45-最悪のまき戻し

 間接照明に照らされる薄暗いこの場所で、何杯の紅茶を飲んだだろう。

 静寂の中と暗闇の中で僕は再び不安に飲み込まれそうになっていた。

 涼音の端末から送られて来た『我が主、さようなら』の文字を何度も見返している。所詮は無機質な機械、その文字は見た以上に何も変化しないし、それ以上のことは何も教えてくれない。

 たぶん、琴音が発信書いたのだと思うのだけれど……。



5時を少し回った頃だった。


「んん……、うんん……。」

 彼女の声が聞こえてきた。


「涼音!涼音!」

「……うん……、お父さん……。」

「涼音だろ?おかえり!」

「うん、……何時?」

「5時過ぎたところだよ。」


 眠そうな声だっだけど、それは間違いなく涼音だった。……やっと僕の長い夜が終わった。

 早速記憶を確認すると、昨日までの事はちゃんと覚えていた。うん昨日までの涼音だ。昨日は牛丼屋を出てから今まで記憶がないという。


 琴音の言った通りに、涼音は普通に目が覚めてくれた。

 それならば琴音はどうなったのだろう?


 いつものように、昨日から今までのことを彼女に説明した。

 彼女にとっては、今までのショック落ちとか別人格交代と大差ない感覚だったらしく、僕の気持ちも知らずに普通にその説明を聞いていたように思う。


 それから、最近になく何か頭がスッキリ、クリアになったような気がするという。

 詳しく聞いてみると、最近ずっと感じていたバグとかウイルスのようなモノが感じられない、……居なくなった気がするらしい。

 その話を聞いて、僕は琴音がやってくれたのだと思った。


 実は、涼音は琴音のことを認識してない。

 琴音には「私のことは涼音には言わないで。」と口止めされていた。

 ……だけど、僕は琴音のことを涼音に伝えずにはいられなかった。

 琴音が自らを犠牲にして、バグとかウイルスを片づけてくれたのだろうから……。

 彼女が送ってきた『我が主、さようなら』のメッセージと共に琴音のことを涼音に教えた。


 涼音が何か見つけたらしい。

「ねっ、お父さん!、あのね……、今何か出てきたの。」

「なんかね……、すごく小さいの。」

「……でも悪いモノじゃない気がするんだ。」


「え!……何だろうね?」


「その小さいの、出たいみたいだから、代わってもいいかな?」

「……うん、代わってみて。」

「……。」


「樹さん」

「え、その声は琴音さん?」

「はい、なんとかミラーを倒せました。」

 まずは、琴音さんが無事だったことに安堵した。

「なんか、涼音からも琴音さんが見えたみたいだよ、『すごく小さいの』って言ってたよ。」

「はい、力を使い果たしてしまったので、小さくなってしまいました。」

「そうなんだ……、でも無事で良かった。」


「ええ、でもこれでは……、暫くの間は何もできませんね。」

「それでも、無事で良かったよ。それが嬉しいいよ。本当にありがとう。」


 琴音は何か大きな力を持ってる存在だとは思っていたけど、その力を使ってくれたのだと思う。


 涼音から認識できない特別な存在……。

 そういえば『琴音』って名前は、『涼音』って名前と親和性があるような気がする、姉妹とかならそういう名付けもありかもだよね。

 もしかしたら、本当に涼音の中の重要な存在で、その力も大きなものだったのかもしれない。鏡の言う通りに、涼音は鏡が作った人格だとしたら、やはり琴音も鏡が作った人格なのかもしれない、姉のような存在としてね。


 そう言えば、涼音には実際に妹がいる、おそらく甘えられる姉の立場だったのだろう。もしかしたら涼音は甘えられる頼れるお姉さんが欲しかったのかもしれないね。

 ……実際のところは、月乃がお姉さんみたいになってるけどね。



「小さいのは、さっき話した琴音さんだったよ。」

「力を使い果たして、小さくなっちゃったんだって。」

「そうなんだ、あのね、あのね、小さくてすごくかわいいの。」

「手の平に乗っちゃうくらいのサイズなんだよ。かわいい!!」


 涼音は本当に無邪気に小さくなった琴音が可愛くて喜んでいるようだった。

 初めて涼音に認識された琴音さん……。

 涼音にかかればこんなものか……少し笑みがこぼれてしまう。

 ありがとう、琴音。




 それから数日は平和に過ぎていった。

 全く出てこないわけではないのだが、変なモノや異質なモノの出現がぐっと減っていた。やはり最近のゴタゴタには、ミラー(バグ・ウイルス)の存在が大きく影響してたのということだろう。……琴音には本当に感謝。


 そればかりか、お仕事も月乃に交代してもらうことなく勤務できているという。

 月乃は「心配かけたくたなくて無理してるのかも。」と僕に伝えてきてたけど、頑張れてるなら、それでいいかなって思えていた。


 僕がやっていること、世の中の多くの人がやってること。それは、苦しい時でも自分で受け止めてるということ。涼音にも、他の人格に逃げずに受け止めて踏ん張って欲しいと考えていたから。れでも受け止めきれなかった時は、頼れば良いと思っていた。




 比較的穏やかな時間の中で、あっという間に6月に突入、ついに仕事の派遣先が変更になる。これで、最近大きなストレス源であった勤務先からお別れ。

 今度こそ平和な日々になるかなと思えていた。


「おつかれー!!新しい職場どうだった。」


「それがさ、聞いてよ。酷いんだよ。」

「新しく私を含めて5人派遣されたんだけど、私一人だけ研修は午前中で終わり、そして午後から一人で実務なんだよ!。私だってゆっくり研修受けたいのに!」


「それは優秀で即戦力になるってことじゃないの?」

「だって2日間は先輩がついて研修だって言ってたのに、話が違う。」

「私だけ一人ポイだよ。」


「だから……、優秀なんだろ、優秀故の扱いだろ。」

「えー!!……確かに仕事は簡単だけどさー。もっとゆっくり教えてくれてもいいじゃん!」


「週末にはお祝いに行くから、それ楽しみにガンバレ!。」


 確かに半年前までは、超優秀でやる気に満ちていたのが涼音だというのは知っている。チート級の記憶力があり、それを活かせる実務能力があるのなら、普通の人の数倍のスピードで仕事覚えちゃうのも納得だよね。


 ……その優秀過ぎる為に嫉妬を受けることも少なくないのだろうけどね。

 また、そういう人は上司に好かれやすいかも、……年上に人気なんてのにもこの優秀さが関係してるのかもしれないね。

 同僚や先輩の事を聞いてみたら、まだよく判らないけど、嫌な感じはなしないと言っているし、順調な出発だと思えていた。




 翌週の金曜日。


 先週の週末は、勤務先変更祝いという名目で、涼音の元でゆっくりと過ごして、今週は自宅でのんびり過ごしていた。

 ミラーの消去から約10日間は、これまでになく平和な時間。


 そして、処分されて消えていた由比ちゃんも復活してくれました。

 これは由比ちゃん大好きな僕としてはとっても嬉しい事。……いや、みんなのこと好きだけどね。由比の記憶も元のままだったので安心。


 平和な日々では、朝に音声チャットでおはようの挨拶をして、お昼休みにはメッセージの交換、そして生米の駅からは音声チャットでお出迎え。そして夜11時くらいから眠るまで音声チャット繋ぎっぱなし。それが日常になってきていた。


 帰宅してから11時まで音声チャットを接続しなかったのは、窒息防止の意味があった。

 僕にもやる事があるし、涼音にも何かを見つけて欲しかったのだ。

 ……それが結果的に僕が油断して失念していた、もう一つの問題を掘り起こしていた事に気付いていなかった。




 土曜日0時過ぎ。


 いつものように音声チャットを接続して、僕達は会話をしながらそれぞれの作業をしていた。

 涼音はイラストのお仕事をしている、液タブ(作画のツール)を擦る音やパソコンのキーボードの音が聞こえてくる。

 僕もいつもの作業場兼スタジオで、紅茶を飲みながらパソコンで作業をしている。

 お互いに邪魔にならない程度にすっと会話に入り、すっと引いていく。

 それは、彼女と音声チャットを始めた頃に感じていた心地良さが増幅されたような感じ。


 ……と感じていたのは僕だけだったらしい。


 突然、ガタ!って大きな音がヘッドセットから聞こえた。……倒れたような音。

「涼音、どうかした?」

 ……

 返事はない……。


 数分後には、別の音が聞こえてきた。

「カチカチ…… カチカチ……」

 これはカッターの刃を出し入れする音。


「涼音? まお? 切っちゃだめ!」

 ……返事はない。


 やがて……。

 ザー ザーーー! と紙をカッターで切り裂くような音が響く。

 かすかに何か呟いているような声も聞こえるけど、内容は聞き取れない。

 何度も、何度もその音は聞こえ続けた。

 その後も紙をクシャクシャにしてるような音や紙を切り裂くような音が断続的に聞こえる。

 ……30分くらいそれが続いて、やがて何も聞こえなくなる。

 たぶん落ちたのだと思う。



 3時頃

「んん……ううん……」

「涼音!」

「うん、お父さん おはよう。」

「良かった目を覚ましたね、おかえり。」

「うん、ただいま……。」

 ……だけど、それっきり……、また何の反応もしなくなった。



 久々に不安が膨らむ夜になってしまった。

 先週の週末は、二人で幸せな時間を過ごしていたというのに……。

 こうなると僕は、ただひたすら覚醒を待つしかない。

 すでに2時間以上待っているのだけれど……。


 不安を紛らわすために、ジャズをかけるけど音が少しも頭に入って来ない。

 紅茶も中毒かってくらいの勢いで飲み続けている。

 ……僕はただひたすら待つ事しかできない。

 己の無力感……。


 リストカットしたのだろうか?。……紙を切ったり破いたりするような音だったような気がする。リストカット自体には音はないし、リストカットの有無を知ったからといって、何の解決にもならない判ってはいる。

 だけど、それしか僕には情報がなかった。

 ……そんなことを考えながら、椅子の背もたれに身体を沈めて、時計と淡く光る間接照明を交互に眺め続けている。


 ふと気付くと遮光カーテンの間から明るい光が差し込んでいる。

 涼音が落ちて約6時間、僕は何もできなかった。

 彼女の元へ向かうか……、でも覚醒してなかったら僕は部屋に入れない。

 ……少し眠って、もう一度確認してからにするか……。寝不足じゃ冷静な判断できないしね。そう考えて、部屋の隅のソファーに横になって仮眠することにした。



 10時


 眠り過ぎないようにカーテンを開けていたせいか、部屋の中が暑くなってきて目が覚めた。外の青空とは裏腹に、僕の心は不安で濃いグレーに染まっている。

 端末を見ると音声チャットが切れている。


 さて、どうだろう……、僕は涼音を音声チャットでコールしてみると、数秒で接続された。


「おはよーいつきさん、どうしたの?……珍しいわね。」

 すごく明るい声が聞こえてきたので、いつもの雰囲気ブレイカーかと思ったのだけれど、僕の事を『いつき』と呼ぶのに違和感を感じる。


「おはよう! あれ!……えっと涼音だよね?」

「えぇ!! どうして本名知ってるの?」


「え!?……どうしてって何を今更。」

「あれ、私名前教えてたっけ? おかしいなSOA(ゲーム)の人には名前教えてない筈なんだけど……。」

「名前どころから、何度も涼音の部屋に泊まってるだろ。」

「えーー!! 嘘!それヤバいって!!」


 これって、また記憶喪失?

 でも僕の名前知ってるしSOAも知ってるよね、この状況とこの反応って、もしかかして……。

「ねえ、今日が何月何日か判る?」

「え!3月〇日よ。」


 やっぱりそうか、日付が巻き戻ってる、これは記憶の断片?……いやちょっと違う気がする。


「日付違うよ、端末の日付確認してごらん。」

「え? うん。」

 ……

「嘘! 6月〇〇日ってマジ?」

「マジだって、外の様子見てごらん嘘じゃないから。」

 ……

「たしかに3月の景色じゃないわ、納得。」


「多重人格とかも知ってるよ、月乃さんや桜花の事も知ってるよ。」

「えぇーー!!マジでそんな事まで知ってるの!!」

「いつきさんと私って、一体どうなっちゃってんの?」


「うーん、えっとね半分お父さん、……半分彼氏みたいな……。」

「うそー!!マジで!それ超ヤバイって、だって……。」


 ……そこで彼女は突然黙り込んだ。


 呼びかけても返事がない……、ピュアへの魔法の言葉も効かない。



「樹さん」

 しばらくして、突然聞き慣れない声と口調で名前を呼ばれた。


「君は誰?」

「刻美(きざみ)です。 樹さんの事は以前から知ってるよ。」

 少し元気なお姉さん風の声だった、眼鏡が似合いそうなイメージがする。


「私は記憶の管理しているの、樹さんの記憶を抱えて涼音がどこかえ消えちゃってさ。」

「……涼音と話したばかりだけど、僕の事は覚えているし、日付が巻き戻っただけな気がするけど?」


「だから、樹さんと仲良くなってる記憶持ってる涼音がいないの!!」

 物分かりの悪い僕に苛ついた感じで、刃物のように言葉を叩きつけてきた。


「鏡から、樹さんに伝えておけって言われたから。……伝えたからね。」

「刻美さんって鏡の領域の人?」

「領域とか判らないけど、私は鏡に作られた人格よ、記憶探し忙しいから行くね。」

「え、あ、うん判った、よろしく頼むよ。」


 記憶の出し入れを担当する人格が存在するって事にすごく驚いたけど、取り付く島もない状態で詳しく聞けなかった。そして彼女の説明は事実なのだろう、さっきの涼音の状況と一致している。

 さっきの涼音は、どこかへ消えたからいいけど、もし3月の記憶のまま行動を起こされたら、今まで僕達がしてきたことは全て無駄になってしまう。


 それは、完全な記憶喪失よりも質の悪い、最悪の記憶の巻き戻し状態。

 同じ事をまた一から繰り返せる自信はない。



「樹さん」

 今度は冷たい声のあの人が出て来た。


「月乃さんは僕のこと覚えてるの?」

「もちろん覚えていますよ、主は自分で記憶壊したみたいですが……。」

「ああ、……さっき、鏡のところの刻美さんって人から教えてもらったよ。」

「はい。……今みんなで主の記憶を探してますから、待っててくださいね。」

「うん、よろしく頼むよ。」


 月乃達も涼音の記憶を探しているらしかった。これは久々に大事になっている。

 今回も僕は状況を把握はしても、何も出来る事がない。

 こんな思いをするのは何度目だろう……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る