41-ふたつの記憶

 ふぅー。……ため息。

 冷蔵庫特有の匂いを感じながら食材の整理をしていた。

 涼音のところへの滞在が長くなってしまい、自分の冷蔵庫の中で多くの食材の賞味期限が怪しい状態になっていたのだ。

 あーこれもダメか……卵って大丈夫だっけ?さすがに一ヵ月はやばい?……ちょっと保留。食べ物が悪くなるって、基本細菌の繁殖の繁殖だよな。……ってことは、ほとんどは過熱すればいけるかな。……別の物質に変化してなきゃ大丈夫だとは思うのだけど……。

 ………我ながら理屈屋であると思う。


 僕は自分の周囲にあるもの、……冷蔵庫だろうが、パソコンだろうか、車だろうが、仕組みや原理がわからないと気持ち悪くて落ち着かない性格だ。

 さすがに細かい所までは理解できないけど、大雑把な原理と仕組みを頭に描けないと気持ち悪い……。だから幅広く知識に貪欲なのだけれど。

 ……それは困った性癖かな。


 別に悪い事ばかりじゃなくて、電気製品や車など故障を、僕はほとんど自分で修理してしまうし、その為の工具類も豊富に所持している。

 機械の故障というのは、調子の悪い部品が示す動作……。ある意味では正常な動作なのだから、見えてる症状から故障した部品を推測するだけのこと。

 人間の怪我や病気だって同じだと思ってる……。思ってはいるが……、さすがに心の問題を理だけは捉えるわけにはいかない。


 結局のところ、涼音の問題に関しても自分の中にある理(ことわり)で理解しようとしてきているが、まだまだ理解できない事が多すぎる。恋愛について……、さすがに動物の本能とか生殖欲求が……なんて理屈で割り切れるわけじゃないし、そんな事を語り出したらドン引きされるだろう。


 食材の整理を終えて、お気に入りの椅子に身体を沈める。

 ……僕は本当に恋愛してるのだろうか?




「アハハハ!ウケるー!やばいよ私!」

 夜になって涼音と接続した音声チャットから彼女の笑い声が聞こえてくる。


「ん、何ウケてるの?」

「だってさー、これヤバいって、アハハ!」

「今さ……」

 彼女の話によると、自分の中の人(別人格)に字を書かせてみたら、筆跡の違いに自分も驚いておかしかったのだとか。

 それを写真に撮って送ってくれたので、それを見てみたら本当に全然ちがう。

 最近では文字を手書きする機会が減っているし、別人格が文字を書く機会なんてまずないのだろう。


月乃さん

” 筆跡だけで人格の区別がつくなんてことになったら、少し引くかもしれません。(笑) ”

普通に整った字。……声と口調で人格の区別つくんだけど引いてない?


月斗くん

” 字を書くのは…得意じゃない。 勘弁してくれ。 ”

崩してはいるけど、意外に達筆な字だと思う。


由比ちゃん

” あまり 難しい漢字は書けないんだ がんばってお勉強してるんだよ!! ”

筆圧が高い、かんばって文字を書いてる感がかわいい。


桜花のーん

” うん 桜花のーん。 特に言うこコトなしっ!! ”

ホントてきとーに書きましたーみたいな文字


 筆跡が違うだけじゃなくて、書いた内容にも個性があって楽しい。



 僕は時雨やみーとの筆談で筆跡が違う事を知っていたのだけれど、彼女自身は今まで見る機会がなかったのかもしれない。筋肉とか身体のパーツは同じなのに不思議だよね。

 お箸の使い方が違ってたり、お箸を使えない人格がいたりするのを彼女は知ってるのだろうか。少なくとも、ましろと りさはお箸を使えないからフォークとスプーンが必須だったりする。


 文字どころか、琴音や時雨のように本人には認知できない人格までいるのだから、涼音自身でも他の人格については判らない事が多いのだろう。




 その夜、涼音はSOA(ゲーム)メンバーのみきちゃんと通話する約束があると、21時前にチャットを切った。


 最近、涼音がログインしない事が増えたのでSOAでのパーティー活動は半休業状態。パーティーで涼音ことをお姉さんと慕ってるみきちゃんから、お話したいと誘われたらしい。

 みきちゃんもSOAで多重人格をカミングアウトした時にいたし、女性同士のお話しもいいかなと思えた。

 涼音の『お父さんだけいればいい!』という言葉は、僕にとっては不安の一つでもあるので、こうして僕以外とコミュニケーションを取るのは大歓迎だからね。



 かごの中の鳥……。今の涼音は僕の世界の中にあるかごの中の鳥みたいなもの。

 僕には予感がしていた、このままの状態が長く続けば僕も彼女も窒息するかもしれないと。窒息する前に大空を飛ぶのように世界に触れなきゃいけないと。

 大空を自由に飛んで、色々な世界に触れつつ、僕の近くにもいてくれる存在でもあって欲しい。

 これが僕の願いなのだから。


 他人と同じ空間に長時間いることが苦痛だった二人。

 そんな僕らが、自分達でも驚く程に二人で同じ空間にいる事が心地良かったのは、お互いに自分の世界を持ち、過度に干渉しないけれど近くに人の温もりを感じられる事だったのだから。

 僕だけの世界に生きていたら、彼女も僕も窒息する未来しか見えないのだ。



「みきちゃん、やっぱりかわいい! 大好き!」

 みきちゃんとの通話を終えた涼音は上機嫌で声が弾んでいる。


「明日は一緒にSOAやろう!」とまで言ってくる、良い傾向だね。

 ティアなんかいなくても、人との繋がりを大切にしてくれるなら、記憶だけ戻してティアを戻す必要はなくなるのだから。

 ドロップと一緒なら多分大丈夫とは思いつつ、やはりティアに大混乱させられた僕としては、ティアを戻す事には少し抵抗が残っているからね。


 なんて思っていたら、涼音が落ちた。

 ショック落ちではなく休憩落ちだと思う……SOAのプレイ後にそうだったように。


 他人とのコミュニケーションは楽しみつつも、やはり疲れるものなのだろうか。

 僕に知る術はないけれど、みきちゃんとお話してたのは涼音のネット外交を担当する桜花だったのかもしれないってことに気付いた。



 ……ところが、いつも休憩時間である1時間から1時間半を過ぎても涼音は目覚めてくれなかった。心配して声をかけていたら、由比が覚醒してくれて「お姉ちゃん眠ってるよ。」と教えてくれた。


「お父さんも無理しないでね!」

 由比が嬉しい事を言ってくれる……、いつの間にかちびっ子達が僕に声をかける時は「お父さん」へと変化している。


 元々ちびっ子たちは娘みたいなモノだから、全然違和感がないというか、逆に他人行儀じゃない気がして嬉しい。





 翌日、約束通りに楽しいSOAを終えると、やはり涼音は休憩の眠りに入る。

 ……そして2時間、今夜も彼女は目覚めない。ショックで落ちてるような感じではないのだけれど、以前と違ってそのまま眠り続ける。


 ……それは小さな変化。

 いつも通り、音声チャットは繋ぎっぱなし、時々声をかけつつ読書を続けていた。


 夜中にガサガサを動き出す音が聞こえてきた。


「涼音、起きた?」

 僕の声に物音が止まる。


「あなた誰?」

 声も口調も涼音のものだ、これは記憶の断片が現れた時のいつもの状態。


「えっと、その身体の持ち主のお父さんみたいなものだよ。」

「君は何歳?」

「何それ?私は私じゃん、この身体は私。……えっと19。」

 20付近の年齢の記憶の断片は、僕にとっては少し扱いにくいのが多い。

 ……慣れてきてるので、いつものように会話を進めるけどね。


「部屋の様子を見てごらん、君の部屋と様子が変わってるでしょ。」

「今の君は23歳なんだよ、僕はそのお父さんみたいなもの。」

 記憶の断片には、部屋の様子や自分の姿を姿見(鏡)の前に立たせて見せてあげると納得してくれるんだよね。


「え!マジ!ヤバー! 私23歳になっても生きてるの?」

 これはもう10代後半から20歳くらいまでの定番の反応になりつつあった。

 そんなに自分が生きてる事が不思議に思えるのだろうか?

 涼音が就職すると一変してポジティブな性格になるんだけどね。


「そんな事言わないの、苦労しながらも頑張って生きてるんだから。」

「だって、私だよー! 23歳になっても生きてるなんて信じられないわ。」


「幼い頃に友人が自殺して死んだりと、いろいろ大変な事があったのは……。」

 そこまで言うと、彼女が大笑いを始めた。


 19歳の涼音が言うには、子供の頃に友人が自殺はしたけど生きてるとの事だった。オマケに「死んだとか、そんな作り話信じてるの、ウケるー!」と笑ってくる。

 今まで涼音がこの話題に触れた時に、呼吸を乱さなかった事はないというのに……19歳の涼音はそれを笑い飛ばしていた。


 19歳の記憶の断片は僕に衝撃を与えつつ、いつもその年代らしい悪態をつきながら去っていった。



 暖色の間接照明に照らされた薄暗い部屋の中で、僕は19歳の涼音との会話の内容を考えていた。


 これは一体どういう事だろう。

 涼音は友人は自殺して死んだと言っている、月乃はその罪悪感から生まれたと聞いている。ソレ(自殺からの死)と、その結果(解離や月乃の存在)について今まで違和感を持った事はない。確かに『死』はなくとも『自殺』は共通していて、そこから月乃が生まれても矛盾はしないのだけど……。


 でも『死んだ』と『生きている』という二つの記憶が存在していることになる。

 防衛本能として『友人の自殺』の記憶を上書きした可能性もある。

 どちらの記憶が正しいのか……、強力なトラウマなので安易に掘り下げて確認する事は危険すぎる。


 それよりも、一つの事に対して二つの異なる記憶が存在してる事に驚いた。


 レギュラー人格達は異なる記憶領域を持っている、だから違う事を覚えているのは当たり前だった。でも、記憶の断片達は主人格涼音の過去の記憶からの部分的な記憶再生だと思っていたから、異なる記憶が存在する事に僕は衝撃を感じた。

 同時に、他にも似たような事があるのかもしれない、涼音の記憶は改編されてるのかもしれないとも考えてしまっていた。


 僕の見ている涼音は、本当にずっと生きてきた涼音なのか……。


 そういえば、1日だけ仕事を代わってくれた半年前の涼音……、22歳の涼音は驚く程ポジティブで活気とやる気に満ち溢れていた。僕が今見ている涼音からは、あのポジティブさや活力を感じられない。わずか半年前だというのに。


 ……また涼音が判らなくなってしまった。





 そして翌日また事件が起きた。

 夜にいつものように音声チャットを接続して、そこから聞こえてきた彼女の声は涙が混じったものだった。


「みきちゃんが消えちゃったの、SOAから、SNSからも消えちゃったの……。」

 泣きながら訴える彼女の言葉に、すぐに僕も確認する為にパソコンを操作する。

 

 SOAからもSNSからも みきちゃんの名前が消えていた、そればかりでなく過去ログも消えている。……これはブロックやフレンド外しではなく、アカウントそのものを消した時の状態、……彼女の言う通り みきちゃんは消えていた。


 一瞬、またか……と思った。

 ネットのコミュニケーションでは、こういう事は残念ながら珍しい事ではない。

 だけれど、彼女はこういう事に過剰と思える程反応する。……ティアの影響があっての事だと思っていたのだけれど、今はディアはいない筈。それでも彼女はこうして激しく反応していた。ディア無しでも大切な存在に思えていたってことかな。……それは決して悪い事ではないのだけれど。


 実際のところ僕も少しショックだった。やはり僕の事を「お兄さんみたい」と慕っていてくれたし、涼音とのことをカミングアウトした後も応援してくれていたのだから。



 涼音に一昨日の みきとの通話の事を詳しく聞いてみることにした。

 

 みきは、最近涼音がSOAにログインしてこない事で、SOAへの熱が冷めてしまい、つまらなく感じていて、それで涼音にコンタクトを取ったらしい。

 そこで涼音も最近SOAへの熱が冷めてしまっていることを話したとのだとか。

 でも、お互い事が大好きだと友情の気持ちを確認しあい、「これからも一緒に遊んで行こうね」と誓い合ったばかりだったという。


 SOAへの熱が冷めてしまったという事以外は、特に消えるような素振りはなくて、それでも大切な友達としてプレイを続けて行こうと話し合ったばかりか……。


 突然すぎるし、理由も良くわからない。

 昨日は普通に楽しんでるように感じたのに……。

 熱が冷めた状態で涼音とプレイしてみたけど、冷えたゲーム熱は戻らなかったということかな?。


 僕にとっては珍しくない『ネットあるある』なんだとけどね。

 生活パターンが安定してくる20代以後とそれ以前では、ネット上での安定感も違う。10代の子が突然アカウント消したりするのは、珍しい事ではない。

 多感な時期でもあるし、衝動的に消去なんてのもあるかもしれない。

 高校生であるみきちゃんなんかは、親に禁止でもされれば即アカウント消しなんてのも想像できなくもない。

 そう……、ネット上ではホントよくある事なのだ。だけどタイミングが悪い。


「高校生だしさ、何か事情があったんだよ。」

 そんな言葉を掛けるけど、それが何の慰めにならないことなんて僕だってよく判っている。


 ……そして、思った通り彼女は間もなく落ちた…。

 寝ているわけじゃない、何かを呟きながら泣いている。

 でも、何度声をかけても僕に反応してくれないし、他の人格への交代もできない。不安ばかりが大きくなっていく。


 ショックを受けた後のボーダラインと考えていた1時間半くらい過ぎた頃にピュアが覚醒した。

 さすがに、ずっと呟くだけの涼音に声をかけ続けていたので、誰かが出てきてくれた事は嬉しい。しかも、それがピュアだったのはすごく嬉しい。


「樹さん こんばんは ……主人格というのでしょうか、涼音さんが消えてしまったので私が出て来ました。」

「え、消えてしまったの?」

「はい、今はもう一人の自分を感じる事はできません、……他の方(別人格)も見当たりません。」

「……そうなのか、ショックな事があったからね。」


 これは、あの夜の再現なのだろうか……ピュアが初めて現れた夜。

 状況が似ている。違うのはピュアが涼音を別人格のように認識していることくらい。

 

 何かショックを受けて過去の全ての嫌な記憶を飛ばした状態の涼音がピュア。

 ……また彼女は全ての記憶を捨てて逃避してしまったのか。

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