第二章 足踏みからの、はじめの一歩

2-1

 バンッ! と、勢いよく扉が開く音に、ゆらゆらと混濁の中に漂い微睡んでいた意識が、一瞬で浮上した。

 覚醒の勢いのままに瞼を持ち上げようとしたが、そこにいまだ貼り付く眠気と、その先にある眩しさにヒュマシャは眉を顰めながら顔を歪める。閉じた瞳のその先にある眩しさは、間違いなく陽の光だろう。


(あー、もう朝……?)


 眠気を外へと押し出すように寝具の中で丸まっていた身体を、「んんー」と伸ばしながら、陽射しを遮るように顔の上に腕を持ち上げた。衣擦れの音と共に、ふわ、と柑橘系の爽やかなにおいが鼻腔を擽る。


(ん……?? 柑橘系??)


 一緒の部屋で生活を共にする面々が使用する化粧品や香水は、大体が薔薇の香りのするものだ。ヒュマシャ自身が愛用しているものも勿論それであり、こんな甘酸っぱい香料がこの部屋にあっただろうかと、ふわりと疑問が浮かび上がった。

 思えば、共に大部屋で寝ているはずの大多数が発する、ごくありふれた生活の音が一切聞こえない。一部屋に女が四、五人もいれば、誰かしらの起き上がる音が聞こえるのが当たり前だというのに、何かが近づく振動のような気配以外は、一切の物音が感じられない。


(あれ……? えっと、っていうか、ここ……)


 ふ、と再び鼻に届いた柑橘系のにおいと、真横でもぞ、と動いた気配に、ヒュマシャはハッと弾かれた様に目を覚ました。

 その、瞬間――。


「んっまぁぁあ!! なにっ!? なにっ!? いきなりそういう事なのぉぉお!?」

「うっぎゃぁああ!!」


 頭上から、低く太い声を無理やり叩き引き伸ばしたような、そんな大声が響いた。まるで、大砲でも浴びせられたかのような大音量に、ヒュマシャは悲鳴と共にビクッと身体を震わせながら、顔の上で交差させていた腕で庇うようにその身をすくませる。

 そして、その後ゆっくりと隙間から窺うように睫毛を持ち上げると、そこにいたのは南方特有の黒い肌の男。非常に癖の強い縮れた黒髪を抑えつけるように、朱色の円筒帽フェズをかぶっており、豪奢な外衣カフタンの下にある身体は縦にも横にも巨大である。太い眉にぎょろりとした双眸は、見る者へと威圧感を与えるほどだが、ツンとつき出された肉厚の唇がそれらの印象全てを台無しにしていた。

 この後宮ハレムを監督する宦官たちのトップである、カランフィルその人である。


「……あぁ、そっか……。あたし、後宮入りしたんだっけ……」


 はふ、と大きな欠伸をひとつした後に、何度か瞬きをし、寝たままくるりと周囲へと視線を這わすと、緑がかった水色を基調としたタイルが壁一面に貼られた部屋である事が確認できた。昨夜、月明りを存分に浴び幻想的な絵を描いていたステンドグラスは、いまは眩しい陽射しにキラキラと光を弾いている。

 床に敷かれた絨毯も、模様が細かく素人目にも高価なものだとはっきりわかる。皇帝スルタンお気に入りの側室イクバルであるらしいガリーナ――ミフリマーフの部屋なんて比べ物にならないほどに、立派な一室である。

 外から差し込む日差しの明るさと角度から、いまは大体午前十時くらいだろうか。

 ヒュマシャは、一通り部屋を確認すると、くるりと巡らせた視線を再び頭上の宦官へと戻した。


監督長クズラル・アースゥさま。おはようございます」

「あら、殊勝なことね。はい、おはよう。……って、もう昼前よ!! おはようじゃないのよ!!」

「あ、そうか。もうこんにちはの時間? 後宮入りしたって自覚がなくて、ちょっとまだボケっとしちゃってるかも……」

「馬鹿じゃない!? アンタ馬鹿じゃないの!? 後宮入りだけじゃないわよ! その後クソめんどくさい事に【鳥籠カフェス】入りしちゃった挙句、殿方の寝所にも入っちゃってんのよ、アンタはっ!!」


「――お前ら、うるっせぇ!!」


 突如、隣から大きな低い声が上がり、ヒュマシャのみならずカランフィルさえその巨体をビクッと震わせる。寝具の中に、一瞬ぴゃっと潜り込んだ少女が恐る恐る、顔を出すと隣で寝ていたらしい影がもそりとその半身を起こした。

 ふわ、と、寝具にこもっていた柑橘のにおいが宙に溶ける。

 外の陽射しの眩しさに、少女が一度睫毛を羽ばたかせ――その後、彼女の藍晶石カイヤナイトの瞳にひとりの青年の姿が飛び込んできた。思いの外、柔らかそうな髪の色は、黄みの強い栗毛ブリュネット。恐らく、子供の頃は金髪ブロンドに近い色合いをしていたのではないだろうか。

 顰められた眉は皺を刻んでいても形が良く、垂れがちな榛色ヘーゼルの双眸は、光の角度によって砂金水晶アベンチュリンのように深みのある緑色にも見て取れた。肌の色はやや青白い気がするが、寝起きだからという可能性は非常に高いものの、東西の血が入り混じる文化の坩堝といわれるこのトゥルハン帝国において、それでもはっきりと北の血が強い事が察せられる――そんな容貌である。

 寝具から僅かに顔を出していたヒュマシャの瞳が自身に貼り付いている事に気づいたのか、一瞬青年の視線が少女へ落ちる。けれど、藍晶石と榛色が絡み合っていたのは、僅か数秒のこと。軽く眉の間に皺を刻んだ青年は、す、とその瞳を再び頭上の宦官へと流す。


「あら、殿下。おはようございます。お目覚めになられました?」

「……あれだけ隣でギャーギャー騒げば、そりゃ起きるに決まってるだろうが」

「いつも早起きの殿下がこれほどお寝坊されたということは、まさかもう手を」

「出すか。よく見ろ。こいつも俺も、ちゃんと服着てる」

「んまっ。そんなこと仰っても、殿下が皇帝位にあった頃――」

「カランフィル! お前が鳥籠ここに来た理由はなんだ?」


 何かよほど隠しておきたい事でもあったのか、監督長へ噛みつくかのように青年が言葉を重ねた。如何に「元」とはいえ、相手は皇帝だった人物である。それでなくても、トゥルハン帝国の皇子という立場であり、後宮の取りまとめ役と言えども逆らえる立場の人間ではないだろうに、当の本人は「あら、やだ。ご機嫌斜め?」と軽く流していたので、魔ぁ恐らく結論からするとそんな大した話ではないのだろう。


(まぁこいつ、皇帝だった割にはなんか……押しに弱いもんね……)


 何だかんだで、ヒュマシャに寝具も貸してくれたし、人間的には善良な人物といえるだろう。少なくとも、故郷で散々ヒュマシャに対してねちっこくわかるかわからないか微妙な力加減で嫌がらせをしてきたマフリマーフよりはよほど善良だ。

 ヒュマシャはルトフィーに倣うように、のそりのそりと寝具から顔を出し、半身をゆっくりと起こす。少女の肩口を、さらりと金の髪が滑り落ち、細い背中で小さく揺れた。


「あぁ、そうそう。忘れてたわ。ちゃぁんと、確認とってきたわよ」


 カランフィルはそう言うと、寝具の傍らへとどさり、と腰を落とす。


「で、まぁ結論から言ってしまえば、やっぱり皇太后ヴァリデ・スルタンさまの関与はなさそうね」

「まぁ……そうだろうな。実際こいつ、」

「こいつじゃなくて、ヒュマシャ。昨日も言ったでしょ」

「…………ヒュマシャを見てても、この通り、暗殺者になれるような慎重さってのは、母親の胎の中に忘れてきたのかって程に皆無だ」


 人の話もろくに聞こうとせず、勝手に身体を暴くという事をやらかしといて、この言い草である。

 「こいつ……」と、ヒュマシャが半眼で故郷の真冬の如き視線を射るが、彼のおもてはそれが刺さらなかったようでさらりと受け流された。


「まぁ、はっきりとした根拠としては、そもそもこの娘は昨日後宮入りしたばかりで、皇太后さまへのお目通りが、まだでしたからね。このポリーナ・ナシノフスカヤ――改め、ヒュマシャというジャーリヤが後宮にいるってことを、あの方はご存知ないのよ」


 どうやら妾はみんな、後宮入りをしてから皇太后への謁見を経て正式な後宮の妾となるらしい。確かにここに入る前の教育施設で、皇帝の夜伽役を選ぶのはその母后だという話を聞いた。

 勿論、皇帝にだって好みというものはあるだろうし、そもそも息子の閨事に母親が口を挟むなんて生理的にちょっと受け付けない話ではある。けれど、恐らくそのお目通りとやらで皇太后のお気に召した妾が、皇帝の寝所に侍る事を許されるという事実はあるのだろう。


「まぁあたし、そもそもアンタどころか、【黄金の鳥籠】なんて制度も、知らなったもの」

「お前、人には名前で呼べって言っときながら、自分はそれかよ」

「だって、元皇帝陛下のことを何て呼んでいいかわかんないし……」

「普通に名前で呼べばいいだろ、名前で。少なくともアンタ呼ばわりよりマシだ」

「んー、じゃあ……ルトフィー?」

「……偉ぶるつもりは毛頭ないけどな、俺が元皇帝と知りながら、そこで呼び捨てを選択できるお前の神経の太さに、軽く感動するよ」

「えぇ……だって……、ていうか、なんか注文多くない?」


 最初から皇帝陛下でございと挨拶されれば構えるのだろうが、正直、ヒュマシャにとって元皇帝という肩書の前にこのルトフィーという青年個人が認識されてしまっていた。元よりお行儀のいい出自でもなく、一応この四年間で身につけさせられた教養やら礼儀作法やらで、表面を塗り固められたものの、軸となる人格が変わるわけでもない。

 少女が、やや面倒くさそうに赤味がかった金糸の中へ指を入れると、しばらく呆れたように視線を落としていた青年から「はー」とわざとらしいため息が落とされた。


「昨夜から、お前と問答してる自分の方が頭悪く思えてくるな……」

「えぇ……じゃあ、えっと……、ルトフィー殿下、とかにする? 何か、すごい今更感あるけど、それでいいなら……」

「……いや、もういい。ルトフィーで」


 もう一度大きなため息を吐きながら、青年がガシガシと栗色の髪へと指を入れ「で?」と巨体の黒人宦官へと続きを促した。


「で、さっきねミフリマーフを起こして、ヒュマシャはどこに言ったんだって訊いたんですよ。そしたらあの女、『まぁ。ヒュマシャでしたら、大部屋に戻るって急に言い出しましたの』とかほざきやがりましたよ」


 鶏を締め上げたかのような声で両手を唇の前に合わせながら、ぎょろっとした瞳を一度、二度瞬かせるカランフィルは、恐らくミフリマーフの真似をしているつもりなのだろうが、残念ながら類似点が「人類」という以外、他にない。

 しかし、あの似非天使である側室さまは、相変わらず面の皮が厚く、舌を何枚も持っているらしい。


「はぁあ? そんなの嘘よ。大体、後宮入りした当日に案内も受けてないのにひとりで部屋出ていくわけないでしょ」

「まぁ、流石にアタシもそれを鵜呑みにするわけではないわ。ただ、ミフリマーフはね、いま一番寵愛を受けている側室なのよ」


 年頃の娘かと思うほどの陽気さを見せていた彼が、まるで外気を取り入れたかのように、すぅ、と冷えた気配を纏う。どこか愛嬌のあった大きな双眸が、一気に色をなくしていった。


「昨日今日、後宮に上がって、皇太后さまのお目通りも済んでいないアンタと、皇帝陛下から寵愛を受けている側室では、その存在の価値が違う。ここは、そういう場所なの」

「……まぁ、領主の娘と農奴の娘だった頃から、あたしらの価値なんて同じだった事なんてありゃしないけどね」

「理解が早くて助かるわ。ただね、言いたい事はそうじゃない。アンタはは、価値がない。は、ミフリマーフよりも身分が低い、ただの妾」


 でもね、と彼は続ける。


「皇帝陛下からお呼びがかかったら、どうなるかなんてわからない。自分の立場をいつ誰が脅かす事になるかなんて、わからないのが後宮ここなのよ」


 近隣諸国の王家などでは、君主には正式な配偶者が必ず存在する。

 後ろ盾のある、家柄のはっきりした生まれも育ちも一流のお姫様が、王に嫁ぎその国の女主人となるが、トゥルハン帝国には皇帝の正式な配偶者は存在しない・・・・・・・・・・・・・・・。勿論、後継を得る為にこうして後宮は存在するが、そこに住まう女はみんな奴隷階級の者たちだ。

 かつて、大陸の大部分を支配下に置いていたトゥルハン帝国は、婚姻による他国との結びつきを必要としなくなり、子供を産み育てるだけの存在としてのつまを求めるようになったという。

 故に、いくら側室だ、寵姫ハセキだと持て囃されても、自身の産んだ息子が皇帝位につき、皇太后となるまで国内での地位は女奴隷のままであり、いつ如何なるときにその立場を失う事になるのかという不安はずっと続く。


「つまり……あたしが皇帝陛下に見初められるような事態になる前に、鳥籠ここに転がしたって事?」

鳥籠ここに一度入った妾は、二度と皇帝陛下の後宮に戻れないからね。まぁ、ライバルひとり消すにしてはいい場所よ」

「ま、ひとつ確かなのは、お前は運がいいって事だな」

「は? どこがよ??」


 自慢ではないが、貧困層の生まれであり、さらには誘拐、人身売買の末の後宮入り――世界で一番不幸だとは言わないが、流石にそれなりに不運な人生ではないだろうか。


「諸国の影響から、いまは、この君主専制のトゥルハンにおいてさえ、『人権』なんていう単語が生まれているんだぞ。それこそ二百年前の昔なら、ライバルになり得る妾なんざ、ヒッポス海峡に麻袋でドボン、だ」


 眉を顰めた少女へと、立てた膝を両腕で抱えていたルトフィーの榛色が向けられた。それを言われれば確かに生まれた時代がいまで良かった、とも言える。ヒュマシャの唇がむぅ、と軽く先を尖らせるのへ、彼の喉がく、と笑いを響かせた。

 常より垂れがちな双眸が一層その目尻を下げる様に、「見た目だけなら本当、皇子様だわ」と少女は胸中でそっと独りごちる。


「あー、でも……。正直、この後宮にはあたし程度の外見の女、山ほどいるんじゃないの? そこまで、あたしをライバル視する意味ってあんの??」

「そうねぇ。まぁ、アンタ程度のブス、沢山いるわ」

「はぁっ!? ブスではないわよっ!! そこそこっ!!」


 マフリマーフほどの絶世の美少女とは言わないが、この後宮に入れる程度の外見は持っているつもりだ。四年前のように貧困故に手入れされていない身体というわけでもない。


(まぁ、胸は残念ながら育たなかったけどもっ!)


 やはり、葡萄を盗み食いしておけば良かったのかと軽い後悔を滲ませながら、きっ、と眉尻を持ち上げ監督長へと噛みついていく。一瞬、彼の立場が後宮の監督あり、寵愛を受ける側室よりも立場が上であることが過ったが、そもそももう自分は後宮の妾ではないのだ。


「安い娼館じゃあるまいし、この後宮で必要なのは外見ばっかりじゃないの。話術であったり教養であったり人柄であったりするのよ。そういうのを全てひっくるめたら、性格に難ありでアンタはブスでしょ!」

「う……ぐ……っ! でも、そもそもあたし、もう後宮の妾じゃないんだから、そんな基準に当て嵌められる謂れはないわよっ!!」


「――お前ら、うるっせぇ!!」


 時間が巻き戻ったのかと思うほどに、一字一句違わず怒声が青年から発せられた。ヒュマシャとカランフィルは、びくっとその肩を揺らすと、喉のすぐそこまで出ていた喧嘩の続きをごくりと呑み込む。

 ルトフィーは栗色の髪をがしがし、と乱暴に掻き乱すと、立てていた膝の中へとおもてを沈めながら、もういい加減聞き飽きたため息を再び零した。


「昨夜、あんま寝れてなくて寝不足だって言ってんだろ」

「いや、寝不足だったとか、いま初耳なんだけど」

「……お前はいい加減、察するという事を覚えるべきだと思うがな」

「……は??」


 横目で榛色がめつけてくるのを、少女はぱちくりと睫毛を羽ばたかせて受け止める。


  ――若い男女が同じ布団に入って「しなきゃいいだけ」じゃ済まないからな、普通は。


 そう言えば、昨夜、そんな事を言っていたが、それでも彼が自身を組み敷いたのは暗殺者であるかどうかを検めていただけだと言っていたではないか。


(あれ。もしかして、そうじゃなかった??)


 ――否。

 少なくとも、検査・・をしていた時の彼は、決して男性の欲で動いているような素振りはなかった。いくら経験がないとはいえ、そちら方面に特化した後宮へ上がるための教育を受けていた自分が、それに全く気付かないというのは考えられない。


「……何で、寝不足なの?」


 訝しげに訊ねる少女へと、青年の横顔が頬をぴくりと動かす。そして、「あのなぁ……」と呟くと、かくんと首の力を抜いた。

 額にかかった栗色の髪が、柔らかそうにさらっと揺れる。


「夜中にあんな騒ぎ起こされて、すんなりと眠れるわけがないだろ!? 寝入ったの、明け方だったっての!」


 寝具へと横たわるなり、すんなり寝入った騒ぎを起こした張本人は「なんかごめん」と寝所を共にした元皇帝の青年へ、謝罪の言葉を口にした。

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