33-半年前の涼音さん

 あれから約2時間。


「うーん……なかなか思い出せないなー。」

「私の周りに、いろいろなのがあるのは判るんだけど、手が届きそうで届かないの。」

「なんかさ、ふわふわしてるんだけど、掴もうとすると掴めないの。」

 涼音はそう言って僕に肩を寄せて来る。


 あれから、彼女は必死に記憶を取り戻そうとしてた、僕はその隣に寄り添っていた。本当に一時的なものなら良いのだけど、病院とか実家の親とかのお世話になるのは避けたいしね。

 それにしても、携帯端末の操作はわかるのね、時々自分で操作してはクビをかしげている。食事したり、着替えたりみたいな生活習慣に近いものなのかもしれない。


 僕は考え事をしようと、彼女から離れていつもの椅子に腰を降ろす。

 その時に、また彼女の携帯端末のメッセージ着信音が鳴った。瞬間、僕はヤバイと思いつつ、止める間もなかった。反射的に携帯を操作してメッセージを確認する彼女……。そして次の瞬間。


「キャー! イヤー!!」

 彼女は悲鳴をあげて倒れ込み、身体をかばうかのように丸くなる。


 慌てて僕は駆け寄る、雪村(彼もどき)からのメッセージに違いないだろう。

 彼女はガクガクと震えていた。


 2時間前にチラっと雪村のメッセージを見ていた僕。あのメッセージを送って2時間返信がなければ、またメッセージが来るのは予想しておくべきだったのだ。彼女に携帯端末を好きに触らせるべきじゃなかった。


「……しかたありませんね。」

 いつの間に代わったのだろう、冷静で冷たい声がした。

 彼女は身体を起こし携帯端末を掴んで操作をはじめる。

「後は、私にまかせてください。」


 月乃が雪村に返信を送ってくれるらしい。

 その冷静な行動に、僕もまた冷静さを取り戻している。

 雪村のメッセージを見てショックを起こしたということは、覚えてる?思い出した?さっきも、雪村のメッセージを見て記憶を取り戻したし、今度もまた記憶が戻ってるかもしれない。


 彼女はメッセージを送信すると、ため息をついた。

 月乃がため息をつく姿を見るのは初めてかもしれない。

 彼女もまた、ひどく疲れているように思える。


「ね、涼音は今ので記憶が戻ったかな?」


「……さあ、どうでしょう?」

「今、主は部屋に閉じこもってしまったので、もう少しここにいますね。」

 そう言うと、彼女は僕に肩を寄せてきた。


「僕は月乃がいてくれて、本当に良かったと思う、信頼してるよ。」

「光栄です。」


 彼女の口調は、いつもと変わらず冷たく、そしていつもと同じく冷静だ。

 今の僕には、そのいつもと変わらない彼女が頼もしいのだ。

 僕は彼女の肩を抱く腕の力を少しだけ強くして、抱き寄せていた。


「おはよう、お父さん。」

 数分後に涼音が覚醒してきた。


「お!おかえり。 思い出した?」

「ううん。」

 彼女は首を横にふる。

 僕の淡い期待は、簡単に消えていった。


 雪村のメッセージに彼女は反応した、けど記憶は戻らない……。

 記憶喪失状態でも彼女は強いショックを受けてしまう。……雪村君、君はすごいよ。どんだけ強力なトラウマ化してるんだ、どうしたら付き合ってる筈の彼が、彼女にとって強力なトラウマ的に存在になれるんだよ……。

 記憶を失った状態で、唯一覚えられていた自分の事は棚に上げているけれどね。



 その後も、彼女は自分の記憶を探していたようだけど、無理せず早めに眠るよう薦めた。『記憶は夜に作られる』とかよく聞く言葉、ゆっくり眠れば朝には記憶が戻るかもしれない。

 僕達は、アタリマエのように二人で彼女のベットに横になる。

 実は、僕は少し不安だったのだ……、僕の記憶も少し巻き戻っているのかもしれないと……もしそうなら、僕はどこまで巻き戻っているのだろうかと。


「お父さんと同じベットで不思議に思わない?」

「え?だってお父さん、恋人でしょ?いつもの事じゃん。」

 そう言って腕と足を絡めてきた。

 彼女の返事に安心するけど、ちょっと記憶書き変ってない?


 こんな状態の彼女だけど、僕はその夜も彼女の若い頃の記憶の断片と語り合った……。それは、記憶は消えたわけじゃない事の証明。記憶は確かに存在している、思い出せないだけなのだ。




 土曜日、記憶喪失2日め。

 やはり、涼音は記憶を失ったままだった。

 

 必死に自分の記憶を探してるらしい、僕はそんな彼女を邪魔しないように見守っている。

 予想はしていたけど、洗顔を一人でできる、着替えもできる、食器だって使えてる。もちろんトイレにだって一人で行ける、さらに携帯端末も操作している。生活する上においての日常の行動に関しては、身体にしみついて覚えているのだろう、全く問題なかった。彼女の場合は、イザとなれば別人格がそれらの行動を代行する事が可能だけど、その必要がない事は安心材料だ。



 !!彼女の携帯端末からメッセージ着信音。

 止める間もなく、彼女は反射的なのだろう、メッセージを確認する、そして悲鳴を上げて倒れ込む。


 僕はこの時に新しい技を繰り出した、彼女を強く抱きしめて唇を重ね、耳元に「大丈夫、忘れなさい」と囁きかける。強張った彼女の体から、すっと力が抜けていくのを感じる。……成功だ。



 その後で、月乃を呼び出していた。


「雪村のメッセージをブロックとか着信拒否できない?」

「それは……、私は主(涼音)のプライバシーには関わらないつもりなので……。」


「関わらないって、返信とかしてるじゃん!」

「……それは、……やむを得ずです。」

 やむを得ず対応ね。確かに緊急事態に対応してるようなモノだから、それは納得せざる得ない。


「じゃ、着信音が出ないようにとか、通知を切るとかならどう?」


 彼女は少し困ったような表情を見せる。少し考えたのだろう。

「はい、それくらいなら……。」

 彼女は携帯端末を手に取り操作をはじめる、設定を変更してるのだろう。


 ……月乃は涼音を頑固だと言っていたけど、月乃も頑固だと思うよ。結局同じ根を持つ人ってことだよね。




 その後。


 涼音は、まず元気を取り戻していた。

 そして、先週も見せていた幸せな表情で笑うようになってきていた。

 ……それに関しては、嫌な事を全て忘れてるのだから当然かもしれないけど、僕にとっては嬉しい事。

 だが、肝心の記憶の方は芳しくない、彼女は両親の事すら思い出せていない、相変わらず彼女の記憶に存在する他人は僕だけの状態らしい。


 僕の中は不安でいっぱいなのだけど、僕はそれを隠すかのように幸せそうな彼女のパートナーを演じていた。……本当は演技じゃないのかもだけど……、自分でもよくわからなくなってきた。


 彼女の中に僕しかいなくても、二人だけで過ごすのなら僕らは何も問題なく幸せに暮らしていけるだろう、だからこの休日において僕らは全く困る事がなかった。でも、僕達は社会人……。他の人と関わらずに生活を続ける事はできない、やはり彼女には記憶を戻して欲しい……。嫌な記憶は除いてね。




 記憶喪失3日め、日曜日夕方。


 彼女は比較的早くに、自分が多重人格であること、別人格達の事を思い出して、そして人格達を知覚していた。だけど、それ以外はさっぱりで、自分自身の個人情報すらよく思い出せていない。


 時間に余裕があると思っていた週末も、あっという間に終わりを迎えようとしている。そうなると、二人だけなら困らないは通じない、彼女は会社から警告を受けていて、これ以上休むわけにはいかないのだ。


 そんな訳で、僕は月乃と会議をしていた。

 鏡(裏人格)・美理・時雨・琴音など幹部臭が漂う人格は他にもいるけど、僕にとっては人格のまとめ役を自称する月乃こそが人格達の代表であり、そして信頼できる存在だった。


「やっぱり、病院行ったり、実家のお世話にはなりたくないんだろ?」

「はい、主(涼音)も嫌がると思いますし、私も嫌です。」

「……となると、明日からの仕事だけど……。」

「私達で頑張るしかありませんね……。主(涼音)もそれで良いと言ってますし。」


「でも、今度は涼音が落ちたら交代じゃなくて、朝からフルタイムだよ。」

「それでも、私達ががんばるしかありません、やってみます。」


 実際のところ、心配ではあるけど他に手がないのだ、人格達にがんばってもらうしかないだろう。先週はハーフタイムみたいな形でなんとかなっていたし、先週は研修を受けてたみたいなものだと思えば、なんとかなりそうな気はする。

 ……そんな事を考えていると、他の人格が月乃を押しのけて会議に割り込んできた。


「私が仕事に行きましょう!」


 あれ?この声は涼音の声のような気がするけど……。


「……えっと、あなたの名前は?」

「涼音です!」


「え?」

「ハイ?」

 見つめ合う二人。


 それから彼女は少し困ったような表情になるが、すぐに意思の強そうな表情を取り戻す。


「えっと、こう言えば判るよね……。22歳の涼音です。」

「確か……、えっと、半年前の私です。」


「え!あっ!ああっ!……22歳の涼音さんか、お久しぶり!。」


 それは、僕が夜中に話した事のある約半年前の記憶の断片の涼音だった。

 その頃の彼女は、別の部署だけどポジティブ思考でバリバリ仕事をこなしていた頃だった。


 僕は過去の涼音の記憶から、ワンシーンだけを切り取ったかのような過去の涼音達と、ほぼ毎晩お話をしてる。そして、そんな過去の涼音達を、固定された記憶の断片と思っていた。

 そんな過去の思い出のような存在が、月乃を押しのけて出てきて、自分が仕事に行くと言った事に驚いた。

 考えてみれば、わずか半年前の本人の記憶、代役にこれ以上の最適解があるだろうか。


「できるのなら、お願いするよ。」

 僕に断る理由はない……、逆に大歓迎だった。


 半年前といえば、雪村(彼もどき)と付き合い始めた頃だった筈、仕事はともかく当時の気持ちのまま雪村に接近されたらマズイ事になる。


「念の為教えておくけど、今は雪村とは冷戦状態、お別れ直前って感じかな。」

「……だから、雪村に連絡を取るような事は絶対にしないで欲しいんだ。」

「ふーん……、なーんだ、アイツとも結局続かないんだ……。判ったわ、問題ないよ。」

 彼女は大して驚きもせずにソレを納得する。


 これで22歳の涼音で懸念される事は解消した、これは明日からお願いするしかないね。


「それじゃ、明日よろしく頼むよ。」

「うん、任せて! 明日朝に代わるね。」


 僕は戻ってきた月乃に、今の事を報告して了承を得ていた。

 これで、明日からの方針は決定。22歳の涼音と別人格達にお仕事をがんばってもらい、涼音本人には引き続き記憶を取り戻す努力を継続してもらう。





 月曜日、早朝。


 目覚めて直ぐに22歳の涼音に交代した。

 すごい違和感……。あの涼音が朝からすごいテキパキと洗顔やら着替えを、あっという間に済ませていく。着替える時に僕がいても全く関係ないって感じで、堂々と着替えるのは一緒ね。

 彼女は僕と手を繋いで歩いたりはしない、歩く速度も速い……。身体全体からやる気オーラを感じるんですけど。


 今の涼音と、22歳の涼音は本当に違うのだと改めて思ったのは、駅近くの信号機のある交差点でだった。

 いつも横断している交差点の信号が赤になると、22歳の涼音は当たり前のよう次の交差点まで真っ直ぐに歩いた。涼音はこれまで信号が赤になったら、その交差点の信号が変わるまで立ち止まって待っていた、今まで一度も先の信号機まで行って横断した事はない。


 合理的な判断と行動……、失礼かもしれないけど今の涼音はこういう行動はしない。そして、生米の駅に着くと「ありがと、ここでいいよ!」そう言って、振り向きもせずに朝の通勤の人の流に消えていった。


……半年前の涼音さんってあんなだったのか……。なんかスゲー!!


 夕方も、「駅に迎えに来なくていいよ」とメッセージが入ったので、部屋で食事を準備して待つだけで良かった。




 そして帰宅した22歳の涼音さん……。


「なによアレ! 仕事簡単すぎてつまらない!! 暇、暇、ひまーだった!!」

「同僚は使えない奴ばかり、お話してないで手動かせってーの!」

「もーダメ! 私、我慢できない。」

「あんな簡単な仕事は私の仕事じゃないわ、誰でもできるでしょ!」

「今日で終わるね!」


 今朝までやる気に満ちていた22歳の涼音さん。……1日でサジ投げた。



 そういえば、涼音の仕事でのストレス原因の一番の大元って、まさに22歳の涼音が今言ってた事だよね。ポジティブな涼音さんを壊して、今のようにした原因が『仕事』なのだとハッキリ理解できた。先週、涼音が朝は元気なのに、半日くらいで落ちてしまっていたのにも頷ける。


 そして、あっさり引退した22歳の涼音さんは、緊急時には強引にお願いする保険としてキープして、明日からはレギュラー人格達がフルタイム労働を開始することになる。


 今の涼音に確認すると、職場を後ろから見ていたのが良かったかの、仕事の事を少しづつ思い出してきてるらしい、そして自分の個人情報はほぼ思い出したと言っている。個人情報といっても、家族とか住所とか履歴書に書くような事柄らしいけど。

 それでも、彼女の記憶を取り戻す作業は少し良い方向に進みはじめていた。

 

記憶を失った彼女が生活していけるのか不安だったけど、こうして無事に動き出した。


 僕はこの順調な滑り出しを破壊しかねない、危険な爆弾の処理を始めようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る