかくとして、大宰相、もしくは常備歩兵軍いずれかに一度根回しの対談を申し込んでいれば――もしくは、日頃より彼らとの関係性向上のためになにかしていれば、結果は変わったのかもしれない。

 けれど、きっとそれは即位したばかりの少年皇帝には想像もつかないようなものだったのだろう。

 きっと、理想を高く持ちすぎたが故に、周りの理解を得られると勝手に信じ込んでしまている一面があったに違いない。


「まぁ……、確かに円滑に事を運ぶために、根回しは大切よね。それは間違いないわ」

「なんだよ。妙に実感こもってるな」

「そりゃ、経験あるもん」

「経験?」

「これよ、これ」


 皿の上から、ロクムをもうひとつ拾い上げると、ぽいっと自身の口の中へと放り込む。甘い口どけに口角を持ち上げながら、ヒュマシャは続けた。


「あたしも故郷にいた頃、ガーリャ……ミフリマーフとか取り巻きのお嬢さんたちに媚びる事って出来なくって。正面切って、よく喧嘩してたの」

「あぁ。もう見るからに、喧嘩っ早そうだもんな。お前」


 くく、と笑う青年に「うるさいな」と唇を尖らせると、少女は若干冷えた視線を向け、眉間に一瞬皺を刻む。


「で、まぁそんな性格だったんだけどね。誘拐された先は、それこそ女の園なわけでしょ。あたしはこういう性格だから、自分の意見を変えるなんてしたくなかったし、でもそれをそのままぶつけてたら昔と変わらず、喧嘩の毎日になっちゃうのよ」

「で、それがロクムと何の関係があんだよ?」

「せっかち! 話は最後まで聞きなさいよね。でね、自分の意思を貫くってときでも、それより前に仲良くなっていたら人の印象って違うのよ」


 後宮入りをする際の教育で、文字の読み書き、国の歴史、踊りに楽器の演奏、吟詠――それに夜伽作法などは皇帝に仕える為の技術である。けれど、料理や裁縫は、皇帝に仕える為に必要なのではなく、後宮で生き延びる為に妾同士、横の連携を強くするために必要なものだ。


「『どうぞこれから宜しくね。お近づきのご挨拶に、手作りしたお菓子をどうぞー』とかね。何でもいいのよ。そういう会話をしておけば、全く話した事のない人間よりもある程度親しみが生まれるの」

「親しみが生まれると、別の会話するときもやりやすいってのはあるな」

「そゆこと。まぁ、あたしも、誘拐されたからこその発想なんだけど」


 流石にロクムをふたつも口にしたら、甘ったるさが舌に絡みつく。もういい加減冷えてそうだが、珈琲で口内を一度すっきりさせようかと、少し離れたところに放置されたままの珈琲カップを取るために上体を僅かに起こした。

 青年の膝の上に散っていた少女の金糸が、さらりと音を立てながら離れていく。


「……まぁ、あれだな。当時の俺がその根回しの大切さを知ってたにしても、実際出来たかどうかっていうのは……難しいだろうな」

「ん? 根回し、うまくできなかったかもって事?」

「いや。ま、それもあるかもしれんが。そういう事じゃなくて、もう単純に後宮に寄りつきたくなかった」


 彼の膝の上に寝そべっていた痩躯を起こし、目の前に座った少女の眉が、疑問符を宿した。ルトフィーはふ、と鼻先に自嘲を集め、それを弾く。


「嫌いだったんだよ。後宮が。というより、後宮の妾たちが」

「えっと、……好みの女がいなかった、とか? いや待って。それはちょっと贅沢過ぎない!? ここをどこだと思ってんの!? トゥルハン帝国の後宮よ!? 世界中のありとあらゆる美少女を集めた男の夢の世界じゃないの!?」

「いや、何でそもそもお前の勝手な仮定の段階でキレてんだ」

「……そうだった。ごめん」


 あまりに贅沢な話に、一瞬目的を忘れそうになったが、そもそもそういう話の筋でもなかったはずだ。


「俺にはセリムとイブラヒムという腹違いの兄が、ふたりいたんだ」

「お兄さん……?」

「父上の後を継いだのは、俺。つまり――そういう事だ。わかるだろ?」

「え……、でも」


 いま現在、この【黄金の鳥籠カフェス】に住む皇子は、ルトフィーのみである。

 ヒュマシャの眉の間に刻まれた皺が、どんどんその数と深さを増していく。


「俺が、兄上たちがここで幽閉されているのを知ったのは、十五の時。即位してから三年後の話だ。死への恐怖か、それとも皇太后が盛った毒のせいなのか――。兄上たちは、もうかつての人格も、健康も何もかもを失っていたよ」


 そうして大した治療も受ける事なく兄ふたりは、それから一月後には両者とも亡くなったという。否。ちょうど、そのタイミングでルトフィーの後宮が設けられたので、もしかしたら、トゥルハンの血統の予備はもういらないと、皇太后の毒牙にかかったのかもしれない。


「そんな事があって、この国で……トゥルハン家の子供なんざ、作る気になれるわけがないだろ……」


 榛色を横へと流しながら、自嘲に頬を歪ませるルトフィーに、ヒュマシャはぎゅ、と唇を噛み締めた。膝の上に置いた手が、知らず下穿きシャルワールを握り、皺を刻む。

 先日も感じた、まるで泣き出しそうな子供を前にした時のような、抱きしめたい。いとおしい。大丈夫だよ、と慰めたい。そんな、とても言葉に出来ない大きな感情が、胸の裡いっぱいに広がった。


(いやいや、自分より年上に対して、持つような感情じゃないでしょ)


 でも――。

 ヒュマシャは下穿きを握りしめていた指を解くと、彼へ一歩にじり寄り、そっと額の上に流れる彼の栗毛ブリュネットを梳る。柔らかそうだと思っていたその髪は、想像よりも硬く、しっかりしていた。


「なに、慰めてくれんの?」


 ふ、と青年の頬が柔らかく笑みを浮かべる。ちらりとこちらを窺う榛色の瞳は、揶揄うような光を帯びていた。

 ヒュマシャは一瞬、唇を尖らせると、やけくそとばかりにそのまま手のひらを彼の頭衣へとやり、ぽんぽんと宥めるようにそこへと触れる。


「そーよ。膝枕のお・礼!」

「……ふっは。やっぱ、むず痒いな」

「うるさいな。……でも、思ったんだけどさ。話に聞く限り、アンタのお母さん……皇太后さまが、後宮に来ないのを許すとは思えないんだけど……」


 否。

 もしかしたら、通わなかったからこそ、彼女の機嫌を損ねてしまったのだろうか。


「あぁ。しょっちゅう、妾を夜伽に選んだから召せって催促されてな。殆ど無視してたが、それでも、何度かはそりゃある」

「…………っ、そう、なんだ」


 戯れるように、彼の髪や耳朶へと触れていたヒュマシャの指がぴくり、止まった。驚きに、一瞬で心臓が嫌な汗を掻く。


(いやいやいやいや。こいつ皇帝だし、当たり前。当たり前よ。うん)


 皇帝の大切な仕事のひとつが、後継者を設けることだ。

 母親からの催促に、この根は真面目な青年がいつまでも義務を放棄する事が出来るとも思えない。

 はは、と乾いた笑いを零したその自身の意図さえ、よくわからないまま、ヒュマシャはルトフィーから手を引くと、せり上がってくる苦い想いを抑える為に再び甘い菓子へと手を伸ばす。先ほどは甘さが舌の上で暴れていたというのに、いまは飲んでもいないはずの珈琲を、沈殿している粉ごと口に入れてしまったような気分だ。


「……あぁ。言っとくけど、抱いてねーぞ」

「!?」

「言っただろ。トゥルハン家の子供なんざ、作る気がないって」

「で、でも!! 夜伽の妾を召したんでしょ?」

「後宮の閨房芸で何教わってきたんだ。男を満足させるもんは、色々あっただろ?」


 あった。

 あった。

 ありました。

 皇帝の年齢や性癖によって求められるものは様々で、女を下に敷き、征服したい者ばかりとは限らない。女が主体的に動かなければ満足しない皇帝もいたという。

 そんなありとあらゆる要望に応える為に、後宮の教育は存在するのだ。

 だが――。


「いや……。なんか、それはそれでこう、なんていうか……」

「何だよ。もう女そのものが嫌いだったから、仕方ないだろ」

「……え。女そのものが嫌いなの? 後宮の妾、じゃなくて??」

「まぁ、皇帝時代にはじまり、鳥籠ここに幽閉されたあとも、いい思い出はなかったからな」


 確かに彼の過去を考えれば、母親のことも相まって女性不信になってしまう気持ちはわかる。思えば、【黄金の鳥籠】に放られた夜に彼に身体を暴かれたのも、実に事務的な動きだったし、何よりその瞳には殺気に近いものならあれど、欲求の色は見えなかった。


(なのに)


 何故いま、ヒュマシャを映す彼の瞳は、意味のあるような光を帯びているのだろう。

 何故いま、ふたりの影がひとつになるほどに近くにいるのだろうか。

 何故、彼の手は――。

 

「ねぇ、ルトフィー」

「ん?」


 手に取ったロクムへと視線を落としたまま、少女は眼の前の青年を呼んだ。


「じゃあ、なんであたしには触るの?」


 ふ、と持ち上げた睫毛の先で、ヒュマシャの真っすぐな視線に、ルトフィーの榛色の瞳が驚きに丸くなる。何かの言葉を探すように、青年の唇が軽く開かれ、けれど何も紡がないまま沈黙だけがふたりの間を埋めていった。


「……ルトフィー?」


 あまりに長く続いた無言の時間に、少女が焦れたように声をかける。本来、さほど声が魅力的な性質タチでもなく、小鳥の囀るような美しい声ではないというのに、どうにも甘ったるい響きに聞こえてしまうのは、どうしてだろう。

 少女の声に、言葉を探していたらしい青年の肩がぴく、と動いた。ちら、と視線が再びぶつかり、次の瞬間、菓子を手に持った少女の指ごと、青年の手の中へと包まれる。


「……っ!?」


 あ、と思ったのは、一瞬の事。

 ヒュマシャの指は、そのまま青年の口許へと運ばれロクムが彼の唇と口吻けをした。

 ちゅ、という濡れた音の後、熱いものが指へと触れる。


「触りたいから」

「……え」

「って、言ったら、お前はそれを、許してくれるか」


 なぁ、ヒュマシャ。

 そう紡いだ青年の声は、今まで聞いていた彼のものよりずっと低く耳朶へ響いた。


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