2-5

 そこは、この後宮ハレムにおいて、群を抜いて絢爛な作りの部屋として知られていた。

 他の部屋と違い、壁には美しい絵画が描かれ、さらにロカイユ装飾と呼ばれる貝の曲線をイメージして作られた繊細な彫刻がなされていた。その壁から上へと視線を伸ばして行けば、ドーム状になった天井にこの世で一番美しいタイルと呼ばれるものが敷き詰められている。

 高い位置にある大きな窓も、ロカイユの美しい枠が彩っており、陽の光をいっぱいに部屋へと導いていた。

 カランフィルが、密度の濃い色とりどりな絨毯の毛足をただじっと見つめていると、前方より「おもてを上げられよ」と、女の声がかかる。


「は」


 低く低く、ただひたすらに低く下げていた頭を持ち上げ、視線を前方へと向けると、部屋の一番奥まった場所で、美しい平織物キリムを敷いた長椅子セディルに体重を預けるように座る女の姿があった。ぽってりと口紅の刷かれた唇には、水煙草ナルギレの吸い口が含まれており、こぽこぽという音の直後、女のおもてを隠すように煙が広がる。

 この後宮で最も尊く、最も権力ちからを持つ人物――皇太后ヴァリデ・スルタンその人である。

 与えられた名をマフヴァシュと言い、彼女もまた例に漏れる事なく、このトゥルハン帝国に売られた奴隷身分の女だった・・・

 彼女から見て左斜め下座には、現皇帝スルタン・マフムトの――そして何よりマフヴァシュのお気に入りでもある側室イクバル・ミフリマーフがゆったりと腰を下ろしている。


「近頃、めっきり寒くなってきましたが、陛下の後宮の花たちは、皆さまお変わりないかしら?」


 年の割には、やや甲高い声が部屋に響いた。

 若い頃はこの声を以て、前々皇帝を虜にしたそうだが、彼女の気質を知っているせいかどうにも神経に障るようなヒステリックな声に聞こえてしまう。

 けれど、カランフィルはそんな事をおくびにも出さず、後宮では強面と称されるその顔を溶かすように微笑むと、ゆっくり頷いた。


「マフムト陛下の後宮は、いつも通り何も変わりなく。しかし、皇太后さまにそのようにお気遣い頂けるとは、後宮のジャーリヤたちも喜びましょう」

「まぁ。わたくしは、マフムト陛下の母ですもの。言ってみれば、後宮の妾たちは、みんな、わたくしの娘も同然じゃありませんの。気遣いは当たり前の事よ」

「……ミフリマーフ。どうだ? ありがたくも、皇太后さまからのこれ以上はない程のお言葉を頂いたな」

「はい。監督長クズラル・アースゥさま。皇太后さまへ、今まで以上にお心を込めてお仕えさせて頂きますわ」


 まるで月の光がふわりと夜空に溶けるかのような、そんな繊細で清らかで、穢れを知らない微笑みだった。最近よく見かける・・・・・・・・少女が、これとは対極にあるような、大きく口を開けあっけらかんと、お世辞にも上品とは言えない笑い方をするので、より一層彼女の清廉さが際立つ。


(ま、その笑顔が清らかであればあるほど、腹の黒さも際立つってもんよね~)


 あー、根性悪女は嫌だ嫌だ。

 状況から判断するに、どう考えても【黄金の鳥籠カフェス】へ知己であったヒュマシャを投げ入れたのはこの女である。虫も殺さないような顔をして、その実、誰よりも後宮によく染まっている少女だと改めてカランフィルは思った。


「ふふ……、ミフリマーフは可愛らしいわ。マフムトが夢中になるのも良く分かるの。わたくしへの孝行も良くしてくれる、気立てのよい娘よ」

「それは、それは。後宮を監督する私としても、後宮に皇太后さまや皇帝陛下にそれほどまでにお気に召していただける妾や側室がいる事は、この上ない喜びです」


 薄ら寒いこの会話も、喉を潰すように出しているこの低い声も、何も考えずに口先に落とす事が出来る程度には、慣れたやり取りである。けれど、定期的に、皇太后であるマフヴァシュへの挨拶は欠かさないようにしているが、彼女からこうして呼び出しがあったという事は、こんな世辞の応酬をし合うためでない事だけは確かである。


「ところで、監督長……」


 はい、きた。

 カランフィルは心臓を一瞬ひやりとさせながら、けれどもおもてにそれを出す事なく、唇に三日月を描いたまま、「は」と短く返事をした。


「そんなミフリマーフが言うのだけれど……、最近【黄金の鳥籠】に、わたくしの知らない妾が入り込んだんですって?」


 心臓が、一瞬で大きな身体の中心で跳ね上がる。

 ちら、とミフリマーフへと視線を走らせれば、何やら彼女は憂いるような表情で長衣カフタンの袖を口許へやり柳眉を顰めていた。絶世の美少女の、何とも苦しく悩ましげな表情に、これに絆されてしまう男がいる事も十分理解は出来るが、それでもその本性が外見に現れない事も、カランフィルは知っている。


「ミフリマーフ。先日、後宮に入ったばかりのお前の知己の行方を訊ねた際、知らないと言っていなかったか?」

「えぇ。その時は知らなくて。でも、お友達がいなくなってしまったって聞いて、私すごく悲しくて……。その後、私の部屋付きの宦官に、ヒュマシャを探させたんです。そうしたら、どうやら【黄金の鳥籠】にいるんじゃないかって……」

「【黄金の鳥籠】は、私以外、外部から何人たりとも入ることは許されていない館だ。どうやって、お前の部屋付き宦官が、それを調べた?」

「さぁ……そこまでは。あ、そうだわ。出入りできるのは監督長さまだけ、とは言っても、あちらにもお仕えしている宦官はいるのでしょう? その者が御用で外に出た時に、偶然出会って聞いたのではないかしら?」

「……鳥籠の、宦官が……?」


 あり得ない話だ。

 あそこに仕える宦官は、鳥籠での機密保持のために、代々みんな舌を切られ、鼓膜を破られている。

 偶然出会った程度で、簡単に交流が出来るような身体状況ではない。


(って言うか、ア・ン・タがそこにあの小娘投げ入れたんでしょうが!!)


 食って掛かりたいのを抑えながら、無表情を貫いていると、上段からコポコポという水が沸騰する音と共に、再び煙がぶわ、と生まれた。


「ミフリマーフは、その昔馴染みがそんなところに入ってしまって、どうしたらいいのかってわたくしに相談に来たのですよ」


 マフヴァシュは、煙の向こうからそうミフリマーフの言葉の補填をする。ここに自身が呼ばれた段階でもはや言い逃れは出来ない状況になっていたのだろう。カランフィルは、は、と一度息を吐くと、姿勢を正す。むせかえるような薔薇のにおいと、煙のにおいに混じった微かなスパイスが、どうにも鼻に衝く。

 ミフリマーフからすれば、皇太后への媚びの一環として、後宮内で自分だけが知る情報を告げただけかもしれない。けれど、皇太后へのお目通りが済んでいなかったがゆえに、ヒュマシャの事は内々に片づけようと――そう、ルトフィーと話していたというのに。


「後宮を監督する身でありながら、皇太后さまにお伝えするのが私ではなく側室であったこと、大変申し訳なく思っております。私も事の次第は、その日の内に確認しておりましたが、まぁ大事にもならなかったため、皇太后さまのお時間を取らせるような真似はあってはならないと……お伝えするほどの話ではないと判断し、ご報告しておりませんでした」


 ルトフィーへの報告は、まず結論が先。その後、状況説明、理由などを述べるようにしているが、皇太后への報告は、まずは論点を散らす為にまずは彼女を持ち上げ詫びを入れるところからである。

 結論を先にしてしまうと、この目先の事ばかりに囚われる女はその後の理由や状況などどうでもよくなるという視界の狭さを発揮する。

 それが功を奏する事もあるが、いまこの場ではそれはマズい。

 とりあえず、全ての話を聞いてもらう必要があるのだ。


「あなたがわたくしや、この陛下の後宮を大切に思ってくれていることは、もう当たり前に知っていることよ。そこは、わたくしも気にしていないわ」

「皇太后さまの寛大なお心に、感謝いたします。それで……、先ほどの話ですが、確かに後宮入りしたばかりの妾が一名、どうやら道に迷ったようで【黄金の鳥籠】に入り込んでしまったようです」

「まぁ、そうなの……。それでどうしたの? その妾は」

「一度鳥籠に入った妾を、皇帝陛下の後宮に戻すわけには参りませんので、然るべき対応・・・・・・をしようと思っております」

「そう……」


 温度の籠らない声音で、そう告げると、マフヴァシュは一瞬、何かを考えるようにその砂金水晶アベンチュリンの瞳を宙に遊ばせた。その宝玉を頂く双眸は、目尻がやや下っており、鼻の形といい、ふとした時の瞳の色と言い、鳥籠の主に実によく似通っている。


(可愛がられている皇帝陛下マフムトさまよりも、ルトフィーさまの方が顔立ちは母君に似ておいでなんて……皮肉な話よね)


 否。

 ルトフィーとて、皇帝位についたばかりの頃は母親から愛されていたはずだ。

 傀儡として扱う事を、愛と呼ぶのならば。


「それで。その迷い込んでしまった妾……、名はなんと言ったかしら?」

「ヒュマシャ、です。皇太后さま」

「そうそう、ヒュマシャ。そのヒュマシャは、あの子に……ルトフィー殿下に、お目通りはしたのかしら?」


 水煙草の吸い口を、隣に控えている侍女へと渡すと、マフヴァシュは真っすぐに砂金水晶の瞳をカランフィルへと刺してくる。それは、後宮を監督する宦官を詰問する視線。つまるところ、ルトフィーの手がついたかどうかを問うているのだろう。


「……一応、そういった妾が館に入り込んだ事はお伝えしてありますが、ご興味はないご様子ですね」

「もう。また、そうなの? あの子ったら、皇帝時代も子飼いの小姓ハス・オダたちや、その小姓上りの第四宰相ヴェジール・ラービーたちとばかり何やらコソコソ……ちっとも後宮には寄り付かなかったわ」

「あの年頃の男子は女と戯れる事よりも、同性同士の気兼ねない関係の方を好む事も多かったせいもありましょう」

「それにしたって、ルトフィーはいまいくつ? もうすぐ二十歳を迎えるでしょう? ミフリマーフの話では、可愛い娘だって話じゃない。あの子ったら、女性に興味がないのかしら? わたくしが幽閉された息子を哀れに想い、せめてもの慰みにと妾を送っても毎回そうだもの」


 一見、息子を案じる母親の台詞にも思えるが、実際、幽閉中の皇子が妾を孕ませれば、腹の子ごと処分・・する事になるというのは彼女も知っているはずだ。情を交わした女を、自分のせいで失わせる息子の気持ちというものは、きっと考えもしないのだろう。


(まぁ、殺害を目的とした妾を送り込んでくるくらいだし、そんな事、考えもしないのは当たり前ね)


 そう言いつつも、マフヴァシュが鳥籠に送り込んでくる妾は、毎度毎度、暗殺を目的としているわけではない事を、カランフィルは知っている。

 ルトフィーの許へは、時おり、世に言う「母親のおせっかい」で、夜伽を目的とした妾も送られている。乳房に、性器に塗りこめられているものは、毒物ばかりではなく、外国から取り寄せた媚薬の場合もあるのだ。

 現皇帝・マフムトの不安材料になるからと、同じく腹を痛めた息子であるルトフィーを暗殺しようと女を送り込んでくる事もあれば、若い身空で幽閉だなんて可哀想に、と慰めの女を送り付ける事もある。

 殺害するための凶器を持つくせに、その翌日には息子の不満を解消したいと口にする。

 その時々によって、気分や感情、考えが朝と夜の空のように変化する。


  ――母上にとって、世の中は、いま動かしている駒の八方しか見えないチェス盤みたいなものなんだろうな。


 かつて、皇太后をそう評したのは、まだ皇帝位にあった時のルトフィーだった。


  ――母上だけじゃない。あそこで暮らすうちに、女たちはみんな、周りを取り囲むその他のマスが見えなくなるんだ。


 いま、トゥルハン帝国の周辺でどのように世の中が動いているかよりも、あの後宮内での権力争いの方が大事なのだ。

 一般市民ならば許される視野の狭さも、国を動かす人間には許されない。

 それを理解しないまま、後宮の女主体の内政を繰り返していた結果が、いまのトゥルハン帝国の衰退なのだと――、そうルトフィーは言っていた。


「でも……今回の妾は、すぐに追い出さないのね?」

「……迷って入り込んだ妾ですから。寵を強請るわけでもないので、もしかしたら多少、憐れまれているのかもしれませんね」

「そう」


 マフヴァシュは、何かを考えるように唇へ指を軽く当て――そしてそのまま、三日月をゆっくりそこへ浮かべる。


「……わたくしも、近々またあの子の慰みになるようなものでも、送ろうかしら」

「後宮の妾でしょうか?」

「もう妾は館にいるのでしょう? だったら、彼女と少しでも親密になれるように、美味しいモノでも送ってみるわ」


 すぅ、と細まった双眸の奥の砂金水晶は、冷たい光をたたえており――。


「それはそれは。きっと、お喜びになりましょう」


 カランフィルは、喉の奥で潰れそうになる感情を呑み込むと、口先だけで低い声を響かせた。

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