1-6
ステンドグラスから月明りの差す部屋に、いくつもの装飾ランプが灯っていた。
ぼぅ、とした橙色の灯りが、タイルの巡らされた部屋を暖かな色に染めている。よくよく見れば、ステンドグラスの下には格子のはめられた窓も並んでおり、ここを【
ミフリマーフの部屋同様に、室内をくるりと一周するように
彼女の部屋になかったものといえば、書見台の上に広げられた書物に、その他あちらこちらに積み重ねられ、散らばった書物。地図と
「で、カランフィル。そこの
「えぇ。今日……、あ、いえ。もう昨日ね。間違いなく、
「ふぅん。ヒュマシャ……」
自身の名を口の中で転がすように呟く青年から、何歩も離れた位置で平伏させられた少女は、その伏せた
互いに「なんだこいつ」という雰囲気で固まったままだったヒュマシャたちの許へ、切羽詰まった声がかけられたのは、つい先ほどのことだ。その甲高い声を合図に、青年が返事をしながら組み敷いていた少女からその身体を起こした。
ゆるゆると入口へと視線を流して行けば、そこにはこの後宮に入った直後に出会い案内を受けていた
(でも……)
ヒュマシャは自身よりも青年により近い位置で、頬に手を当てながら小首を可愛らしく傾げる彼の姿に半目になった瞼へと疑問符を貼り付ける。
「ちょうどこの娘を大部屋に案内しようとした時に、
「じゃあ明らかにお前の落ち度だろ」
「やぁだ。言われなくてもわかってるわよ。でも、流石にいくらアタシでも……ううん、むしろ
彼に初めて出会ったときに、宦官にしては、声が低く太いと思った。
自分の見知った教育係の宦官たちの多くが声が高い者が多かったせいで、監督長という立場上、威厳のためにそういった声を作っているのではないかと少し疑ったのだが。
(それどころじゃなかったというか……)
黒人宦官は去勢された南方出身者だが、シンボルをなくしたからといっても、「男」でなくなったというわけではない。後宮の管理という業務上、そして奴隷という身分上やむを得ず去勢手術を施しただけである。
が、このカランフィルという名の監督長は、外面も内面もともに女に近いらしい。
軽く唇をツン、と尖らせながら可愛らしく
彼は手に持った冊子を広げると、ペラペラとページを捲り出す。そして、「あった」と呟くと、そこに記されている文字を目で追い始めた。
「本名、ポリーナ・ナシノフスカヤ。ルィム・ハン国出身の、今年十六ね。十二歳の六月にトゥルハン帝国の後宮に入れるため、当時、妾の教育係だった黒人宦官・ガーセダクに千二百キルシュで買われているわ」
「十二から? だとしたら、随分、教育時間が長くないか?」
「さぁ……ここに連れてきた者の話では、まだ幼かったからって話ですけど。実際、それより幼く買われて後宮入りする妾も多いですからね。大方、覚えが悪かったとか素行が悪かったとか、そういう理由じゃないですかねぇ」
小馬鹿にするように鼻先で笑われ、ヒュマシャの眉間は皺を刻む。
元々貧乏暮らしの雇われ農奴の家出身であり、物心ついた時には領主の家で働かされていた。教養なんてシロモノとは縁遠い生活をしていたが、それでも生来勘に優れ、頭もさほど悪くはなかった。
教育係の望む水準の芸事や知識を得るのは、そう時間はかからなかったと思う。
けれど。
「まぁ、その間に皇太后さま達から密命を受けた可能性ってのは、否定は出来ませんが……。でもこの娘が帝国での教育を受けている間に、皇太后さまの地位が脅かされる事態は一度としてありませんでしたし。この娘の証言には、概ね嘘はないかと思いますわよ」
「なるほどな。ったく、無駄な時間取らせられたもんだ」
はぁ、とうんざりしたような青年の溜息に、ヒュマシャの眉がぴく、と動いた。
彼がどこの高貴なご身分のどちらさまかは知らないが、なるほど、何故か皇太后たちから命を狙われたりするような身の上らしい。突然夜中に館へ侵入してきた娘に対し、暗殺の警戒をするのもわからなくもない。
――が。
「……だっから、最初っからあたしはちゃんと言ってたじゃない! それを、全く信じなかったのどこのどいつだってぇの……っ!」
あれほど、待てと。
話を聞いてくれと頼んでいたのに、あろうことか勝手に身体を検め始めたのはどこのどいつだったのか。
ヒュマシャは
もっとも、少女がなかなか後宮入り出来なかった理由が、恐らくこういった見せかけだけの従順ささえ取り繕う事の出来ない辺りにあるのだろう。
「コラ、小娘。アンタ、自分がどういう立場にいるかわかってるの? ちょっと弁えなさいよね」
頭上に影が落ちてきて、ふっと見上げてみればそこには
「はぁい。じゃあとりあえず、表じゃ
「……っ、ぶは……っ!」
真っすぐにカランフィルを見つめて訊ねてみれば、その後方で身体を長椅子に預けていた青年が、口を抑えながら堪えきれないように噴き出した。
「おいカランフィル。気を付けないと、その女、あの状況下でまったく悪びれようとする素振りすら見せないくらいくらい、気が強いからな」
「な……っ!? そんなの、当たり前でしょ! 大体あたし、なにも悪くないし……っ!」
後宮に入り、古い知己から部屋に呼ばれ、気づいた時にはここに投げ入れられていたのだ。その後、あれよあれよという間に押し倒され、勝手に身体を調べられたのだから、むしろ言うならば被害者である。
ギシ、と音を立て、青年が立ち上がる。頭におざなり程度に巻かれた
橙の灯りに照らされた暗い色の髪が、青年の額の上でさらりと揺れる。ヒュマシャの目の前まで歩を進めた彼は、その場で「よっこらせ」と腰を落とすと後ろ手に腕をついた。
ふわ、と少女の鼻腔に、柑橘系の甘酸っぱいにおいが届く。
一応先ほど控えろと言われたので、平伏の体勢をとっていたが、彼がこの調子ならばこちらだけ畏まるのも馬鹿らしい。ほぼ真正面に座りこんだ青年へと睫毛の先を向けると、やや垂れ目がちな彼の双眸と、少女の
しばらく彼の様子を見ていたが、許可も得ずに
「で、そもそも、ここは一体何処なの? 【
「お前、本当に知らないのか?」
「知らないわよ。なに? ここって、そんな有名なところなの?」
「……まぁ、妾は
「な、なによ……? 教本には、そんな事書かれたページはなかったわよ……? 四年間、みっちり読み込んだあたしが言うんだから、間違いないわ」
トゥルハン語の読み書きに、トゥルハン帝国の歴史、料理に刺繍、裁縫、踊りに楽器の演奏、吟詠、閨の作法からその手管に至るまで、ありとあらゆる教養を身に着けるための教本があったが、そのどこにも【黄金の鳥籠】とやらの記述はなかった。
恐らく、後宮入りしたばかりの妾は、大部屋に連れて行かれる前に監督長に宮殿内を案内され、色々な説明を受けるはずだったのだろう。その中に、もしかしたらこの館の説明もあったのかもしれないが、如何せんヒュマシャはミフリマーフによって部屋に連行されてしまったために、この後宮の全体的な構造さえ理解していないのだ。
「お前、」
「あたし、『お前』って名前じゃないんだけど。そこの監督長に、ヒュマシャって名前を与えられたわ」
「……そうかよ。じゃあ、ヒュマシャ。お前、四年も教育受けてるならこのトゥルハンの歴史や成り立ち、制度なんかもそれなりに理解してるんだろ?」
「もちろんよ。あまりに読み過ぎたせいで、二年目以降は、教本丸暗記してたわ」
「有能なんだかそうじゃないんだか、判断に迷うところだな……。まぁいい。じゃあ、この国では皇帝位についた人間以外の皇子は、例外なく全て殺されていた過去は知ってるか?」
「……昔は、そういう事があったって聞いたけど……」
それ以外にも、二百年ほど前まではいまほど人間――特に奴隷階級の者たちの価値などないのが当たり前であり、後宮でも邪魔な妾がいたのならヒッポス海峡に麻布に包んでドボン、なんて話があったらしい。
「そう。昔は、そうだった。じゃあ、今は殺されなくなった皇子たちは、どこに置かれると思う? 絶対的な専制君主国であるこのトゥルハンで、皇帝位につけなかった皇子は、どうなると思う?」
「どうって……、え、もしかして……」
少女の藍晶石が、ゆるゆると青年から離れて行き、周囲のタイルの壁へと這わされる。
繊細なステンドグラスが月明りに透ける部屋。
緻密な模様が描かれたタイルは、四方を埋め尽くしており、陽の下で見たのならばどれほど美しいのだろうか。
床に敷かれている絨毯も、長椅子に乱雑に置かれた枕も。
その全てが、きっと最高級のもの。
いまをときめく、皇帝のお気に入りの側室であるミフリマーフの調度と同程度に、高価なもの。
「御明察」
軽く顎を持ち上げ、煽るような視線を投げかけてくる青年の唇が、三日月を描いた。
「ここ――【黄金の鳥籠】に幽閉されるんだ」
「……っ」
ヒュマシャは息を呑み、周囲へと向けていた意識を改めて目の前の青年へと戻す。ランプを灯す部屋では正確な色合いはわからないが、暗い色合いの髪はやや癖があり、柔らかそうに額の中ほどで影を落としていた。垂れ目がちな双眸は、橙の灯りに光を弾く事からさほど濃い色ではないだろう。
襟詰めの
ゆったりとした長衣も、髪を適当に隠す頭布も、彼の話す言語さえも、全てトゥルハン様式のものであるが、外見的な印象はトゥルハン帝国の市民に多い顔立ちではなく、西方や北方の人間の特徴に近いようにも思う。
出会い方が出会い方だったために、ろくにそんなところまで意識が回らなかったが、俗な言い方をするのならば、「かっこいい」と呼べる、そんな顔立ちだろう。
(故郷にいた頃なら、ガーリャの取り巻きたちがお熱になってそうね)
隠すつもりのない秋波を、黄色い声呼ぶ名と共に送ってそうだ。
――……ルトフィーさま……っ!
不意に、先ほどカランフィルが入って来たときに呼んだ名が、脳裡で再び蘇る。
「え。ちょ……、さっき、ル、ト……フィーって……」
暗記するほど読み込んだトゥルハン帝国史の教本に書かれていた、皇帝の名。
そして――。
「あぁ。さっき、そう言えばカランフィルが呼んだの聞こえていたのか」
「え……、っていうか、ルトフィーって……」
「そうだ」
ふ、と鼻先で作られた笑いが、橙色に染まる部屋に響く。
「その母である皇太后や宰相、
歪んだ笑みを刷いた唇が紡いだ言の葉は、他人事のように冷めていて、それを吐き捨てるほどには嫌悪している事がありありとわかる、そんな声音だった。
「……偉そうだと思ってたけど、本当に偉い人……、だったんだ……」
こちらの事情も聞かずに物事を進めようとしたりだとか。
そもそも、如何にヒュマシャが女奴隷の立場とはいえ、全ての言動が上から目線で自尊心が高そうなところだとか。
そう思う理由は山ほどあったが、まさか本当に至上の立場にいた人だったとは――。
ヒュマシャが心のままに、ぽつり、と落としたその本音に、自嘲するかのようにその整った
「お前、昨日今日、後宮入りしたばっかりの
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