32-週刊記憶喪失

 午前中、僕と涼音はゆっくり過ごしていた。


 もしかしたら、一晩眠れば記憶が戻るかもなんて期待もあったけど、彼女の記憶は相変わらずだった。

 自分の記憶が欠けているという事を徐々に自分で認識しているらしく、時々不安がるけど、それでも幸せそうに見える。

 記憶が欠けているという自覚すらないのは、幸せなのかもしれない。

 でも、記憶が欠けていることを少しづつ自覚することによって、不安も生まれてきてるだろうことは容易に想像がついた。


 そして、仕事など普段の生活に関する記憶を少しつづ取り戻してきていた。

 頭痛や、短時間の意識落ちの時に、いろいろ思い出したりしてるっぽい。





 午後に涼音の携帯端末にメッセージが届いた。

 開いてみると、それは仕事先からの「契約解除警告」だった、


 最近、少し当日欠勤が多すぎたらしい。

 法的根拠がどうのというより、ネットのメッセージで届いたものなので、文字通りの警告なのだと思う、口頭注意のようなイメージね。……出勤したら正式な書類で渡される可能性もあるけどね。

 内容は、5月の締め日まで1日でも欠勤があれば契約解除するかもという警告文だった。

 

 約一ヵ月、こんな状態だけど大丈夫かな?


 仕事関係の記憶は戻りつつあるし、月乃や桜花も協力すると言っている。特に、記憶領域を涼音と共有してる桜花の記憶が、何故かしっかりしてる事が安心材料。たぶん、桜花さえいれば仕事はできる気がする。

なんとかなるかな。


 ゲームSOAの記憶も戻ったみたいだけど、日課の時間になってもプレイしようとしない。あんなに大切にしていたゲームと仲間達なのに、プレイする気が起きないという。 

 仲間を大切にする、それもティアの影響が大きかったということかな……。

 今はまだ断定できない。


 そんなゲームの心配より、今は優先順位の高い問題が僕達にはある。

 こうして、数人の人格達がフルサポートする、

 『1日も休めないの、出勤するよ作戦(仮称)』が開始されることになった。





1日目 火曜日


 僕はその日から、会社の最寄り駅まで送り迎えをすることにした。

 出発前から判っていた、自分のバカップル行動に耐えるしかないと。


 駅まで手を繋いで歩き、駅のホームでは手を繋いで電車を待つ。

 電車の中で涼音は、腕を掴んでたり、ジャケットを掴んでいる。

 身長の低い涼音は、電車の中ではそうしてた方がラクなのは理解はしている。

 そして彼女のバックはマンション出発時から会社の最寄り駅までずっと僕が持っている。

 ハイ、スミマセン、バカップル全開です。


「大丈夫! いってきまーす!」

 人目も気にせず、元気に手を振って出勤した彼女。……あっけなくお昼前に落ちる。


――――――――――

主落ちた

あとは私達でがんばります

桜花・月乃

――――――――――


 こんなメッセージが届いたのは11:30頃だった。


 途中で月乃がやらかしたらしい。

 月乃はもともと優秀なのだろう、桜花の指導もありテキパキと仕事をこなしていたそうだ。そして効率の悪い仕事をしてる同僚の仕事に切れた。


「あなた達は今まで何をしてきたのですか? もう少し手早く仕事をすすめてください。」

 こう言い放って場を氷りつかせたらしい。

 それを後ろで見ていた桜花は大汗。月乃も桜花に注意されて凹んでしまったらしい。……さすが場を氷りつかせる天才。


 夕方迎えに行くと、月乃のままだった。

 涼音と同じように手をつないで歩き、電車の中では僕に掴まる。月乃がそんな行動するとは思ってなかったから、意外にかわいいと思えてしまった。

 月乃が蕎麦好きだと言っていたので、今日の感謝を込めて、乗り換えの品川駅で立ち食い蕎麦奢ってしまう。……可愛いって思われるとお得ですね。


 このまま一緒に月乃と帰宅するのも新鮮だなって思って、デレデレしながら生米のホームに降り立っと、涼音が「おはよー!樹さん」って目を覚ます。

 ……涼音は場の雰囲気を破壊する天才ですね。


 しかも、蕎麦食べてきたので、夕飯は少しだけと思っていたけど、「肉肉肉」と騒ぐ涼音の為に牛丼を作った。

 肉食娘め!


 職場で、書面での警告文書は渡されてないので、法的な根拠に元ずく警告ではなく、あくまでも注意の一環なのだと思える。




2日目 水曜日


 その日は、午後の仕事が始まった直後に落ちた。交代は、やっぱり月乃と桜花。

 昨日と同じように月乃と帰宅。

 何故かやはり生米の駅に着くと「おはよー!樹さん」と涼音が目覚める。




3日目 木曜日


――――――――――

なんで誰もいないんだよ

しかたね、オレがやるか

月斗

――――――――――


 お昼過ぎにやはり涼音が落ちて、今日は唯一の男性人格の月斗だった。

 大丈夫だろうか……、心配。


 終業近くなると。


――――――――――

更衣室で着かえるんだよな

ヤバイ、オレどうしたらいい?

――――――――――


 あらあら、意外に月斗さんウブ、返信送ろう。


――――――――――

何年その身体に同居してるんだよ

女の裸なんて見飽きてるだろ?

気にしないで堂々と着替えろ

――――――――――


「なんでオレが……」とブツブツ文句を言う月斗と合流して帰宅の途につく。

「オレそういう趣味ないから!」と手をつないだりはしない。僕だって男と手をつないで歩く趣味はない。

 身長150cm、綺麗なロングヘアで整った顔、中身は男、何かに需要ありそうな気がする。たぶんモテるよ月斗君……。腐った女子とかに大人気。

 そして、当然のように生米の駅で「おはよー!樹さん」と涼音がお目覚め。




4日目 金曜日


 今週のお仕事終了、帰宅途中の電車の中、彼女の中身は月乃だった。


「樹さん」

「ん、何?」

 電車の中で、月乃が僕の腕を掴んだまま、僕を見上げて声をかけてくる。


「私と月斗は、雪村(彼もどき)の事を完全に思い出しました。」

「主が思い出すのも時間の問題だと思われます。」


「そうか……、時間の問題か……、了解。」


 僕は月乃の言葉を聞いて、ついにその時が来るのかと不安になっていた。

 その時にどんな状態になるのか、今はまだ全く予想できない。

 そして、生米の駅につくと……「おはよー!樹さん」。コイツは生米アラームかよ。




 火曜日から今日まで、涼音は帰宅直後の幽体離脱のような休憩はなくなっていた。

 ゲームもしてないから、夜中の休憩タイムもない。

 いつもお昼くらいに落ちて、それ以後の仕事を別人格に代わってもらい、夜に生米の駅についてから「おはよー!」の生活なのだから、疲れていないのだろうね。


 その為、僕と涼音は他の人格に交代しなが、以前よりも長く楽しい時間を毎日過ごしていた。仕事を1日も休めないという緊張感はあるけど、とっても楽しい時間のように感じられていた。今更だけど、僕も涼音も他人との同居生活が苦手な二人であるけど、僕らはお互い全く息苦しさを感じてない。


 今日もお風呂上り、ワンピースパジャマの涼音が乾いたばかりの髪をブラッシングしろ!のいつものポーズをとってくる。

 いつものように、丁寧にブラシを通していく……。気分は下僕です。

 彼女は鼻歌を歌いながらブラッシングされている。

 それは、幸せな日常。


 鼻歌が止まる。


 一瞬少し違和感を覚えた。

 彼女は、顔を動かす事もなく呟き始める。


「さびしい……、離れないで……。」


 それは泣きそうな細い声。

 !!ティアが戻った?

 ブラシを通しながら、恐る恐る声をかける。

「ティア?」


 彼女はそのまま微動だにせず答える。僕にはその表情は見えない。

「……いつきさん お久しぶり あいたかった……。」


 そして、そのまま無言になって、また鼻歌を歌い始める。

 それは、1分にも満たない短い時間の出来事だった。


「涼音?」

「何?」

 その声はいつもの涼音だった。

 

「今、何か言った?」

「ううん、何も言ってないよ。」

 やはり、気付いてない、一瞬すぎて記憶が飛んだ意識もないのだろう。


「……なんだ、空耳かな。」

 空耳のわけないよね、月乃が思い出すのは時間の問題と言っていたけど、まさか記憶より先にティアが戻ってくるとは思っていなかった。

 いや、僕は記憶が戻ってもティアが戻って来ない可能性を望んでいたのに。


 髪の毛のブラッシングは、そのまま無事に終了。


 僕は不安を大きくさせながらも、彼女とネットで配信されてる映画を見ていた。

アメリカのコメディー映画。

 涼音の笑いは僕より早かったり、微妙に違う場所で笑ってたりする。

 僕は日本語字幕を必死に追ってるけど、彼女は聞こえてくる英語をそのまま聞いているから僕より笑いのタイミングが早い。それに、翻訳で若干元の意味が変えられてるんだろうね、僕が笑わない箇所でも笑っている。


 彼女の端末からメッセージの着信音。

 彼女は片手で端末を掴んで着信を確認する。


「イヤーー!」

 突然、悲鳴を上げて床に倒れこんで、胎児のように丸くなる彼女。

 僕は反射的に投げ出された端末の画面を見る。


――――――――――

いいかげんにしろよ

今週は逢えるんだろう?

――――――――――


 それは雪村(彼)からのメッセージだった。


「涼音! 涼音!」

 僕は慌てて彼女に呼びかける。


「イヤー もうやだーー! イヤー!」

 彼女は半狂乱で悲鳴を上げ続ける。

 雪村のメッセージをトリガーに記憶が戻ったのだと思った。


「思い出したの?」

 彼女は僕の目を見ながら2度頷いた。


 そして胎児のように丸まったまま呟く。

「いや……、いや……、もういや!、たすけて……。」


「忘れて、それはいらないモノだから、忘れて。」

 たぶん、そんな事を言っても無駄だろう事はわかっていた。


 そして、また彼女の声が大きくなっていく。

「いや、いやだ、もういらない、こんなのイラナイ!!」


 そしてそれは、やがて叫び声になっていった。

「もうやだ!! こんなのイラナイ!!」


「もうイヤ!!!! こんなのイラナイ!!!!」


 ……この叫びを最後に彼女は静かになった。



 目を閉じてる。


「涼音……、涼音!」

 返事はない。

 完全に落ちたみたいだ。

 

 他の人格を呼んでみるが、やはり誰も反応がない。

 全員シャットダウン状態になったみたい。

 少し様子を見るしかないかな。



 たぶん、雪村の事も含めて、過去のいろいろな事を一度に思い出したんだろうな。

 想像でしかないけど、それは沢山のトラウマを一斉に目の前で再生されたようなものだったのかもしれない。


 この先、どうなるか判らないけど、これが金曜日の夜だったのが救いかな。

 ……とりあえず2日間は仕事の心配しなくて良いからね、契約解除予告で1日も休みたくない今の状況で、今が金曜日の夜なのが小さな救いだと思う。






 刻美(きざみ)は片隅で、頭を抱えていた。

 先週の大嵐しでバラバラになっていた記憶の書庫。

 やっと整理がついてきたところなのに、また爆発したかのようにメチャクチャになったからだ。

 私は、鏡の元で記憶の管理をしている。

 もう!ここ忙しすぎてイヤ!





 1時間くらい過ぎたろうか、すっと涼音が上半身を起こして、お部屋をキョロキョロ眺める。


「涼音?」

「えっと……、あ!お父さん?」

「あ、良かった、目が覚めたんだね。」


 涼音は僕を数秒見つめた後、また部屋をキョロキョロ眺める。


「ん……涼音、どうかした?」


「……お父さん……」

「うん?だから何?」

 彼女は僕をずっと見つめる。


「あれ?私誰だっけ?」

「え?」

「はい?」

二人で顔を見つめ合う。


「涼音でしょ」

「すずね……すずね……涼音だ、うん思い出した。」


「え?」

「はい?」

 再び二人で顔を見つめ合った後、涼音は周囲をキョロキョロ見回す。


「お父さん、あの……。」

「うん?」

「私……、何も思い出せないの……。」


 聞くと、僕の事と自分の名前以外何も思い出せないらしい。

 えっと、また記憶喪失……かな?



 僕は月乃を呼び出して確認してみた。

 月乃は雪村の事も含めて、全ての記憶を持っていた。

 由比、りさ、ましろにも確認してみたら、皆記憶は大丈夫だった。


 涼音だけ記憶が飛んだなら、一時的なものかなって思っていると、美理がでてきてその希望を打ち砕いた。

「主(涼音)が、戻ったばかりで不安定だったティアを、入れ物ごと壊しました。」

「入れ物ごと?」

「はい、入れ物ごとです。」


「じゃティアは戻せなくなるの?」

「入れ物がないと難しいと思います。」


「主が自ら強引に壊した為に、主の記憶が大きく壊れました。」

「修復はしますが、時間がかかると思います。」


「……そうなんだ。」


 さっき、涼音は僕の事と自分の名前しか思い出せないと言っていた。

 前回は人間関係や、あと多分イジメ関係を中心に忘れてたけど、他の事は結構覚えていた。今回は、ほとんどの事を忘れてる、……大きく壊れたというのは、そういう事なのだろう。


 ……よくも、僕の事を覚えていてくれたものだ、一瞬自分の名前すら忘れていたというのに。そういえば、僕の呼び方が「樹」から「お父さん」に戻っていた。僕の事も少し巻き戻ってるのかな?。


 前回は僕には保険があった、イザとなったら僕がティアを呼び戻せば、記憶が全てが元に戻るだろうという保険。しかし、今回はその入れ物(保険)ごと壊れてしまっている。


 美理は時間がかかるけど修復すると言っていた。

 別人格達は記憶を持っているから、なんとなく修復はできると思えるけど……。

 一体、どうなってしまうのだろう。

 いよいよ、涼音がいつもの涼音であるなら一番嫌がる事、病院や実家の両親のお世話になる必要もあるかもしれない。


 ……それにしても、涼音に出会ってから、事件はいつも週末に起きてる気がする。

 以前は、「週刊ポンコツ娘」と言っていたけど、「週刊記憶喪失」になってきた。

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