2-3

 鍋の中で、沸騰した水がこぽこぽと音を立てていた。

 ふわりと上がる白い湯気と共に甘いにおいが厨房内に広がっていき、さらりとした透明だった水は、あっという間にとろみがついたものへと変化する。

 鍋に焦げ付かないように、木べらで何度かかき混ぜて、その後、ガラスの容器に入った薔薇水ローズウォーターとレモン、オレンジの果皮を削ったものを一緒にいれていくと、甘ったるさの中にどこか瑞々しく爽やかな香りが溶け込んでいく。


「よし……、と。こんなもんでいいかな」


 木べらについたとろみのあるシロップを指で掬い舐めると、仄かな甘味とともに鼻へと花果の香りが抜けていった。久々に作ったが、成功したと言っていいだろう。ヒュマシャは唇の端をにんまりと持ち上げると、火を消し、鍋を作業台の上へと移動させる。

 真白い壁と幾何学的要素を多分に取り入れた絢爛で美しい建築物と、それを彩るように繊細なタイルが貼り巡らされたこの新宮殿イェニ・サライにおいて唯一といっていいくらい一切の装飾がない場所――それが、厨房である。

 この宮殿内において、皇帝スルタンは東西で腕に自信のあった調理人数百人を抱え、専用の厨房で調理をさせていたが、そこで作られる料理は当然、後宮ハレムの女たちの食事も含まれるらしい。

 後宮内部にも厨房はあるが、それはそこに住まう女たちの時間潰しの趣味であったり、自分よりも序列の高い側室イクバル夫人カドゥンへのおべっかの仲良しごっこをするためのもので、そこで食事が作られているわけではないようだ。

 そして、それはここ――【黄金の鳥籠カフェス】でも同様で、独立した厨房――ばかりではなく、浴場ハマムさえも存在する。そう考えると、本当にこの後宮の一角にある建築物の中のみで、幽閉された人間の生活は完了してしまうと言えるだろう。

 それを合理的であると捉えるか、残酷と捉えるかは判断に迷うところではあるが、しばらくの間ここで生活をする事になったヒュマシャとしては、誰に邪魔をされるでもなく気ままに好きな事を行えるというのは有り難い話である。


「……ヒュマシャ?」


 突然、厨房の扉の向こうから声がかかり、ふ、と視線を向ければそこには肩に薄布ペシメテルをかけたルトフィーの姿があった。どうやら浴場に行っていたらしく、頭布ターバンは巻かれておらず、栗毛ブリュネットの髪の先に小さな雫が作られている。


「あ、ルトフィー。浴場行ってたの?」

「あぁ。……で、お前はこんなとこで何してんだ?」


 ぽたん、ぽたん、と落ちるそれを乱暴に薄布で拭いながら、青年は厨房へと足を踏み入れてきた。


「バクラヴァ、作ってんのよ」

「バクラヴァ?」

「知らないの? バクラヴァ」


 バクラヴァとは、ユフカと呼ばれる薄い生地に、バターやナッツ類を何層も重ねたものを焼いた伝統的な菓子であり、いま、まさにオーブンの中で焼き上げている最中である。ヒュマシャが鍋で作っていたものは、それにかけるためのシロップだった。

 本来ならば砂糖水ベースに蜂蜜やシナモンなどを入れた濃厚な仕上がりにするのが一般的だが、バクラヴァそのものがバターを大量に使用するかなりこってりとした味つけな為、ヒュマシャは甘さ控えめにした花果風味のシロップを好んでいる。


「いや、バクラヴァは知ってる」

「あ、じゃあ厨房使用の許可? なら、アイツの許可は取ったわよ?」

「アイツって……『監督長クズラル・アースゥ』な。いや、そうじゃなくて。……てか、お前、料理とか出来たんだな……」


 鍋の中を覗き込みながら、思わずといった体でルトフィーが呟いた。ヒュマシャはそれに、む、と瞼に軽く険を帯びさせながら、眉間に皺を刻む。


「あったりまえでしょ。そりゃ料理人の作るような立派なものは作れないけど、料理なんて手芸なみに後宮入りする女の基本中の基本よ」

「まぁ、そうなんだろうが……、言動からして大雑把だとばかり思ってたからな。細かい作業が出来るとは思わなかった」

「まぁ大雑把は大雑把よ。このシロップだって、完全に目分量だもの」


 バクラヴァは作り方に基本はあれど、特に細かい分量など気にせず、自分の思うように重ねていけばいいだけであり、シロップも後から味付けの修正はしやすい。けれど、その他の菓子類は分量をきっちりと計らなければならない事が多く、そちらはたまに失敗する事もあった。


「もうすぐバクラヴァも焼き上がるけど、アンタも食べる?」


 元・皇帝陛下を満足させられるだけの味かどうかは、保証しないけど。

 作業台の上に置いていた鍋掴みを手に取りながら、何気なく訊ねると、ルトフィーは軽く一度、目を瞬かせる。何かを紡ぐように、唇が僅かに開き小さく動いた。けれど、探していた音を見つけられなかったのか、彼は唇をきゅ、と結び直す。

 そして、口許へと薄布を当てながら、軽く首を振った。


「いや、…………俺は、いい」

「? そ?」


 少女は小首を傾げながら、この青年には珍しく口ごもる様を不思議に思いつつ、オーブンの取っ手へと手をかけ、扉を開く。ふわ、と、香ばしいバターの濃厚なにおいが宙へと溶けた。


「じゃあ、邪魔したな」

「あぁ……うん」


 手に持った薄布で、髪をがしがしと拭く青年の後ろ姿を見遣りつつ、ヒュマシャは鉄板の熱さに慌ててそれを作業台へと置いた。火傷しなかったかと指先を確かめるように、指先へと視線を落とす。


(もしかして)


 不意に、思う。


(毒とか、そういうの心配したのかな)


 後宮に住まう女たち同様に、ここの食事は監督長のカランフィルに命じられた宦官が、外で作られた料理を届けている。流石に皇帝の食事は別途特別に作られるようだが、基本的にその他の妾や側室たちと料理の内容も質も変わらないという。


  ――武器はなにも凶器とは限らんだろう? 毒物の可能性もある。

 

 あの日、月明りの下でそう嘯いていた彼だが、実際に差し入れと称して手作りの菓子に毒が仕込まれていた事も、過去にあったのだろうか。

 その美貌を、肉体を武器に、傍近くに侍った女に、好意に見せかけた毒を盛られたことが、あったのだろうか。


皇太后ヴァリデ・スルタンさまに、狙われているなんて事も言ってたわね……)


 現皇帝の母親である皇太后からすれば、前皇帝など存在そのものが邪魔であるというのは何となく察するところではあるものの、ああも警戒しているということはよほどその回数が多いのだろう。


(そうだとしたら……皇帝陛下ってのも、なんだか難儀な職業ね)


 世界の美女を、豪華絢爛な宮廷に集め住まわせ愛でていても、いつ裏切られるかわからない。

 トゥルハン帝国が東西の文化が入り混じっているように、その後宮も、愛と欲と陰謀が複雑に絡み合い溶けあう場所なのかもしれない。

 ヒュマシャは、焼き上がったバクラヴァへと、とろぉり、と花果の香り豊かなシロップをかけた。こっくりとバターとナッツを重ねたその生地に、ゆっくりと甘いシロップが浸透していき、濃厚な味を深く深く閉じ込める。


「アイツ、本当に・・・美味しいモノって食べたことあんのかな……」


 天下の皇帝陛下だった青年へと向けられた少女のその呟きは、甘い甘い菓子の上にぽつりと落ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る