36-二人ですごした雨の朝

 日曜日0時過ぎ


 突然、涼音が悲鳴を上げて床に転がり、胎児のような姿勢で震えだす。

 いつものショック状態だ、僕はすぐに『抱きしめキスからの耳元囁き作戦』を実行する。……だめだ、落ち着いてくれない……。今の涼音にはコレは効かない、記憶の違いのせい?


 震える彼女の肩に手をのせて「大丈夫だよ、おちついて」と何度も声をかけ続けた。落ち着くまで5分くらい彼女は震え続けていた、そして今は静かに僕の膝を枕に眠っている。あれから、覚醒はしてない……。


 純粋な涼音でも、いつもの涼音と同じように地雷を踏んだようなショック状態になるんだ……。もしかすると、今ので本来の涼音が戻ってきてくれたかもしれない……。


 ……あれから長い時間が経つけど、彼女は覚醒してくれない。

 もしかすると……、純粋な涼音は『僕の涼音』に戻ろうとして……、何かを思い出そうとして自らトラウマに触れてしまったのかもしれない。

 『僕の涼音』に戻るということはトラウマ記憶を取り戻す事になるのだから…彼女は僕の為にそれを自らしたのかもしれない……。

 膝枕で眠る彼女の頭を撫でながら、僕の目の奥が熱くなってきていた……。


「涼音……。」

 


「樹さん」

 僕を呼ぶ冷たい声、先に覚醒したのは月乃だった。


「あ、月乃さん、涼音はまだ目覚めてないよ。」

「はい、知っています、主は見当たりまえせんので。」

「いないのか……。」

「そのうち、出て来るとは思いますが……。」

 涼音がショック状態になって落ちた時に、見当たらなくなるのは、いつもの事だ、……戻ってくると、覚醒……目が覚めることなるらしい。


「涼音は、今ので元に戻っただろうか?」

「それは判りません……、でも桜花は戻ってきています。」


 涼音と記憶を共有する桜花が戻ったということは、涼音が戻ったかもしれない。

 だけど、美緒は居ないし、美雪も普通の女の子のままだと言う。


  美雪だけど……、22歳だったのが、転生したら15歳になってるそうだ。文字通り普通の女の子状態に転生してるらしい。……そりゃ15歳で淫乱キス魔だったら怖すぎる。


 月乃が戻った後、僕の膝を枕に眠り続けてた涼音……。やっと目を覚ました。

 でも、それは純粋な涼音のままだった……。僕は落胆した心を見せないように、必死に普通に目覚めた喜びを演技していたけど、たぶん見透かされてると思う。


 ただ、一点変わったのは、彼女は他の人格達の声が聞こえるようになったという。

 多重人格としての自覚と、その別人格を知覚する事はできるようになっていた。

 それは、僕が純粋な涼音が目を覚ました時に、一番初めに望んだ事だから?


 桜花を呼び出してみると、「桜花だのーん」って脳天気はそのままだけど、記憶は今の純粋な涼音と同じらしい。

 桜花だけ戻ったのは、彼女の多重人格への認知が影響したように思えた。それにしても、あの純粋培養されたような記憶を持ちながら、桜花さん君は……、やっぱり脳天気娘のままなのね……。その……、確かにその君の明るさに癒されはしたけど。




 もうひとつ気付いた。

 初めからなのか、先程のショックの後からなのか……。いや、たぶん初めからだろうね、鏡(裏人格)が存在してないのだ。

 消えた?……あの鏡が?……涼音の人格を作ったという、自称涼音のオリジナル人格にして裏人格の鏡がいないのだ。

 今の涼音は、嫌な記憶の除去と同時に、裏も表もない存在になったという事だろうか?。


 ……あの素直さなら、裏も表もないという事には納得できるけど……。あの鏡が消える事には少し納得ができない……。涼音の上位存在だったのでは?

 もしかしたら……融合?。裏と表の融合、そして過去のトラウマの除去……。


 だとしたら、今、僕の目の前にいる純粋で素直な涼音は、医療機関などで治療した結果のような存在かもしれない……。僕が当初から考えていた、多重人格を治療したら、今の涼音ではなくなるというパターンの一つを、僕は今見てるのかもしれない。




 しばらくして、涼音はその夜2度目のショック状態に陥った。

 2度目はすぐに変なモノが覚醒した、その変なモノを無視して、何度も涼音に声をかけ続けて、長い時間かかってやっと涼音を呼び戻す事ができた。変なモノを押し込めて、涼音を呼び出すのは大変な精神的労力……、負担だった。

 ……呼び戻せた彼女は、やっぱり純粋な涼音のままだった。



 さすがに明け方近いので、もう寝ようと二人はベットに居る。

 彼女は照れながらも、僕の腕を枕にして隣に横になっている。


「あのさ、涼音……君は何かいろいろ無理しなくて良いんだよ。」

 純粋な涼音がショック状態に陥るのが、『僕の涼音』になる為だと思えてしかたなかった。


「ううん、わたし、何もできませんし、なにも無理なんかしてませんよ。」

「それならいいんだ……。それから、もうひとつ」

「なんですか?」


「その……、言い出しにくいんだけど…君と話す時に『本来の涼音』とゴチャゴチャになっててさ……。」

「今の君を、別の名前で呼んでもいいかな……。いや、名前は涼音でいいんだけど、ニックネーみたいなのね……。」

「ピュアって呼んでいいかな?」


「え!!そんな素敵な名前でいいんですか? もちろん、かまいませんよ!」

「ありがと、じゃピュア、おやすみ。」


 二人は愛し合った……。それは、ぎこちなく。……本当に覚えないんだね。




 うーん、目が覚めた。

 涼音の部屋に存在する唯一の時計……ベットサイドの目覚まし時計に目をやると、まだ6時。眠りについたのが5時近かったような気がするから、ほとんど眠れてないじゃん。


 気配がして、外は雨が降ってる事に気付いた。

 横で眠る涼音を起こさないように、そっとベットを抜け出して少しだけ窓を開ける。一瞬、空気から雨の香りがして、そして雨音が聞こえて来た……。やさしい雨音。


 ベットに戻ると、彼女は目を覚ましていた。

「ごめん、起こしちゃったね。」

「ううん、大丈夫です。」


 眠って目が覚めたら、元に戻っているかもと少しだけ期待していた。……だけど声だけでわかる、今僕の目の前にいるのはピュア。

 再びベットに横になり、彼女を腕枕する。


「こういう優しい雨音聞いてると、おちつくんだ。」

「わたしもです、良いですよね、雨音。」

「うん、いいよねこういうの、僕はこういう雨音好きなんだ。」


 二人はしばらく雨音に耳を傾けていた。

 ランダムな雨音は不思議とノイズ感がしない、たまに聞こえる電車の音も良い。


 ふっと僕はある事に閃いた。

 彼女は昨夜2度落ちているけど、2度とも覚醒まで時間がかかり心配だった。特に2度目は、先に変なモノが覚醒して、涼音(ピュア)を呼び戻すのに苦労した事を思い出していたのだ。

 イザって時にピュアを戻せるように、暗示をかける事にしたのだ。……それが有効なのかどうかは、判らないけど。でも、試せる事は何でも試しておきたかったのだ。


「ね、ピュア、今の二人で過ごしてる優しい時間を忘れないでね。」

「はい。」

「うん、だから忘れないように、僕がこれから魔法(暗示)をかけるね。」


「二人ですごした雨の朝」


「『二人ですごした雨の朝』、この言葉を覚えておいてね。……今の穏やかな僕達の時間を忘れないでね。」

「良い?……『二人ですごした雨の朝』、この言葉を聞いたら、ピュアは今を思い出して戻ってきて欲しい。」


「はい、『二人ですごした雨の朝』ですね。……絶対に忘れません。」


 僕達はこうして、雨音を聞きながら、まったりと優しい時間を過ごした。




 日曜日7時過ぎ。


 僕は最後の賭けにでることにした。

 昨日ピュアが覚醒する前に、僕は涼音を長い時間一人にしておいた、また同じように少し長い時間一人にしておいたら、もしかしたら涼音が戻ってくるかもと考えたのだ。逆に、もう僕にはこれくらいしか思いつかない……。僕は追い詰められていた。


「僕は少し出かけるね……。僕はピュアを大好きだよ、でもやっぱり本来の涼音さんに戻って欲しいんだ。」

 僕は暗示をかけるように、ゆっくりと彼女に話しかけて、そして部屋を出た。


 外は優しい雨が降り続いていた。


 雨の住宅地や公園を、僕はトボトボと彷徨っていた。

「涼音、戻って来い」と念じながら……。神様なんて信じない、いたとしても人間の願いに関与したりしない……。そう思ってる僕だけど、それでも何かこうして念じてる事で、それが叶えられて欲しいと願っていた。

 ………こんな時に人は宗教にハマるのかななんて、冷静に自分を分析してる自分に苦笑いさえしていた。

 

 雨の朝にトボトボと彷徨う僕は、周囲からみたら不審者に見えるかもしれない。

 



 9時頃


 僕は勇気を出して、彼女の部屋のドアを開けた。

「ただいま、戻ったよ。」

 すると涼音がリビングから玄関ドアまで駆け出してきて迎えてくれた。

「おかえりなさい」

 ……満面の笑顔のピュアが僕に抱きついてきた。


 涼音はこれまで、僕が帰った時に玄関まで走って迎えてくれた事はないし、声を聞いたら判る、……これはピュアだ。

 ……やはりダメだったか。



 いつもの椅子でニュースチェックしていると、ピュアは僕に熱い紅茶を入れてくれている。嬉しいんだけど、涼音はこういう事には気が利かない……、逆に僕が気を利かせてお茶を入れる係りだ。

 たぶん、その時の僕は浮かない顔をしていたのだろう。

 それは、熱い紅茶がティーカップからなくなる頃だった。


「おはよー!お父さん」

 え!少しだけ懐かしい声に振り向く。

 彼女は僕の椅子の前の床にペタっと座って僕を見上げている。


「涼音? 本来の涼音?」

「うん、ただいまー! 戻ったよ」

 彼女は、僕の膝のすぐ傍から僕を見上げてる、それは子犬が信頼する飼い主を見上げるように。


 僕は彼女を抱き起して、椅子に座る僕の膝の上に座らせた。

「このポンコツ娘!! どれだけ心配したと思ってるんだ!!」

 デコピン1発からの、頭ナデナデ……、そしてぎゅっーとハグ。


「エヘヘ、ごめんってば。」

 これ、これ、この感じだ……あの涼音が戻ってきた。

 それならば!!美緒達………。


「美緒ー!!」

 彼女は、ぱっと僕の膝から飛び降りて、少し距離をとって僕を眺める。


「……なんだよ、オジサン、呆けた顔して、マジ笑える!」

 そう言って僕を指をさし、笑い出した。

「相変わらず口悪いなー、一応心配してたんだぞ……。」

「ハイハイ、ありがとうね。」


「……えっとじゃ、次は……美雪!」

 今度は僕に抱き着いてきて、唇を重ねてきた。

「やっと呼んでくれた……。待ってたのにー……これから、してくれるんでしょ?」

 艶ぽい声で僕を早速誘惑してくる……、これは美雪だわ!

 そして、……するわけないだろ!!

「戻ったみたいね……。今はそんな暇ないから、あと!あと!」

 僕は彼女を押し剥がす。


「えーつまらない……。」

「上目使いで見つめてもダメ!……えっと次は鏡!」

 今度は、すっと僕の正面の椅子に座ってニヤニヤと僕を眺めてくる。

「フフ、どうしました?」

 あー、この悪党声さえ今は嬉しい。

「鏡が消えてたみたいだから、一応は心配してたんだぞ。」

 やっぱり僕も悪人顔にならなきゃだよね。

「フフ、少し混乱が起きましたね、少し整理すれば大丈夫ですよ。」

「そっか、まぁ消えるようなタマじゃないとは思っていたけどね。」

「フフ、光栄です。」


 良かった、みんな元に戻った。

 僕は涼音に昨日からの出来事を話し始めていた。多分満面の笑みだったと思う。

 すると、会話の脈絡も何も関係なく彼女が叫んだ。

「桜花だのーーーん!」

 意味がわからない。

「はい?」

「だから、私は桜花のーーん!」


 ……涼音は桜花だった。……元気のない僕の事を心配してくれたみんなが、僕に優しい嘘をついてくれていたのだった。


 キャスティングは……

 涼音役は桜花、美緒役は由比、美雪役は転生した15歳の美雪、鏡(裏人格)役は美理が演じたそうだ。


 由比なら、美緒を演じるのは、たぶんそう難しい事ではなかったろうと、由比が消失した時に、由比を演じてたのが美緒だったよね。この配役に素直に納得した。


 転生美雪(15)は、「ファーストキスなだったのに、相手がオジサンだなんて」……と半泣きで愚痴をこぼしてる。……みんなに「美雪、やれ!」と言われて、仕方なくファーストキスを捧げてくれたそうだ。はい、ファーストキスの相手が僕みたいなオジサンでゴメンナサイ、あなたは被害者ですね。(苦笑)


 あと、さすが幹部(勝手に僕が思ってる)の美理様、鏡(裏人格)のことをよく理解して演じてたなと……、きっと美理以外にはできない配役だったと思う。まさかとは思うけど、本当に鏡が美理だったりしないだろうな……。美理は自称コアの一つとか言ってたし。コアの意味がイマイチよく判ってないんだよね。


 桜花は僕と話していてら、居たたまれなくて、ついに正体をバラしてしまったのだとか……、結局のところ良い子だよね。でも、せっかくの演技を台無しにした桜花には、他のキャストから非難の集中砲火が降り注いでいた。


 僕は……、怒るに怒れません。

 ほんとうに、みんな良い子達です「ありがとう」。



 寸劇のネタバラシで笑い、そして楽しんだ後、僕はいつもの椅子に座り直して、ため息をついていた。結局、涼音は戻ってないのだから。


 彼女は、涼音の定位置の床のクッションに座って、そんな僕を虚ろに眺めている。


 少し時間が経った頃、また声が聞こえた。

「お父さん……」

 さっきの演技と違って、少しトーンは低いけど、それはやはり懐かしい声だった。

「涼音……?」

 彼女は大きく一度頷くと、座ったまま腕を使って僕の膝の前まで滑りながら移動してきた。

 一瞬、「かまって! かまって!」と言って僕の膝を揺らした彼女を思い出す。


 僕は、さっきの寸劇の事もあるので、何度も何度も確認をした。

 そして、涼音が戻ったのだと確信した。

 ついに涼音が戻ってきた……。たぶん24時間前の涼音。

 昨日の午後、異変に気付いてから、ほぼ徹夜で過ごしていた長い時間……。



 僕から緊張感が抜けて、虚ろになった……。安堵の脱力。

 さっきの寸劇で、再会の喜びのエネルギーを使い果たしてしまったのかもしれない。

 あんなに待ちに待った涼音が戻ったというのに、僕は椅子に座ったまま虚ろに涼音を眺めていた。


 数分後、涼音はいつの間にか由比に代わっていて、僕を今までにない鋭い目で睨みつけていた。


「いつきさんは、主が戻ってきてくれたこと、嬉しくないの?」

「主(涼音)に戻って欲しくなかったの?」

 そう言って、僕を鋭い目で睨み続けている。

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