―4― かごの中の鳥
38-変わるきざし
火曜日 午前中。
あれから2日目、僕は久々に帰宅する為に電車の中にいた。
かれこれ2週間以上も涼音の元に滞在した事になる。
その間に2度、いや3度ってことになるのだろうか、記憶喪失なんて想定してない事態まであって、本当にずっと緊張の連続だった。
多重人格のことや、仕事のストレスなどの事は、少しは理解できてきたと思うけれど、記憶喪失まで重なるとはね。全く想定してなかった。……いや、やっぱり僕はまだ多重人格の事すらよく理解できてない。
疲れもあったし、さすがに自宅の様子も気になるし、今回の長期滞在の目的であった彼女の出勤・勤務も安定してきていたので、ゴールデンウィーク前に帰宅する事にしたのだ。……そう、まだ同棲生活に突入したわけではなくて、あくまでも一時的なフォロー滞在だからね。
勤務が安定してきたとはいえ、職場で感じるストレスは大きいようで、月乃や桜花に交代してもらいながら続けている状況ではあるけどね。
仕事といえば、昨日(月曜日)にちょっと事件があった。
派遣元の担当者から、6月〇日から別の勤務先に行ってくれと話があったそうだ。
今まで何事もなかったのであれば、これでストレス山盛りの会社から移動出来る事になるので、喜ぶところだが、契約解除警告を受けた後なので少し不安がある。
よくある話は、いわゆる企業の姥捨て山。
見切りをつけた社員を、自ら辞めたくなるような職場に送り込み、自主退職を狙うもの。企業としては、クビ(会社都合退職)にするのは法的にも面倒で、しかも企業へのマイナス評価になるから実際は避けたいのが本音、そこで辞めさせたい社員を自主退職に追い込むのが、常套手段。
今日は担当者と一緒に、新しい派遣先に見学兼挨拶の予定だった。人材を必要とされて移動になるのか、姥捨て山なのかは、見学に行けばある程度判断はつく。
望まれる移動であるなら、22歳のやる気に満ちた涼音人格を、たった1日で陥落させた今の職場から離れられるので、最高なのだけどね。どうなることやら。
……最近不景気だからね。
実は僕も涼音の近く(首都圏)で、職を探してみようかなと考えていた。
涼音を僕の所へ呼んでも良いのだけど、彼女は首都圏大好きっ子だからね。
僕の住んでるご近所を、ゴスロリファッションで歩いてたら目立ちすぎる気もする。
でも、世の中は不景気になってきてる。簡単に職が見つかるかどうか……。
僕はフリーのカメラマンをしてる。
首都圏の大手出版社の仕事もしてるけれど、それでも地元に根付いた顧客が多い。
首都圏で新たに顧客を開拓するのが容易な事ではないのは、自分の仕事を立ち上げた時の苦労から容易に想像できる。ゼロから仕事を立ち上げるって大変なのだ。
それなら、自分が普通に就職した方が早いかなってね。
でもね、僕ように一度フリー落ちすると、企業ってのは採用を渋る傾向がある事も知っている。どうしてなんだろうね、『フリー落ち』って言葉も嫌いなんだけど、フリーになると自分のマネジメントへの意識が、サラリーマンしてる人より高い気がするんだよね……。
本当は判っている。企業が欲しいのは能力以前に、決まった時間動いてくれる型にハマったロボットが欲しいんだってことはね。フリー落ちすると型からはみ出したりしてるからね。
いずれにしろ、30代の僕には、やっぱり厳しいだろうなと覚悟せざる得ない。
……行ったり来たりはあるけど、3月末から延べ3週間以上の時間、涼音のところで生活してた事になる。
当初の予定通り、1年くらいは休業してても食えるだけの貯金はあるけど、ちょっと予定より出費が多い、やはり二重生活は効率が悪いね。引っ越しとなれば、さらに大きなお金が飛んで行くし……。貯金イコール仕事の資金でもあるので、その全てを使い切ってしまう事はできない、少し節約もしなきゃだな……。
現実は厳しいんだよね、お仕事してある程度の収入がなければ、何もできない。場合によっては好きな人、大切な人と一緒にいることすら叶わなくなる。
それが判るから、涼音と、彼女のお仕事を守るということ、それが今回の滞在の本質だった筈。
そんな事を考えていたら、久々に見慣れた都宮の駅に電車は滑り込んだ。
マンションに戻って、不愛想な管理人から留守中の郵便やら新聞やらの束が入った手提げ袋を受け取り、久々の自宅兼スタジオのドアを開ける。
真っ暗な部屋の片隅に荷物を置いて、暗幕にもなる分厚い遮光カーテンを開けてると、窓全体が照明になったかのようにな光に部屋が満たされる。
明るくなった部屋でお湯を沸かして、お気に入りのダージリンを入れる。それは帰宅した時の僕の定型の動作、何百回してきたわからない定型の動作。
お気に入りの椅子に身体を沈める。
ふぅー!この感じ、久しぶり、やっぱり慣れた自分の部屋はおちつくー!。
彼女の部屋がおちつかない訳ではないけど、いろいろあって緊張の連続だったし、それに彼女と過ごした数十倍も過ごしてきた自分の部屋は、やっぱり格別にリラックスできる。
でも、さすがに2週間以上も留守してると、部屋が冷たくなってるような気がした。何が違うわけでもないのに、人が生活しなくなると、部屋ってこんなに簡単に冷たくなるんだ……これもやっぱり不思議だね。
僕は彼女のいる世界からログアウトしたかのような気持ちになっていた。
お気に入りのジャズを流して、僕は自分の作業に没頭していく。
多くの作業は、涼音のところに持ち込んだタブレット端末でしていたけれど、やはり自宅のパソコンじゃないとできない処理も少なくない。
それでも2杯目の紅茶を飲み干す頃には、疲れがたまっていたのか眠くなってきた。最近、昼間寝る生活してたせいかな。……こんなんじゃダメなんだよね。わかってはいるけど……涼音の状況を考えるとね。
うーん、抵抗やめた!
僕は片隅にあるソファーにゴロンと横になり、眠気への抵抗を放棄。
冷たい部屋で、ジャズの温もりを感じながら眠りについた。
……こんな風になるから、フリー落ちするとダメなのね。
夕方、涼音は生米の駅に着くと、すぐに音声チャットでコールしてきた。
「最近、いつも居てくれたから、居ないと淋しいよー!」
「また、直ぐに行くから、少しは我慢しなさいって!……このポンコツ娘!」
「酷いー!娘グレるよ!……グレちゃうからね!……娘グレ子ちゃんになって困らせるからね!」
「ごめんって!……娘はかわいいよ。」
「うん、かわいいのは知ってる!」
涼音のドヤ顔が見えるたような気がする。
「ところで、職場見学どうだった?」
聞いたところ、新しい派遣先は誰もが知ってる通信大手の会社で、忙しいらしく、オフィスにすごい活気があるとか。これは派遣会社の姥捨て山じゃない気がする。
「良かったじゃん!」
「うん!」
これで、あのストレスの元凶みたいな職場から離れられる、彼氏の事も片付いたし、意外に彼女にとっては良い事だらけじゃないのかな。
こうして考えてみると、今回の派遣先移動もギリギリの状態でセーフって感じだしさ、普通なら職場にストレスを感じていても、そう簡単に逃げれるものじゃないのだから、涼音って運が良さそうな気がする。
その後、夕飯を食べた少し後に、彼女は記憶の地雷を踏みぬいたらしく、1度ショック状態に陥ったけど、僕のかけてきた魔法「1年目・二人の夜」という言葉で、すぐに覚醒することができていた。
夜は、僕が久々に自宅からゲームSOAをプレイする事になったので、彼女も久々に自分の意思でゲームにログインした。単純に、僕がログインするから、彼女もログインしたって事だどうけどね。
それでも、僕らの出会いの場でもあるし、大切な仲間達がいるから、これは僕にとっても嬉しい事。
もし、僕と出会ってなかったら、彼女はどうなっていたのだろう。
そのまま雪村と同居して壊れていったか、雪村専用の退避人格でも生み出して、自分は引きこもる時間が長くなっていったか……。
今回の記憶喪失状態だって、僕がいなかったらどうなっていたのだろう?
中の人格だけで、彼女を支え勤務を続ける事ができたのだろうか?
記憶喪失以前に、その要因でもあるドロップに対応できたのだろうか、あの純粋すぎる自殺衝動を抑える事ができたのだろうか?
偶然なのか必然なのか……、僕ら出会い、今現在こんな関係になっている。
運命なんてものは信じてはいないけれど、彼女の運が僕を引き寄せてるのかもしれない。僕は自分には運がないのを自覚してる。だから、引き寄せたのは僕じゃない、もしそんな事があるなら、引き寄せたのは彼女の運だと思う。
でも、その運と彼女のこれまでの特性を考えると、僕には不安もあった、これは不安というよりは、リスクという言葉の方が正しいかもしれない。
……終わりを見つめてしまうのは、終わり方を考えてしまうのは、僕の悪い癖。
深夜
「……魔法の言葉が効いて良かったよ、今までは大変だったんだからね。」
音声チャットは夕方から接続しっぱなし、深夜にゲーム後の約1時間の休憩から戻った涼音に、今まで涼音が落ちた時の事を説明していた。
涼音が何かで落ちると、他のレギュラー人格は覚醒できる時と、できない時がある。
レギュラー人格が覚醒できない時は、変な人格、変なモノが出て来る時と、全く反応がなく眠り続ける時がる。
レギュラー人格が出てる時は、まだ内部情報を得られるから良いのだけど、そうじゃない時は本当に大変なのだ。
変な人格、変なモノの相手をしたりしながら、1時間くらい涼音を呼び続ける事になる。
何も出てこない時は、ただひたすらにいつ目覚めるのか判らない彼女を待つ事になる。
多くの場合は30分から2時間くらいで覚醒してくれる、だからこの辺が一種のボーダライン、これを過ぎると、僕の中での心配が対数曲線のように跳ね上がる。
このボーダラインは人間の睡眠のリズムに連動しているような気がする。
そして、ほとんどの場合、涼音は眠りから覚めたように「おはよう!」って覚醒する。言葉通り眠っていたような感覚らしく、その間の事は全く記憶に残らない……。つまり僕が何時間声をかけ続けていても、どんなに苦労していても、彼女は知らない。
……そりゃ、本人は睡眠してる状態に限りなく等しいのだから、しかたないよね。
寝てる人の枕元でひたすら声をかけ続けてるようなもの。
「……ってことで、涼音が落ちる度に、僕は大変だったんだからね。」
「えー、そんな事になってたんだ、全然知らなかった、ごめんって。」
「少しは僕の苦労もわかってくれた?」
「うんうん、わかったよ……、私だったら、こんな面倒な女、絶対付き合いきれないわ。」
「お父さん、よくこんなポンコツ娘から逃げ出さないね。」
「かわいい娘がポンコツだからって、逃げ出す親はいないだろう?」
「エヘヘ……、お父さんは、本当のお父さんじゃないでしょ!」
「それでもいいの、本当に娘みたいに思ってるんだから。」
「えー、なんかそれやだー!ブー!」
「じゃ娘やめる?」
「えー!! それもやだ!ブー!」
楽しい会話を続けた後、いつものようにパタリと彼女は寝落ちしていた。
普通の寝落ちと、何かあっての落ちも区別できるようになっているし、すごいよ僕。慣れと経験なんだろうね。
こうして離れていても、僕のする事は変わらない。この後は他の人格と話したり、記憶の断片と話したりするのだ。
紅茶を入れ直して、好きなジャズを聞きながら、音声チャットも接続を続けて、誰かが出て来るのを待っている。
「……いつきさん」
3時過ぎの事だった、ティアを思わせるような、儚げで細い、そして泣きそうな声が聞こえた。
「君は誰?」
「私は氷(こおり)……。」
一瞬緊張したけど、ティアじゃなかった事に胸を撫でおろす……。よく聞くと、ティアより幼い感じがする。そして、その声から変なモノとか異質な感じはしない。……僕もそういうのが、いつの間にかわかるようになってきていた。……経験と慣れと、そして直感。
「氷ちゃんは新しい人格かな?」
「ううん……、前にいたよ、最近戻ったの。」
詳しく話を聞くと、氷は以前に存在していた人格で、苦しい時には切ったり、そして痛みを引き受ける人格だという。まおと由比の役割を一人で担っていた人格みたい。
「まおちゃんとか、由比ちゃんを知ってる?」
「ううん、知らない。」
「そっか……、じゃ月乃さんや、ましろとか、みーとか知ってる?。」
「うん、知ってるよ。」
古い人格の名前を出したら知っているので、以前に存在していた人格に間違いないようだった、僕の知る限りでは、ましろに続く2例目の転生になる。
その役割から、まおと由比の先代・先輩にあたるのかもしれない。
そういえば、雰囲気が少しまおに似ている気がする。その役割からすると、明るい由比より、まおや氷の方がイメージ合う。
少し気になるのは、ましろの名前を出した時の反応だった。
声から受ける印象が幼い感じなので、転生前に一緒だったましろと仲良くできるかなと思って、ましろの話題を振ったら、露骨に嫌そうな雰囲気を出していたのだ。
……過去に何かあったのだろうか? 少なくても好いてるようには感じられない。
「月乃さんに、今の事をいろいろ教えてもらうといいよ。」
「……はい。」
終始、悲しそうな寂しそうな声で話していた彼女は潜っていった。
少し後。
「樹さん……」
「はい、えっと……、この声は美理さん?」
「はい美理です、こんばんは……、ご自宅に帰られたのですね。」
「うん、僕も自分の生活があるからね。」
「……そうですよね。」
「今、氷って昔いた人格に会ったよ。」
「氷ですね……、由比だけじゃ耐えられないかもなので、呼んだのですよ。」
「そうか、じゃこれからは由比の負担も少し減るね、良かった。」
その時は、僕は単純にそう思っていた、今まで自分を犠牲にして、犠牲になる覚悟で涼音を守ろうとしてた由比、その負担が減るなら良いかなと……。
でも、後になって考えてみると、別の意味があったのかもしれない。もしかすると、今まで以上の苦しみを美理が予想していたとか……。
そもそも、氷の後に美理が現れるって時点で意図的だよね。
美理は僕に氷を紹介したくて、美理の指示で氷を先に出てきて、その後に美理が出てきた気がする。
……ここまでは、考える事はできたけど、それ以上は今の僕には想像できない。
いろいろあったけど、なんとか順調に進み出始めたと、思えたばかりだったのに。
美理つながりの転生……、この事を、もっとよく思慮すべきだったのかもしれない。
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