54-樹の窒息

 自宅マンションのベランダに置いてある安っぽい折り畳みの椅子に座って空を眺める。


 空……、雲を眺めるのは好きだ。


 雲の形や状態を見て、空の空気の流れを想像するのが楽しい。

 面白い雲の形や配置を見かけては、あそこではどんな気流があるのだろうと想像する。


 気流は肉眼では見えないもの。雲という小さい水滴の出現と、その集合が作り出す雲の形から見えない気流の存在が見えて来る。少しでも不思議な(理解を超える)雲を見つけると、どういう気流や条件があればその雲が出現するのかネットで調べたりする。

 おかげで、最近では雲を見て大雑把な短期天気予報ができるようになっていた。


 僕の『原理や構造が判らないと気持ち悪い』という病的な感覚は、道具や機械に限らず、この世界の全ての事に及ぶ。……だから、僕はいつも気の向くままに自分の好奇心を満たす為に知識を習得して、それらを組み合わせて考える事をやめない。


 涼音の多重人格のことにしてもそうだ。

 それは目で見ただけで理解できるものではない。でも見えない気流によって雲が作られるように、実際に起きた事象から、見えない何かがどうなっているのかを想像することができる。

 僕はいろいろな情報を集めて、時に専門家に質問をしたりして、そして自分で考え続けてきた。それが全て正しいという保証はないけれども、それはそれで良いと思ってる。僕は考え続ける事をやめないから。いつか間違いにも気付くかもしれないのだから。いつだって過程なんだ、生きているのだから。


 そして考え続けた末に、僕は僕にとって望んではいなかった答えに辿り着いてしまっている。


『僕を好きな涼音は本流ではない』





 僕は世間体ばかり気にする両親の元に生まれた。


 姉と妹に挟まれて育ったせいかな、女性に夢なんか見れなかったけど女性の友達は多かったし、大人になって女性と過ごしても自然体でいられた。これは姉妹のせいかもしれない。後で女性友達に聞いた話では、僕は『超安全パイ』と言われていたらしい。二人っきりで何日過ごしても全く何もしてこないし、男性を感じなかったのだとか。

 実際に週末には、ある女友達のところに泊まり込む生活を2年くらい続けたことがあるが、何もなかったし、元妻はその女性の友達だった。元妻との付き合いを機にそうした生活からは足を洗ったのだけれど、周囲の人が僕達に友達以上の関係を疑っていたのはわかる。

 付き合った女性は何人かいたけど、昔から僕の恋愛観は壊れていたのかもしれない。


 世間体ばかり気にする親の元、たぶん学生時代は地域でも名前が知られるくらいの優等生だった。クラス委員とか生徒会役員なんてもの何度もやってきてる。良い意味での職員室や壇上の常連。

 今ならわかる、これはアダルトチルドレンの早期自立だったのだろう。


 高校生になる頃にはかなり捻くれた思考を根本に持ち、良い子ちゃんを演じていただけだった。その頃になると社会の裏表、そして自分の裏表が見えてしまっていたから。自分が自分というキャラを演じてるだけという感覚があった。


 大学は首都圏の大学を適当に選んでいた。理由は家を出たかっただけ。

 そして、僕がよく散歩に行っていた公園で元外交官通訳のお婆さんと仲良くなり、よくお婆さんのボロい家に遊びに行って、大学の講義より有意義な話を聞きに入り浸ったりもしていた。そこで外交の裏話もさんざん聞かされて、ますます社会不信が育ったのだけどね。……都内でも屈指の高級住宅地に立つ婆さんのボロい家に、時々黒塗りの高級国産車が止まっていたのは興味深い。ほんとうにあの婆さん、どんな立場の人だったのだろう。


 大学の時に付き合っていた年上の作曲家は、聞けば誰でも知ってるようなアーティストのゴーストライターをしていたし。「あいつら、シンガーソングライターって言ってるけど、三拍子と四拍子の区別もつかないのよ。」など、もし一般にばれたら社会的炎上と関係者から裁判起こされそうな話ばかり聞いてきた。僕が知ってる時点で彼女は守秘義務を犯してるわけだけれど。……どうして僕はこう社会の裏側に触れてしまうのでしょうね。


 僕が本格的に壊れたのは就職してからだった。


 IT系ブラック企業ですりつぶされたのだ……。

 その時にODで一度死んでいる……、バカだねODでなんか簡単に死ねないのにね。実際良いところまで行ったんだけどなー。


 そんな時に唯一僕を支えてくれた女性と式も挙げずに結婚し、仕事も運良く独立させていた。


 その頃に僕はそれまでの友人を皆切っていった。だって裏表が見えてさ、誰も信じられなかったのと、命を絶つ時に一番障害になるのは人間関係や社会との繋がりだと判ったから。仕事を独立させた理由もコレであると知ったら驚くかな。独立してれば仕事上の社会との繋がりを自分でコントロールできるからね。


 それからは、僕は終わりを待つだけの人間になった。ただ一人僕を優しく包んでくれた彼女(妻)の為にだけ生きようと思っていた。だが、彼女は健全過ぎた……。本気で心配してくれるのはわかる。……それが彼女の限界だった。


 一度だけ、勇気を出して自分の心の闇を打ち明けた事がある。でも彼女はただ泣くだけだった。あー彼女には理解できないだなって思えた。たぶん『可哀想』止まり。

 彼女は普通に幸せで、普通に素敵な女性すぎたのだ。心の闇なんて想像もできなかったのだろう。

 それ以来僕は自分の心を封印して誰にも明かさず生きてきた。……ただ生きてるだけ。たぶん自分は半分死んでいる。もう自死はしない、そんなことしなくてもいつか終わるのだから。最後まで普通の人を演じ切るだけ。


 そしてついに離婚……たぶん彼女は僕なんかと一緒にいるより幸せな道があるだろう。いや、それは嘘だ……自分が窒息してしまっただけ。


 僕は自分を不幸だとも思うけど、同時に幸福だとも思っている。

 だって、それは気付きなのだから……。


 そういえば最近そんなアニメ見たばかりだった。「とっくに幸だったんだ」て気付いたその直後に愛する人の為に命を投げうって助けるなんてやつ。あんな風に終われたらいいなと思えた。

 いや、大切な人なんていないから誰でも良かったのかもしれない。心から助けたいと思える人がいたら、その人の為に死力を尽くしてもいいかななんてね。……本当に死んでしまってもいいなって。


 ……自分の為に生きれない欠陥品、依存体質、壊れてる僕。


 そんな時に涼音に出会ってしまったんだよね。

 最初は好奇心だったけれど、目の前に救いたい存在がいるなら全力で行動する。


 涼音自身が言っていた。

「私だったら、こんな面倒な女、絶対付き合いきれないわ。お父さん、よくこんなポンコツ娘から逃げ出さないね。」

 その通りだと思う。彼女への対応は大変だったと思う。でもそんなモノが苦になる筈がない、僕は自分を壊しても彼女を助けようとしていたのだから。……自分が壊れる事を望んでいたのかもしれないのだから。


 ……そうか、やっぱり恋愛じゃなくて僕が生きる為の、僕が消える為の依存だったのかな。


 でも僕は弱虫だった。

 彼女の行動や思考パターンから見えたリスクを恐れて、彼女の元へ全てを投げうって飛び込む事ができないでいたのだ。そしてそのリスクの一つが今動き出している。


 彼女には初めに言ったんだけどね、「僕は鏡だから、僕を必要だと思えばいるし、僕がいらないなら、いなくなる」ってね。

 今、『僕を必要とする涼音』と『僕を必要としない涼音』が存在している。

 僕はどちらの涼音を映す鏡になればいいのだろう。




 夕方の空は、秒単位でダイナミックに変化して面白い。

 実際には空でダイナミックな現象が起きてるわけではなく、低くなって尚沈み続ける太陽の光が差し込む角度の微妙な変化は、その光にあたる物をダイナミックに演出する効果があるのだ。

 同じ空でも光の当たり方次第でこんなに変化していく。趣味で写真を撮ってる人が朝夕を好むのは、この斜光が見せてくれるダイナミックな陰影のコントラストに惹かれるのだろうし、写真や絵でライティングを意識してるなら常識的な事でもある。




 そろそろかなと思っていると、彼女から定期メッセージが届く。


――――――――――

生米19:50着予定

うどん食べてる

――――――――――


 さて、お父さんの始まりだね。

 僕はすっかり暗くなったベランダから部屋に戻り、遮光カーテンを閉めて部屋に灯りをともしていた。


 やはり以前の職場でのストレスは大きなものだったのだろう、最近は職場で落ち(眠った)という話は全く聞かなくなっていた。……良い事なのだろうけどね。


「おつかれさまー!」

「ただいまー!」

 生米に着いた涼音と音声チャットを接続すると、元気な声が聞こえてくる。

 少し息を切らして、カツカツと元気に歩く足音をマイクが拾っていた。


「私さー、うどん屋さんに顔覚えられたみたい。」

「毎日のように行ってるからだろ?」


 平日の僕がいない時の涼音は、ほぼ毎日外食している。

 意外にも牛丼とかうどんが好きなのが面白いけどね。余談だけれども、ゴスロリファッションの時はどちらも行かないらしい。ファッションが生活スタイルにまで影響を及ぼすってことですね。


「おかしいなー、私は目立たないようにひっそり生きているのにさ。」

「ナンパされる常連の何処が目立ってないと思ったんだ?」

「それは私服(ゴスロリ)で出かけた時よ、仕事行く時は埋もれてる筈なんだけどな。」

「小さい女の子が一人で毎日うどん屋に行くのが珍しいのでは?」

「小さい言うなー!!」

「ハイハイ、可愛いから覚えられたんでしょう。」

「エヘヘヘ」

 ドヤ顔が目に浮かぶようだ。


 確かに小さい可愛い女性が常連化していれば、覚えられるかもしれないね。それにたぶんいつも同じメニュー頼んでいる気がするしね。……肉うどんだろう。実際に覚えられたって思った理由を聞いてみたら、注文しなくても作ってくれるって事だったからお察しの通りである。


 元気に歩く靴音、この雑踏の音は……。

「そろそろ羽尾ラーメンかな?」

「うそー!!何でわかるよの!!、気持ち悪い!!」

「だから、それくらい判るっていつも言ってるだろうが!」

 これも、ほぼ毎日にように繰り返される定番のやりとり。……たまに外すんだけどね。


 間もなく音の反響具合が変わる、マンションに到着したようだ。

 エレベーターの音、通路を歩く音、そしてドアを開ける音。


「おかえりなさい、おつかれさまー!!」

「ただいまー 疲れたよーー!!」


 ドサッっと荷物を置く音が聞こえる。


「じゃ、一度切るからまたねー!」

「うん、早くしないと娘、寝ちゃうからね!また後でね。」


 こんな感じで、日課になっているお迎え音声チャット終了。


 この後、僕は席を立って夕飯を作り始める。

 一人暮らしの自分飯なんて簡単なもの、有り合わせの食材と賞味期限を見ながらささっと作って一気に食べてしまう。


 食後には仕事部屋(スタジオ)という名前の趣味の部屋で、お気に入りの椅子に身体を沈めて紅茶と音楽を楽しむ。音声チャットしてるとボリューム上げれないから、最近では貴重な時間。

 音楽はある意味時間を消費する趣味なので、時間が経つのがあっという間。音楽を時短で楽しめたら大発明のような気がする。それこそ一瞬に記憶させて脳内再生できるようなものとかね。涼音ならそのままできそうな気がするね。


 時計を見ると9時半。……そろそろかな。

 涼音へ音声チャットを接続する。



「おまたせー!」

「おとーさん遅い!! 娘グレるよ!」

 これも、いつものご挨拶。

 その日の出来事や仕事の愚痴などを少し話すと「眠くなってきた」と言い出してくる。さあ、今日もう眠り姫の始まりだね。


「寝るなら回線切ろうか?」

「ぶー!ダメ!!このまま!!」

 いつものように、簡単に却下される。

 結局、彼女の寝息を聞きながら、長い時間を過ごす事になる。

 音がする音楽とか動画とかを再生してると、突然起きだして

「そういう音聞きたいんじゃないの!」って苦情言ってくる始末。本当に寝てるのか起きてるのかよくかわらない。

 

 ……それでも、これは僕を求めている涼音なのだろうけどね。


 0時頃。

「涼音ぇー起きろー0時だよ。」

「うん……」


 スヤスヤ……


「ほら起きろって!!お風呂の時間だよ!」

「うーん、わかったぁ~」


 いつものように無駄に抵抗しながら目覚めた涼音と、タイミングを同じくしてお風呂に入る。

 この時はお互い音をミュートにして、音声チャット回線は接続したまま。回線を切らないのは、もちろん涼音のリクエストからだった。お互いに、通話準備ができたら声をかけあうルールがいつの間にか出来上がっていた。



 お互い髪を乾かして、1時間後くらいに通話が再開する。

 だが、話が弾むわけでもなく……、やっぱり彼女は半分眠り姫。


「眠いなら、回線切ってちゃんと寝た方がいいよ。」

「ぶー!!ダメ!! さっきまで眠っていたから寝たくないもん!!」

 と言いつつも、数分後にはまた寝息が聞こえてくる。


 本当に最近の彼女は眠り姫……。イラストの仕事大丈夫なのだろうか?

 その分、昼間のお仕事は落ちる(寝る)こともなく、しっかりやっているから良いのだけれど。


 そして2時を過ぎた頃から、全く反応が無くなる。完全に眠りに落ちたのだろう。本当に何のために接続してるのだろう?……お互いを感じるという感覚はわかるけれどね。


 この頃になると、僕も少しボリュームをあげて音楽を聴いたり、動画を見たりする。……苦情が来ないからね。僕にとって貴重な時間帯。


 そして3時~3時半くらいになると、記憶の断片が覚醒して、彼女の過去と話す事になり。4時頃にはその会話も終わり、やっと回線を切ることになる。


 他の人格達は涼音の止められているのか、僕が呼ばない限り滅多に出てこない。

 変なモノや知らない人格の出現やショック落ちもほぼ無くなりつつある。これはある意味、今の彼女は安定してるという事なのかもしれないのだが……。


 僕が都宮の自宅にいる時は、ずっとこんな感じの二人だった。


 こんな状態に僕を繋ぎとめているのは何だろう。

 苦しい……。僕は窒息していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る