2-2

 窓の外の世界は、既に夜の帳が下りてから大分経つ。

 ぽっかりと闇夜に転がる月は、まるでトゥルハン帝国旗の如く、爪の先で引っ掻いたかのように細い。

 既に世界が寝静まっているのか窓を叩く音は、静かな波の音ばかり。

 四方を緑がかった水色のタイルに囲まれたこの部屋の中で、小さく響くものは窓際に置かれた時計の秒針と、気まぐれに起こる衣擦れの音。そして、それに合わせて寝息が宙にふわりと溶ける。

 ルトフィーは一向に眠気の訪れない瞼を持ち上げると、横向きだった身体をごろりと天井へと仰向かせた。ちら、と横目に見れば、彼の寝具の隣に並べられたもう一つの布団。金の髪が散らばるように、敷布団の上へ投げ出されており、寝息に合わせるように小さく揺れている。


(……本当に、どう考えても神経図太すぎだろ、こいつ)


 昼前に、後宮ハレムを監督するカランフィルに起こされ、彼女の身元の再確認などを行ったが、ルトフィーが結論として出した答えは報告主と同じく「ヒュマシャという名のジャーリヤは、皇太后ヴァリデ・スルタンとは無関係」というものだった。

 勿論、皇太后だけでなく自身の命を狙っている者は他にもいるだろうが、少女の言と、カランフィルの報告を合わせて考えれば、恐らく現皇帝スルタン・マフムトのお気に入りの側室イクバルであるというミフリマーフが、自身への寵愛を目減りさせないために後宮入りしたばかりで右も左もわかっていない少女をここに突っ込んだ、というのが真相だろう。

 ここ後宮という女の園では、往々にして身の周りをじりじりと焼いていく火事よりも、いま目の前に出た害虫を排除する方が優先される。まだ目に見えていない火の勢いよりも、部屋の片隅に出た忌まわしい虫の方が、後宮ここの女たちにとっては問題なのだ。


  ――この後宮にはあたし程度の外見の女、山ほどいるんじゃないの?


 いま隣の寝具で寝息を立てている少女はそう言っていたが、その実、この後宮で生き延びていく女というものは、ただ、美しいだけではない。皇帝を愉しませる声や話術を持っていたり、夜伽に優れていたり。ときには古典などを共に議論することも出来なければ、寵愛は長続きせずあっという間に飽きられて忘れられていく。

 そういう意味では、ヒュマシャのく跳ねっ返りでじゃじゃ馬な性格であったり、頭の回転の早さからなるぽんぽんと返される会話術などは小気味よく、この後宮で好まれる性質である。


(まぁ……、マフムトの女の好みなんざ、知らないし、そもそも知りたくもないが)


 最後に彼に会ったのは、二年前――。

 自身が【黄金の鳥籠カフェス】に幽閉されるのと引き換えに、彼が皇帝位に即位した。その時に、言葉を交わして以来、胎を同じくする兄弟だというのに接点はないままだ。


  ――兄上。俺はさぁ、アンタは賢い人だとばかり思っていたけど、意外と愚かバカだったんだね。


 それが、二年前の彼に向けられた言の葉だった。

 いまにして思えばある意味、彼は正しかったのだろう。

 皇太后ははおやに逆らわず、彼女やその側近たちの作り出す道の上を黙って歩き続け、ただ後宮の女と戯れるような毎日を送る彼は、確かにいま、この国において求められる皇帝像である。


(まぁだからってわけじゃないが……、ミフリマーフが警戒したって事はヒュマシャはマフムトに召される可能性が高かったんだろうな)


 正確には、皇太后に気に入られる可能性――という話だが、それでなくともトゥルハン帝国の歴代皇帝は北方出身の女を好む事が多い。マフムトの傍にいるミフリマーフがそう判断したのならば、きっとそれは正しいだろう。


(歴代皇帝は、か……)


 他人事のように胸中でぽつり呟くと、青年は隣で眠る少女に気づかれないようにため息を吐いた。流石に今夜は同じ布団で寝るのは勘弁してほしいと、カランフィルにもうひとつ、寝具を用意させたが、それでも昨夜から形容する事が難しい欲求が、身体の中に留まり続けている。


(俺は、後宮の女が好きじゃない)


 皇帝じしんの寵愛を求める妾も、それを操る皇太后ははも。


(吐き気がするほど、嫌いだ――)


 皇帝位にあった頃から一貫して、その想いは変わっていない。

 即位したのは、十二の時。

 十五になった年に、自分自身の後宮を持つと共に【黄金の鳥籠】の存在を知り――そして。


  ――何で、セリム兄上と、イブラヒム兄上がこれほどおかしくなるのを、そのままにしていたんだ……!!


 自身の腹違いの兄たちが、幽閉されたこの場所で心身を狂わせていた事を、知った。


  ――兄上たちには、夫人がいただろう? 子もいたはずだ! 夫人と子は、どこにいるんだ!?


 自身よりも年嵩だった兄ふたりは、亡き父が皇帝だった頃すでに成人していたために、帝国内に持つ領地で知事をしていた。その時、すでに家庭も持っており、幼い甥、姪が数名いたはずなのだ。

 特にそれほど親しかったわけではないが、それでも兄だった。

 幼い頃は、互いに母親たちの目を盗み、ここで遊んでもらった事もある。

 自分は、間違いなく、彼らの弟だった。

 兄弟だった――はずだ。

 それが――。


  ――まぁ、陛下。何を荒ぶっていらっしゃるのです? そこ・・それ・・は、陛下のお心を乱すような存在ではありませんよ。


 そう言って、背後から話しかけてきたのは皇太后ははだった。


  ――さぁ、陛下。それよりも、ようやく陛下も後宮を持たれたんですもの。今宵は、わたくしの選んだ妾をご寝所へお召しになると良いですわ。美しいばかりではなく、気立ても良い娘ですのよ。


 そう言って、送り込まれてきた妾たちは、ただ権力者である母におもねる事で自身もその立場に立とうとするだけの女だった。美しく着飾り、楽しげに笑い合う隣の女を、翌日には失脚させようと願う女ばかりだった。

 それが、兄のように狂ってしまう皇子をまた生み出す事になるだなんて、考えもしない者ばかりだった。


(誰が、子など産ませるか)


 この後宮の妾など、寵愛するものか。

 近隣諸国では男にとっての夢の楽園とも称される薔薇のにおいでむせ返る女の園は、ルトフィーにとっては地獄ジャハンナムにも等しい場所だった。


(だから)


 俺は、後宮の女は嫌いだ。

 薔薇の甘ったるいにおいを纏う、女が大嫌いだった。

 けれど――。

 ちら、と再び横目に視線を隣へと寄せてみれば、無意識に呼ばれたとでも思ったのか、ルトフィーとは逆を向いていた身体を、ころんとこちらへ転がしてきた。さら、と金の髪がシーツの上で耳障りのいい音を立てる。

 同じ寝具に横たわっているわけでもないのに、どうしても鼻腔を薔薇のにおいが擽る気がした。どういう育てられ方をしたらそんなに図々しい性格になるのかと思うほど、幸せそうに寝ているそのおもては、猫のような瞳を閉じているせいか、幼さが際立っていた顔立ちが一層顕著になる。


(……ほんと、いい気なもんだ)


 時折、もにょもにょと唇を動かし、寝具に体重を預ける少女は、その福福しさに安眠を妨げてやりたいと思うほどに腹立たしく、けれど、目が離せない事を悟られないようにそのままずっと目を閉じていてほしいとも思う。


(こっちがどんな気分でいると思ってるんだ)


 昨夜、彼女の身体を検めた事に、後ろめたさはない。

 多少の悪戯心がなかったとは言わない。

 冗談にならなそうな欲が、ふつふつと生まれつつあった事実も認めよう。

 それでもあれは、この鳥籠への侵入者を調べるために正当なものだったとはっきりそう言える。


  ――痛いって言ってるでしょっ!! この、下手くそ!!


 中断したのは、彼女の放ったその暴言のせいではあるが、それでもあのまま欲に任せて征服するという事は、絶対あり得なかった。

 けれど。


(外見は、この後宮で好まれる北方出身の人並み以上だが、だからと言って別に際立ってるってほどでもない。性格は気が強く機転も利く――が、買われてから四年も後宮入り出来ない程度には、じゃじゃ馬で面倒くさくて厄介な女……)


 誰よりも後宮に向いていそうなのに、誰よりも後宮に向いていない。

 皇帝に仕える為に後宮入りをしたくせに、既に皇帝でなくなった男の許へと転がり込んできた。

 教本を丸暗記するほどに教養、知識が優れているらしいが、そのくせ本来貴い身分であるはずの自身への態度はどこか適当である。

 さほど後宮の女を知っているわけでもないが、正直初めて出会う性質の女と言っていいくらいだ。

 だからだろうか。

 どうにも意識が彼女から離れていかない。

 彼女の立てる音ひとつひとつに、どうしても身体が先に反応してしまう。

 全ての神経がそちらへ向けられているのではないかと思うほどに、肌がチリチリと焼ける気がした。


(違う)


 年頃の女が、同じ部屋で、同じ寝具で寝ていたら、若い身体はどうしたって反応する。

 後宮の女は好きじゃない。

 吐き気がするほど、嫌いだった。

 けれど、その時だって若い身体は女の柔肌に反応しなかったわけではないのだ。


  ――若い男女が同じ布団に入って「しなきゃいいだけ」じゃ済まないからな、普通は。


 彼女にそう言ったのは、他の誰でもない自分自身。

 年若い女が傍にいれば、嫌でも意識が向いてしまう。

 

(本当に、性欲ってやつは厄介だな)


 なにも知らず幸せそうに眠りこけるヒュマシャのおもてから視線を無理やり剥がし、ルトフィーはぎゅ、と瞼を閉じた。胸の裡に巣食う熱のようなものを逃すために、再び大きく一度、ため息を吐く。

 コチ、コチ、コチ――。

 時計の秒針が、進む音が鼓膜を掠る。

 窓を叩くのは、波の音。

 引いては寄せて、寄せては引く。

 繰り返されるその音に浸りながら、ルトフィーは眼裏まなうらに柔らかそうな金糸を描いた。

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