2-4

 厨房の片づけを終わらせたヒュマシャは、チューリップの描かれた陶磁器の大きな皿に粗熱の取れたバクラヴァと珈琲カップを乗せると、もう片手に珈琲を入れた手鍋ジェズヴェを持ち、その部屋を後にした。

 この【黄金の鳥籠カフェス】という場所は、かつて多くの皇子たちを幽閉していた建物だけあって、厨房、浴場ハマムの他、私生活の場となる居室はそれなりの数があるようだ。けれど、ルトフィーはヒュマシャに他の部屋を宛がわず、自身の部屋で生活するよう告げてきた。

 監視のためか、それとも何か起きた時のためにこの身を案じてくれているのか。招かれざる客人であることは紛れもない事実であり、住まわせてもらえるだけ有り難いと思うべきだろうか。


(まぁ、ミフリマーフが勝手にここに投げ込んだわけで、招かれざる客だろうと何だろうとあたしに落ち度はないんだけど)


 朝、起きた時には陽射しが窓に差し込んでおり、いい天気だと思ったものだが、この建物の中にいる限り、直接その光を孕む風を肌に受ける事はない。

 本来ならば大勢住まう仮定で作られた建物に、いまいるのは廃された前皇帝スルタンと、何の因果かここに投げ込まれる事になったヒュマシャのみである。

 ――否。

 ヒュマシャが寝泊まりしている部屋へと戻るため、角を曲がった瞬間、前方から歩いてくる人影をふたつ、その藍晶石カイヤナイトの瞳に捉えた。

 長衣カフタンの裾に空気を孕ませ、縮れた黒髪を円筒帽フェズにしまい込む彼らの肌の色は、南方出身である特徴をそのまま表している。トゥルハン帝国に仕える黒人種といえば、誰もが知る宦官であるが、鳥籠ここに仕える者は秘密保持のために男性器ばかりでなく、舌と鼓膜を失っているという。


(普通に呼びかけても、わかんないのよね)


 ならば、と、ヒュマシャは彼らがあと数歩、という位置まで近づくと、手に持っていた皿を腕へと乗せ、空いた手で軽く指を振って彼らを足止めさせた。少女の存在については既に監督長クズラル・アースゥであるカランフィルより通達されていたようで認識しているが、まさか自分たちが直接接点を持つだなんて思っていなかったのだろう。両者ともに、感情の色のなかったそのおもてに驚きを滲ませた。


「あ、ごめんね。大した用じゃないんだけどさぁ……」


 ヒュマシャは腕の上にある皿から、先ほど作ったばかりのバクラヴァを取ると、「はい」と彼らへ差し出す。宦官たちの目がますます大きくなって行き、ぽかんと厚めの唇が開かれた。


「お菓子、嫌いじゃないなら……って、聞こえないんだよね。うーん……どうしようか」


 唇を軽く尖らせながらも、何とか身振り手振りで伝えると、どうやら自分たちへの下げ渡しである事は理解できたらしい。宦官ふたりはお互いに顔を見合わせながら、ヒュマシャの手から小さなそれを受け取った。


「あ……あいあおう、おあいあう」


 恐らく、礼を言われたのだろう。

 頭を深く下げながら、そう発音する彼らに、ヒュマシャは唇の端を持ち上げながら「じゃあね」と指をぴらぴら振り、その場を後にする。さら、と少女の金糸が背で踊り、シャリシャリと衣擦れの音が冷たい廊下に小さく響いた。


(あの人たちは、こういう音とかも……聞こえないって事だよね)


 この国において、奴隷として売られ買われた以上、その身は主人の為のものである。それはこの後宮ハレムジャーリヤとして売られたヒュマシャにしても例外ではなく、宦官が男性の機能を失うように、彼女にも自分の貞操に関しての権利はない。

 ミフリマーフによって、「後宮の妾」ではなくなったが、例えばこの【黄金の鳥籠】の主であるルトフィーがその身を差し出せと命じたのならば、それを拒絶する権利などヒュマシャにはないのだ。


(まぁ……既に全力で拒絶したあたしが言えた義理じゃないんだけど)


 ただ、ここに仕える宦官たちは、それよりも一層過酷だ。

 例えば、外で働く宦官ならばその働きに応じて出世が出来る。カランフィルを見ればわかるように、金銀財宝に囲まれ、暮らす事が出来るのだ。妾にしても、きちんと毎月給付金が支払われる制度になっているし、側室イクバル夫人カドゥンになれば一層その額は増える。

 奴隷という身分に対しての対価はきちんと支払われるのが、この国の社会構造である。


(でも……あの人たちは音も聞こえず、喋れず……で)


 恐らく給付はきちんと出ているのだろうが、何とも哀れな話である。


(まぁ、どうせ同じ建物で暮らす者同士、ちょっとでも親しくなっといた方が何かあった時いいもんね)


 故郷にいた頃、ミフリマーフの取り巻きたちとの喧嘩で、身分もあったにせよヒュマシャには仲間はいなかった。当時は仕事さえこなせばいい、面倒な柵のある友達なんて欲しくないと思っていたが、女の園での四年間の学びを経て、いまでは厄介事に巻き込まれやすい性格だからこそ、根回しはある程度必要だという事を学んだ。

 ある意味、料理、手芸、夜伽作法などよりもよほど役に立つ人生の気付きである。


「ただいまー、っと」


 ヒュマシャはようやくたどり着いた部屋の扉をノックし、足でゆっくりとそれを開けた。ふわ、と暖められた空気と共に、柑橘系のにおいが鼻腔を擽る。

 眩しささえ感じるほどの陽射しに包まれた部屋で、長椅子セディルに寄り掛りながら、傍らの書見台へと目を落としているルトフィーがそこにいた。


「おい、女が足で開けるな」

「えー。だって、あたしいま両手塞がってるし」

「それにしても足はないだろ、足は」


 まるで礼儀作法の教官であった宦官のようにチクチク指摘してくる青年へ、「ハイハイ」と軽く往なし、少女は自身の定位置となった、入って正面の長椅子へと腰を下ろす。陽射しが差し込むような窓もなく、暖房もない廊下は凍えるように寒かったが、この室内はぽかぽかしていて、お菓子を食べ終わったあとは満腹で眠くなってしまいそうだ。

 手鍋からカップへとコーヒーを注ぐと、ふわ、とこうばしい香りが立つ。トゥルハン帝国に来たばかりの頃は、この苦い珈琲がどうにも苦手だったが、「嗜みのひとつです」と無理やり四年も飲まされ続ければ、嫌でも好きになってしまうものらしい。

 浮き上がる粉が沈殿するのを待っていると、ペラ、ペラと不規則にページを捲る音が鼓膜を擽る。ちら、と隣を見れば、前皇帝の青年が、榛色ヘーゼルの瞳を書物へと静かに落としていた。

 窓から差す陽射しに、頭布ターバンから僅かに出ている栗色ブリュネットの髪は金にも等しいほどに明るく染まっている。


(見た目だけなら……本当、かっこいい皇子様だわ)


 性格は、結構残念な感じがするけど。

 そう独りごち、ぼんやりと彼の横顔へ瞳を貼り付けていた少女に気づいたのか、ルトフィーの榛色が横目に少女を捉えた。


「……なんだ?」

「え? 何が?」

「さっきから視線が鬱陶しい」

「鬱陶しいって……失礼ね。いや、別に大した用じゃないんだけど……あ、ほら。あれよ。なに読んでるのかなぁって」


 特に理由もなく、ただぼんやりと見ていただけだったのだが、なんだかそれを言ってしまうとまるで見惚れていたかのように思えたので、ヒュマシャはとっさに思いついた言い訳を口にする。それに対して特に疑問に思わなかったらしい彼は、「あぁ」と一度、自身の傍にある書物へと視線を落とし、再び少女を見遣った。


「そう言えばお前、教本丸暗記女だったな」

「まぁ、別に好き好んで丸暗記したわけじゃなくて、四年もいたから必然的にそうなったってだけだけど」


 何となく近くに呼ばれているような気がして、腰を僅かに持ち上げ幼児がはいはいするように彼の元へと近づいて行く。


「いや、どんだけ怠け者だよ。歩け」

「えぇ……。この距離だし、立つ方が面倒じゃない」

「お前本当、元皇帝おれに対する敬意がないな」

「えー。じゃあ、謁見の作法からやる? めんどくさいけど」

「…………いや、もういい」


 ヒュマシャが傍まで寄ると、長椅子に体重を預けていた青年は上体を起こし、書見台を少女にも見やすい位置へ置きなおした。彼が動いた瞬間、ふわ、と鼻腔を擽るのは柑橘のにおい。それが自身の薔薇のにおいと混ざり合い、ヒュマシャの胸中でそわ、と感情が毛羽立つような錯覚を感じてしまう。

 まるで先ほど作ったシロップが、心の深い場所に落ちていくような――そんな気分だ。


「えっと……! ……って、これ、何語?」


 慌てて自身の胸の裡を誤魔化すように、書物へ話題を持っていこうとしたが、開いたページに書かれていた文字がさっぱり読めない。トゥルハン語でもなく、故郷で使っていた言語でもない。しかも、そこに綴られている文字は活字印刷されたものではなく大半が手書きでされたものである。


「ビタリー語って、ここ来る前に習わなかったのか?」

「あぁ、これビタリー語なの? まぁ、領事館夫人とかとのお茶会のために、簡単な挨拶の定型文くらいは習うけど……流石にここまでしっかりと読み書きは習わなかったわ」

「へぇ。じゃあ習った言語は他にはないのか?」

「パールサ語にラツィオ語、ヘレネス語……かなぁ。簡単な会話や単語で習ったのは。でも、しっかりとした言語としてはトゥルハン語くらい」

「まぁ、トゥルハン皇帝との会話にトゥルハン語以外は必要ないからな」

「ルトフィーは? 他の国の言葉、なにか喋れるの?」

「日常会話程度って話なら、ヒュマシャがいま言ってた三言語に、ビタリー、ハビラ語……だな」

「えっ! そんなに!? やだ、ルトフィーって本当は凄い人だったんだ……」

「……言っちゃなんだが、俺、元皇帝だからな? お前、忘れてるみたいだけど」


 彼から刺さる視線の温度が妙に低い。

 ちら、とそちらへ瞳を向ければ、呆れたような榛色が自身を捉えていて、少女の藍晶石と重なり合った後にどちらからともなく、「ふはっ」と唇がその端を持ち上げた。


「でもこれ、珍しくない? 手書きよね」

「これはウェネト共和国のとある政治家が、海外視察した時の報告書のまとめ……みたいなもんで、ある意味日記に近いからな。活字に直さないでそのまま印刷にかけたみたいだ」

「へぇ……。日記……って、あ、これ、地図?」


 足元に広げられていた羊皮紙に気づき、睫毛の先を向ける。滑らかな紙に描かれていたのは、トゥルハン帝国を中心とした周辺諸国の地図だった。


「そう。トゥルハンはこの辺一帯で……、お前の故郷のルィム・ハン国は、こっちだな」


 地図の中心部から、上へとルトフィーの指がス、と滑っていく。そこはトゥルハン帝国から内海を経た先にあるひとつの半島。当時、ヒュマシャ――ポリーナの生きていた世界はあの生まれ育った村だけだったが、地図の上の世界には、自身の過ごした過去は全く見えない。


「地図の上だとルィムはこんなにちっちゃく見えるけど、あたしの村なんて多分もっともっと小さいのよね……どこにあるんだろ……」

「詳しい出身地、カランフィルに訊けば当時の記録からわかると思うけどな」

「そんな事しなくたって、ミフリマーフにでも訊けばいいんじゃなーい? あの子、あれでも領主さまの娘だったし、知ってるんじゃない?」

「アホ。それでまた、ここに転がされるって? お前も懲りない奴だな」

「あら。二百年前の、ヒッポス海峡にドボンより大分マシよ」


 戯言を交わしあいながら、互いにふふ、と笑い合う。

 ルトフィーは羊皮紙をぺらりと持ち上げると、本を乗せた書見台の上へとそのまま広げた。それを近くで見せるつもりなのか、ヒュマシャを指でちょいちょい、と呼ぶ。

 先ほど近づいた時同様に、少女の長衣が絨毯を舐めるように、ずり、と青年へと近づいた。さら、と赤味がかった金の髪が、肩口から細い背へと零れていく。


「今のトゥルハン帝国の領土は、大体ここから……この辺までだ。最盛期は、お前の故郷のルィムから、南はこの辺りまで支配していたらしいけどな」

「あー、ルーシ大公国が突然難癖つけてきて、南下してきたって習ったわ」

「難癖もなにも、ルーシの南下政策なんてそれこそ二百年前から日常茶飯事だ」


 実際、ヒュマシャの家は雇われの農奴であり、国がどこに変わろうとさほど暮らしぶりに変化があったわけではないが、それでも父が昔、情勢が不安定で、毎年この地方を治める人間が変わるから、領主さまが苛々しているというような愚痴を母に零していたような気がする。


「ルィムは、俺の父であるバヤズィト陛下の時に、ルーシの南下で防ぎきれなくて条約で獲られた土地だな」

「あ、それ『カル条約』!?」

「お。流石、教本丸暗記女だな」


 偉い偉い、と青年の手のひらが少女の頭布へと一度、二度、軽く触れる。気づけば、彼との距離はほぼゼロになっており、互いの長衣の裾が重なり合っていた。

 ヒュマシャの胸の裡で、再びよくわからない感情が騒ぎ立てる。もぞもぞと、どうにも居心地が悪いような――落ち着かなさがふつづつと胸の裡で生まれ始めた。


「で……、でも! トゥルハン帝国の常備歩兵軍イェニ・チェリは世界で一番強いって教わったけど、なんで負けたの?」


 その感覚を振り切るように、疑問をとりあえず口にすると、案外的外れでもなかったようで青年の頬がふ、と自嘲にも似た笑みを刷く。


「なんでもなにも……そりゃ、弱かったからだろ」

「弱いって……、だって一時期は、すごい領土を支配してたすごい国なんじゃないの? ほら、ルィムから、南の方まで」

「昔は、な。この国は、それこそ今から二百年以上も前のそのエルトゥールル一世の時をピークに、それ以降は、ただその栄華を貪って生きているだけの腐り始めた国だ」


 曰く、エルトゥールル一世の時に最大の版図となったトゥルハン帝国は、すでに斜陽の一途を辿る国という事だ。

 果実が実り熟すようにトゥルハン帝国が、その甘さに酔っている間に、列強諸国は力をつけていたという。その新たな技術を取り入れようともせず、二百年以上も前の繁栄の汁を啜っているだけの老いた国は、負けて当然なのだと元皇帝ルトフィーはそう言った。


「まぁ父上の皇帝時代の政策のマズさやら、列強諸国の情勢なんかを考えて、皇帝時代はこれでも国内の改革、結構進めてたんだよ」

「……改革、出来たの?」

「ははっ。ま、出来てたら、いま鳥籠ここにはいないだろうな」


 昼間、まだ陽が高いというのに、青年の瞳の色が急に深く暗くなった。

 自嘲に頬を歪めているが、その表情はいまにも泣き出しそうにも見える。


  ――その母である皇太后や宰相、軍部イェニ・チェリと衝突し、廃された皇帝の名だ。


 初めて彼に出会った夜に、そう独りごちるように言葉を零した彼を、不意に思い出す。

 諸外国を含めた表の向きの政治の事はわからないが、その台詞は、国外のみならず国内――しかも、自身に近しい場所から大きな反発があったのだろうと察せられるものだった。

 ヒュマシャは、無意識に彼へと伸ばしそうになった自身の手に気づき、慌ててそれを押し止める。


(なんか、いまのコイツ見てると、泣き出しそうな子供を慰める時みたいな……そんな気持ちになるけど……)


 でも、安易な気持ちできっと慰めてはいけないのだろう。

 きっと彼が抱えていたもの、抱えているもの、どちらも安易に触れていいものではない。

 生半可な気持ちで、慰めていいものではないのだろう。

 だから。


「でもあたしはお蔭で、アンタから面白い話を聞けたから、それはそれで良かったわ」


 苦い気持ちを押しとどめるように、皿へと手を伸ばし、バクラヴァを摘まむとひょい、と口の中へと放り込んだ。こってりとした濃厚な甘さの中に、柑橘と薔薇の風味が広がる。


「幽閉された見返りがそれだけって、俺からしたら割に合わないなんてもんじゃないけどな」


 一瞬驚いた表情を見せたルトフィーが、はっ、と笑いを弾きながら頬の位置を高くした。

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