1-7

 月明りが落とす窓の格子の影が、この部屋で目覚めた時と比べその角度を徐々に鋭くさせてきている。

 ヒュマシャが、ふ、と視線を周囲へ流すと、窓辺に小さな置時計が置かれており、時刻は既に日を変えてから一時間以上が経過していた。彼女のその視線に、目の前に座るルトフィーが気づいたのか、軽く瞼を上下させ、ヒュマシャの傍らに控えていたカランフィルへと目配せをする。


「あらやだ。もうこんな時間なのね」

「まぁそもそも望んでもいない夜這い仕掛けられた時点で、日付が変わろうとしてたからな」

「夜這い、って、あんたねぇ……! あたしだって、」


 こんなところ、好き好んで来たわけじゃない。

 そう言いかけた唇は、けれども音を紡ぐことなく言の葉を口内で一度転がし、そしてごくりと飲み込んだ。


  ――皇帝位についた人間以外の皇子は、例外なく全て殺されていた過去は知ってるか?

  ―-皇帝位につけなかった皇子は、どうなると思う? ここ――【黄金の鳥籠カフェス】に幽閉されるんだ。


 そう言って、自嘲に頬を歪ませた彼の声は、けれども何の温度もなかった。

 幼さを僅かに残すそのおもてに刺さる影の濃さと、闇に溶かすように呟かれた声色に、殺される事はないにせよここで幽閉され飼い殺しにされながら暮らす事が、彼にどういった心境をもたらす事になったのか、嫌でもわかってしまった。


(まぁだからって、人の事押し倒した挙げ句、話も聞かずにしでかした事を許す気はないけど……っ)


 まるで嫌いなものをうっかり飲み込んでしまったかのような気まずさを口内に溶かしたまま、ヒュマシャがちらりと睫毛の先を青年へと向けると、垂れ目がちな双眸と一瞬少女のそれが重なり合った。

 青年は少女の藍晶石カイヤナイトを受け止めると、鼻先に集めた笑いを一度弾きながら視線をゆっくりと逸らしていく。


「じゃあ陛……、じゃなかったわ。ルトフィー殿下。とりあえず、詳細は明日調べて報告するわ」

「あぁ」

「あ、そうだ。ヒュマシャ……、そのジャーリヤはどうします? いつものように、アタシが始末、しときます?」

「し、始末っ!?」


 聞き捨てならない発言に、先ほどまでの気まずさなど一瞬で忘れた唇が、驚きの声を上げた。

 確かに一昔前ならば、皇帝スルタン皇太后ヴァリデ・スルタンの機嫌を損ねた者、妾、側室イクバル同士の争いに敗れた者は、人知れずヒッポス海峡に生きたまま投げ込まれ、始末・・されてきたようだが、流石にこのご時世、そんな事はないと信じたい。


(でも、なんかさっきの言い分だと、この人を暗殺? するために、前にも妾が入り込んでたみたいだし……そうなると、その暗殺者は始末されたって事で……え、って、あたしも!?)


 確かに暗殺を目的として入り込んだような女を始末するのは、正当防衛に当たるのかもしれないが、ヒュマシャはそうではない。

 誰が、何の目的でここに投げ入れたのかは知らないが、いまここにいるのは完全に巻き込まれただけの事故である。


「ちょ、ちょっと待ってよ。あたしは暗殺者じゃないって! さっき、そこの監督長クズラル・アースゥさまが身元ちゃんと確認してくれたじゃないっ!」

「早とちりすんじゃないわよ、馬鹿娘。始末ってのはね、外に出すって事。外に出すための通路ってのが、あんのよ」

「……外に出す為?」


 後宮ハレムへの出入り口は、昨日ヒュマシャが入ってきた入口の他、皇帝の私生活の場である内廷からの門などいくつか出入り口が存在するが、その全てに監視の為の人間が割かれている。基本的に、皇帝からの許可がないとそこを通ることさえ許されない場所だったはずである。


「あ! もしかして、監督長さまがその許可を出してくれる……とか?」


 それでもヒュマシャの故郷は、内海のさらに向こう側にある半島だ。そこは過去の戦争により既にトゥルハン帝国の領土ではなくなっており、さらに言うならば属国の扱いでもなかった。

 版図が四年前と変わっていなければ、故郷であるルィム・ハン国は、北の大国・ルーシ大公国の支配下にあり、そもそもそこに至るまでの旅費があるわけでもない。放り出されるならば、せめて当面の生活費を貰いたいところである。


「ほんっと馬鹿娘ね。皇帝の持ち物である後宮の女たちを、アタシの一存で堂々と外出許可なんて出せるわけないでしょ」

「だって、今、外に出す為って……」

「『埋葬の門』って言ってね、死体を出すとき専用の外への直通路があんのよ」

「死体……って、やっぱあたし、始末されんの!?」

「するか、アホ。ジハンギルじゃあるまいし……」


 面倒くさそうに頭布ターバンの中に指を突っ込み、溜息をついたルトフィーが、「カランフィル」と、黒人の大男の名を呼んだ。


「この妾……ヒュマシャっつったか。こいつが何で鳥籠ここに突っ込まれたのかまだ不明な点も多いし、とりあえず特に危険性もなさそうだから、今夜は俺が預かる。お前は明日、調べて報告上げてくれ」

「はぁい。じゃあ、お気を付け遊ばして。殿下」


 そう言うと、カランフィルは踵を返し、ひらひらと手を振りながら部屋を後にする。パタン、と扉の閉まる音が、橙色に染まった部屋に響いた。

 残った余韻は静かに広まり、そして宙に薄まり消えていく。再び静寂の戻ったその室内で、コチ、コチ、コチ、コチと、置時計の秒針が進む音ばかりが刻まれていた。


「ジハンギルって、あの狂人デリって呼ばれてる……?」

「……あぁ、教本丸暗記だったな。知ってて当然か」

「そりゃあ……。六代前の、皇帝陛下だもん」


 ジハンギル、という名の皇帝が、かつてこのトゥルハン帝国にいた。

 彼はどうやら精神を病んでいたらしく、多淫に耽り、皇太子を虐待し、自身の後宮に住まう妾、側室、宦官たちを次々に麻袋へ詰めヒッポス海峡に沈めたらしい。皇帝でありながらついたあだ名が「狂人」で、結果的に、退位させられ弑されたという事だ。

 もしかして、彼が精神を病んだというのはこの【黄金の鳥籠】に入った経験があったからなのだろうか。


「俺を暗殺するために忍び込んできた妾の大半は、皇太后から無理やり強いられた何の力もない女たちだったからな。俺の暗殺に失敗しても、一旦鳥籠ここに入れられた以上、後宮には二度と戻れない。無理に戻したところで理由のない死体が後宮で出来上がるだけだ」

「……つまり、死んだ事にして、その……さっき言ってた『埋葬の門』だっけ? そこからこっそり出してたって事?」

「死体を出す通路なんざ、誰も好んで寄りつきゃしないしな」


 トゥルハン帝国の国教はコアーム教で、来世での復活の為に遺体は大切な依代であるとされている。とはいうものの、やはり亡くなった人間の身体を恐れるという本能はどうしたってあるだろう。

 ヒュマシャのそもそもの信仰宗教はトマシュ聖教であり、コアーム教と同じく遺体を復活の依代と考える宗派であったが、その気持ちは正直少しわかる気がする。


「で、後宮から出した後に、将軍やら高官に嫁がせる手筈をカランフィルが整えてたってわけだ」

「へぇ……、放り出して終わりじゃないんだ……」

「元より、売られてこの国に来た女たちだぞ。帰るアテなんて基本的にないだろ」


 お前も。

 真っすぐに視線を向けられ、垂れがちな双眸に捉えられた。出会った直後の出来事があまりに印象強かったせいで、なかなかそうは思えないのだが、このルトフィーという青年はその言葉の端々で、身分の低い者に対しての慈悲のような感情が見え隠れする。

 もしかしたらそれは、彼が皇帝位にあった事に起因する価値観なのかもしれない。

 ヒュマシャは彼の視線に一度、睫毛を羽ばたかせると、「まぁ……」と曖昧に頷いた。さら、と肩口で金の髪が一房零れ落ちる。


「じゃあ、あたしも……この後何も問題なければ、こっそりここから出されて、誰かに嫁ぐ事になるの?」

「実家がわかるなら、そっちに送ってもいいが」

「……はっきりとは、わからない……」

「じゃあ、恐らく高官の誰かに嫁ぐ事になるだろうな。でもまぁ、アレだ。お前みたいな跳ねっ返り、正直受け取り手が哀れだなとも思うけどな」

「跳ねっ返りって……! アンタ相手じゃなきゃ、もっと大人しくするわよっ」


 近くにあったヤストゥクに、ぼすっ、と拳を振り下ろすと、青年は「はは、そういうとこだろ」と頬の位置を高くした。元より童顔なだと思うが、こうして笑う様子は、恐らく実年齢よりもずっと幼く見えるのだろう。

 笑った目尻の皺に、それ以上見ていては心がざわっとする気がして、ヒュマシャは不貞腐れるフリをして視線を彼からぷいっ、と逸らした。


「まぁ、こうして話してても反応も悪くない。勘も良くて、頭の回転もなかなかだ。教本は丸暗記するほどだというのに、四年も後宮入りが出来ないなんざ、よっぽど内面に難ありってことだろ?」

「うぐ……」


 それは自分でも自覚があるだけに、言い返せないのがつらいところだ。


「まぁ、お前も来たくて来た場所じゃないんだろうが、カランフィルに一通り調べ終わらせたら、その後の心配ないように外に出してやる。だから、とりあえずもう休むぞ。いい加減眠くなってきた」


 語尾に欠伸を混ぜながらルトフィーは頭に無造作に巻いていた頭衣を解いた。シュル、という衣擦れの音と共に、青年の髪が現れる。少し癖のある、柔らかそうな短髪で、前髪が額に影を落としていた。


(陽の下で見たら、どんな色なんだろ……)


 ぼんやりと彼を見ていると、ルトフィーはそのままヒュマシャを気にする事なく立ち上がり、部屋の角に敷かれていた寝具へと足を向け始めた。あれほど「暗殺者などではない」と否定し大騒ぎしていた自分が思うのもどうかという話だが、もう自分への嫌疑とやらは晴れたのだろうか。


(ま。いっか)


 ヒュマシャは寝具の中に潜り込もうとするルトフィーに倣うように、ふわりと柔らかそうな彼の寝具へと近づいて行く。彼の歩いた軌跡をなぞるように進めば、ふわりと柑橘系の甘酸っぱいにおいが鼻腔を擽った。

 この後宮をはじめとするトゥルハン帝国の女性の中で人気の香りといえば、化粧品の薔薇水ローズウォーターなど薔薇である。ヒュマシャ自身、教育期間中に親しんだ香りであり嫌いではないが、それでもルトフィーの柑橘系の香水は、昔、青空の下で暮らしていた頃を思い出させるような、そんな爽やかなにおいだった。


(いいなぁ、この香水。好きだわ)


 足音さえも吸い込むほどの高級な絨毯を足裏に感じながら、少女は寝具側まで進んでいく。ミフリマーフガーリャの部屋にいた時の最後の記憶では、靴を脱ぎ、彼女に用意された寝具へと入り込んだはずだ。どうやらそのままここに投げ込まれたようで、現状、靴を履いていないままだった。


「じゃあ、お邪魔しまーす」


 幽閉場所とはいえ、皇族――どころか、元とはいえ皇帝位にいた青年のための寝具は、想像以上に豪勢だった。敷布団は、近隣諸国で使われていると言われる寝台ベッドなるものかと思うほどの厚みであり、その上に掛けられた布団は緻密な模様が織り込まれた布帛ふはくだった。

 その大きさも、成人男性が数人寝れるのではないかと思うほどに広い。

 これならば、自分が寝ても邪魔にはならないだろうと、ヒュマシャはぺろりとその掛布団を剥ぐと、するりと自身の身を中へと滑り込ませた。

 ――が。


「…………いやいやいやいや。どんだけ図々しいんだお前」


 既に寝具に横たわっていたルトフィーが、驚いたように僅かに上半身を起こし、少女へとおもてを向ける。その表情は、先ほど散々温度のないまま人の身体を検めていた人間とは思えないほど、驚愕の一言で埋め尽くされていた。


「……?? なに?」

「いや『なに?』じゃないだろ。こっちが訊きたいわ。何で、お前まで俺の布団に入ってくるんだ」

「え……?」


 そう言われ、きょろりと部屋へと視線を流すが、そこは元より敷かれていた絨毯の他、散らばった枕類に、数々の本。僅かな調度品と――そして、少女が先ほど巻かれていた絨毯が広げられているばかり。

 寝具と呼べるようなものは、彼のこの布団以外存在しなかった。


「いや、だってほかに、お布団ないし」

「いやだからって普通、俺の布団に当たり前の顔して入り込むか?」

「だから『お邪魔します』って言ったじゃない。じゃあ、あたしはどこで寝ればいいのよ?」

「……その辺で寝ればいいだろ。枕もあるし、さっきお前が包まってた絨毯に、その辺の織物掛けて寝とけ」

「はぁ? いま、何月だと思ってるの!? 十一月よ? 寒いじゃない!」


 先ほどまでは突然訪れた様々な事に驚き続けたせいで特に感じなかったが、思えばいまは冬の入り。トゥルハン帝国の首都・ケトロンポルスは、故郷のルィムに比べれば温暖ではあるものの、それでも流石に布団なしで夜寝るのは厳しい季節である。


「だからって俺の布団入ってくるのは、おかしいだろうが!」

「……あー、もしかしてあれ? 布団に入るなら、夜伽の作法とかちゃんとやるべきってこと??」


 アンタ、皇帝陛下だったもんね。

 そう納得してみると、「違う!」と噛みつくように青年が起き上がった。


「夜伽作法やったら、そのあと流れとして閨房でのアレコレになるだろ!?」

「まぁ、習ったのはそうだけど。でも、その後の流れをしなきゃいいだけじゃないの? ちゃんと夜伽作法がどこまでで、どこからが閨房芸の区分かは覚えてるし」

「……お前、ある意味箱入りっていうか、年頃になってから成人した男と触れ合う機会が全くないから知らんだろうが、若い男女が同じ布団に入って『しなきゃいいだけ』じゃ済まないからな、普通は」

「あぁ……さっきアンタに襲われたんだわ、あたし」

「……あれは検査だろ」


 お互い寝具に座り込みながら、どうにも噛みあわない会話を重ね合い――そして、呆れたのか、先にぷい、と視線を逸らしたのは前代皇帝だった青年の方だった。寝具の上に散らばしていたらしい長衣カフタンを掴むと、頭からかぶるように引っ掛け、布団の中に隠れるように入り込む。


「……はぁ……。もういいからお前も寝ろ」


 織物の下から、溜息混じりのくぐもったような声が聞えた。


「あの、そんな嫌ならあたし、布団出ようか? もしかしたら、アンタに布団出されたせいで風邪ひいたりするかもしれないけど」

「何だその脅し文句は」


 ふ、と笑いを孕ませた声に、ヒュマシャもふ、と唇に三日月を刷く。


「じゃ、お言葉に甘えまして」


 するりと寝具に潜り込み、ここ一日の疲れを布団の上へと投げ出した。

 ふわ、と鼻腔を擽るのは柑橘系のにおい。


「……薔薇くさい。後宮の、女のにおいだな」


 触れ合う事もないほどの距離で横に眠る青年の苦情めいた声に、「そりゃあ女だからね」と返すと、少女の意識はすぅ、とそのまま闇の中に吸い込まれた。

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