57-風に流して
ましろだと思うけど、少し悲しそうな声。しかたないかな。
「ましろ?」
「うん」
彼女は、椅子に座ってる僕の膝の上に、アタリマエのようにのってきて座る。
僕はそんな彼女の頭を優しく撫でる。23歳の身体の中は5歳のましろ。
「ましろ、こんな事になってしまって、ごめんね。」
「うん……、だから いまは おかあさんよりも ましろのほうが いいかなって おもって かわったの。」
「そうか、ましろは優しいね。」
綺麗な長い髪を撫でながら話続ける。
「でも、最後の夜になるかもしれないからこそ、涼音と一緒にいるべきだと思うんだ。」
「お互いに辛いだろうけど、これは二人が逃げちゃいけない事だから、二人への罰みたいなものかな。」
「父さんらしいね。お父さんって、そういうとこあるよね。」
彼女は僕の膝から降り立っていた。この声は、たぶん涼音だと思う。
「うん、いろんなことから、すぐに逃げちゃダメなんだ。すぐに他の人格に頼っちゃダメなんだ。自分でしっかり受け止めなきゃならない事もあるんだ。」
これは僕が彼女に一番言いたかった事、そして涼音が悩む多重人格に対する一つの答え。
深夜
二人はベットに移動していた。僕達はここ数ヶ月の思い出を、ベットで語り合った。それが『お父さん大好き涼音』なのか『お父さんいらない涼音』なのかよくわからない、雰囲気的には前者寄りだったと思うけどね。
「……それでさ、ナンパ男とカラオケ行って、お口でしてきたって。それを聞かされた僕の気持ちってわかる?」
「えーー!!そんな事あったの? 私全然覚えてないよー。」
「確かに、携帯に知らない連絡先とか増えてる事はあったけどさ……。」
涼音は嘘はつかない、嘘ついて良いような事まで嘘をつかないで、正直に話してしまう。だからこの事は今の涼音にとっては真実なのだろう。
「なーんだ、じゃ、あれは美雪あたりが、やらかした事だったのかな。」
「そうかもね。」
「ほんと、いろいろ大変だよね、多重人格。」
「うん。」
「失敗しないように、これからも人格達とうまくやっていけよ。」
「うん。そーする!」
ナンパ男事件は、今のこの涼音じゃなかったのか……。僕は涼音に比べたら嘘つきだね。ナンパ男の件を僕に言ったのは美雪じゃないのは判っている。美雪の声や口調は区別がつくからね。
涼音は本当にボーダレスに解離人格が切り替わっていたんだなって今更ながら思った。そしてそれらは、限りなく鈴音なのだけど、記憶などが微妙に異なっていたりする。いや、逆かもしれないね。鈴音という固定された人格の中で、アクセスしたりブロックしたりする記憶や感情が切り替わるだけかもしれない。
何度かの選択的な記憶喪失、記憶的に特殊な存在のピュア、そして記憶を管理する人格の刻美を見てきた僕にとって、そうしたことは、今更驚くような事ではない。
この夜の涼音は、どんな涼音だったのだろう?
少なくとも『別れ』は受け入れてる前提での会話だった。
この約半年間いろいろあった。
二人にとっての半年間……、
大変だったこと、辛かったこと、苦しかったこと、
悩んだこと、切なかったこと、悲しんだこと、
面白かったこと、楽しかったこと、嬉しかったこと、
お互いに大切だったこと、大好きだったこと……。
全てを思い出(過去)にすると決めたからこそ、二人はその全てを分け隔てなく楽しく語り合う事ができていた。辛かったことすら、二人は笑いとばしていた。
涼音は知っている。『僕が涼音を好きで、大切にしてきたこと』
僕は知っている。『彼女の中には、僕を大好きな涼音がいること』
決して嫌な喧嘩とかしたわけじゃない。
別の異性に心奪われたわけじゃない。
ティアが戻らなくても僕たちは窒息してた。だからこの別れをティアのせいにはしない。ティアの持っていたものは、人として大切なことだから。そしてティアはドロップと融合したから、極端すぎたバランスも少しは緩和されるだろう。それは、僕達がこうして穏やかに別れられる事が証明している気がする。
嫌な別れ方にならなくて良かった。
二人は、それぞれ自分の為に離れていく。
この選択が、お互いをこの先も破滅させない為のものだと思いたい。
少なくとも、彼女は僕のせいで『同一性』が壊れかけていた。
僕達の最後の穏やかな時間……。
二人は愛し合って眠りについた。
翌朝
昨日に引き続きバカみたいに暑い日になるに違いない。南側の真っ白なすりガラスは、キラキラと輝いている。
僕と涼音は暑さで目を覚ましていた。
朝からずっといたのは『僕を必要としない涼音』だったと思う。
僕としては最後まで逃げずに、『僕を大好きな涼音』でいて欲しかったのだけれどね。まぁ、しかたないかな。
それでも、僕は彼女と朝のお茶を飲んでいた。差し障りのない会話。それに明確な距離感を感じながら……。
そして、部屋に置きっぱなしだった私物……、といっても着替えとか洗面用具くらいだけど、それらを片づける。
僕の帰り支度がすっかり終わった頃、ましろが出て来た。
「ましろ、髪の毛を綺麗にしてあげるよ。」
「うん!」
床のクッションに座り背中を向ける彼女(ましろ)。いつものブラッシングの定位置だね。僕は彼女の長い綺麗な髪を、いつも以上に丁寧にブラッシングしていた。こんな時でも、ましろを本当の娘のように思える。……これからもね。
「ましろ、約束だよ。この先、誰も切り刻んじゃいけないよ。」
「うん。」
「それからね、この先、涼音に新しく好きな人ができても、邪魔しちゃだめだよ。」
「うん ましろ じゃましないよ。」
僕には予感があった。ましろは僕の為に転生してきたようなもの。ましろ転生当時の『涼音の僕への想い』がましろの中には詰まっている。僕と別れた後は、ましろには存在理由がなくなる。きっと、ましろは静かに消滅していくのだろうと思っていた。
髪のブラッシングを終えて、くしを通して仕上げる。とっても綺麗に仕上がったと思う。
僕は彼女(ましろ)の真正面に座り直した。
「ましろ、今まで本当にありがとう、ましろ、大好きだよ。」
「うん……、わたしも おとうさん だいすき。」
抱きついてきた彼女をそのまま抱きしめて、頭を優しく撫でた。
「ましろや、中の人達(別人格)事を絶対に忘れないよ。」
「ましろも、おとうさんのこと ずっとだいすき わすれないの。」
僕は彼女(ましろ)と唇を重ねた。
……娘だとか設定年齢なんか考えていない。
ましろを、大切な人間と思ったからキスをしていた。
「じゃあね ましろ。 さようなら。」
力いっぱい彼女を抱きしめた……。
最後には、また『僕を必要としない涼音』になっていたと思う。
……そうだね、お別れは昨夜済んでいるからね、それでいいよね。
僕は彼女に何も声をかけずに、荷物を持って玄関ドアへ向かう。
後ろから彼女がついてくる気配は感じていた。
僕は一度も振り返る事なく靴を履いて、ドアを開けて、……そしてドアを閉じた。閉じたドアからは、すぐにロックをする音が聞こえて来た。やはり彼女は僕の後をついてきてたのだと、その時になって認識していた。
ギラつく夏の終わりの強い日差しの中で、僕は生米の駅付近で2時間くらい過ごしていた。この街の住民といっても問題ないくらいに、僕はこの街の事を知っていた。この街も好きだった。もう来ることもないかと思うと、少しでも街の空気を感じていたかったのだ。
11時くらいに涼音の部屋を出たのに、僕が家の近くの都宮駅についたのは16時頃だった。
僕は帰りの電車の中で、彼女に最後の最後に「さよなら」を言ってなかったことを悔やんでいた。やっぱり、最後の言葉って大切だよね。
駅のホームから涼音に電話をする。
「今、戻ったよ。」
「え!どこに?」
少しその声は嬉しそうで、期待に満ちた声だった。たぶん僕がま涼音の近くにいることを期待したのだろう。帰宅するとか言って、途中から引き返した事が何度かあったしね。
「都宮の駅だよ。今ついたところ。」
「そっか……。」
やっぱり僕の勘違いじゃなかったのだと思う。彼女の声は途端に沈んでいた。
ごめんね、僕の言い方が悪かったんだね。
「ましろには部屋出る前にお別れ言ってきたけど、涼音にはちゃんと言ってなかったなって思ってさ。電話かけちゃったんだ。」
「やっぱり最後は言葉で伝えるべきだよね。」
「うん。」
「涼音……。今まで本当に、いろいろありがとう。 楽しかったよ。」
「ううん、私こそ今までいろいろ助けてもらってありがとう。」
「涼音はそのままでいいから……、そのままでいいから、しっかり生きろよ!!」
「うん!!」
「じゃあな! さようなら。」
「ありがとう、さようなら。」
電話を切った。
その瞬間、左腕に何かが触れるのを感じた。
腕を見ると、1本の髪の毛が半袖で露出している左腕にからみついてきていた。
指でつまんで髪の毛を伸ばしてみると、とっても長い髪の毛だった。
たぶん涼音の髪の毛だね。衣服か何かの荷物についていた髪の毛が、電話機を取り出した時か、ホームの風で僕の腕に絡んできたのだろうな。
……どうして、このタイミングで僕の腕に絡んでくるかな、おまえ(涼音の髪の毛)は……。
それも、何度も涼音の手を引いてきた左腕に……。
それとも、これも涼音の不思議な力なのか?
僕は指でつまんだ長い髪の毛を、ホームを吹き抜ける風に流した。
『 ばいばい 涼音 』
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