31-幸せそうな顔
土曜日 21:30
ドロップが涼音を返してくれた事で僕は安堵していた。
それ自体がバグなのか、バグによって復活したのか判らないけどドロップという危険から涼音を守れたと思っていたからだ。
夕方、夜と何事もなく平和に過ごしていたのだから、僕はすっかり油断していた。。
土曜日 夜。
僕達は日課のゲームSOAをプレイしていた。
僕は、プレイする彼女の隣で、時々会話をしながらゲーム画面を眺めている。
僕の声は彼女のマイクを通してパーティーチャットにも聞こえてる。その辺は、カミングアウトしてしまっているから問題ない、それなら僕も楽しまなきゃ損だよね。「由比ちゃん出してー!」なんてリクエストもあったけど、今は無視。
楽しい時間を過ごしていた。
……それは、何の前触れもなく突然に始まった。
「ウッ!」
感電したかのように、一瞬だけ彼女の身体全体に力が入り顎が少し上がった、そして次の瞬間にはカクっと下を向き、幽体離脱してもしたかのように固まって動かなくなった。
その瞬間は、僕にもはっきり判った。
彼女に何か衝撃が走ったのだと、だって、僕もその瞬間に衝撃を感じていたのだから。だから、これが普通に落ちたのではないと瞬間的に判断できたのだ。
「ごめん!桜花(涼音)の容態が急変した、落ちる!」
僕はマイクに叫んで、すぐにログアウト処理をする。
彼女をパソコンの前から床の柔らかいクッションのところまで、抱きかかえて連れていく。彼女は目は開いているけど、意思を持たない人形のようだった。
「涼音! 涼音!」
何度か呼びかけると、彼女の目に力が戻ったような気がした。
「あれ?私……。」
良かった、普通じゃない衝撃に心配したけど、涼音は覚醒してくれた……。
だけど、その安堵は次の彼女の一言で消し飛んだ。
「あなた、誰だっけ?」
僕の事を忘れている……。
「えっと待って! 判る気がする、えっとえっと……思い出した!。」
「ごめーーん!樹さん。はじめての彼氏を忘れるなんて、私酷いよね。」
え!え!……ええ!?……はじめての彼??
僕は彼女の記憶を確認した。
僕以外の、雪村を含めて過去に付き合った人の事を全て忘れてるらしい。
家族とか仕事の事は少しだけ覚えているようだった。
僕は月乃を呼び出してみた。月乃達が健在で少しホッとした。
月乃達の記憶の欠落状況は涼音とほぼ同じ、過去の交際相手の事はスッポリ抜け落ちている。
琴音が僕に話しかけてきた。
「先ほど、ドロップがティアを巻き込んで自殺しました。」
「その影響で、記憶の一部が欠落しているようです。」
「え!!ドロップがティアを巻き込んで??」
「はい、そして消えました。」
僕のせいだ……。
ドロップ……、僕はドロップの事を想い出して泣きそうになっていた。
ドロップは僕の言葉を受け入れてくれたのだろう。
『ティアと一つになるべきだ』という僕の提案。
ドロップは僕の提案を、ティアを巻き込んで一緒に自殺するという事で実行したのだろう。……ティアと一つになって消える、これが僕の提案に対してドロップが出した答えだったのだろう。
僕が感じたあの衝撃は、まさにその時だったということか……。
僕に伝えたいという何かが、僕にまで衝撃を感じさせてくれたのだろうか?。
ティアが消えた事で、ティアが今まで離さそうとせずに持っていた、過去の交友関係の記憶と人への想い、それがティアの消滅に巻き込まれて消えたのだろう。他にも巻き込まれて消えた記憶もあるだろう……。すぐに思い出したけど、僕の事も忘れていたのだから。
「では、私達は修復を急いでいますのでこれで……。」
琴音はそう言って消えていった。
修復……、治せるのか……、ティアもドロップも戻るのか……、過去の男達の記憶も戻るのか……。僕の中で小さな葛藤が始まっていたのを、僕はまだ気付いていない。
僕は涼音とお話をしている。それは記憶欠落の影響を探る意味もあった。
だけど、僕と話す彼女は、今までに見た事もないくらいとっても幸せそうだ……。
『憑き物が取れたようだ』というのは、こういう状態を表現した言葉なのかもしれない。
ティアの持っていたものの影響だけじゃないね……。たぶん、ドロップが抱えていたもの、イジメの記憶や人への憎しみも消えたのだと思った。今までに見た事もないくらい、幸せそうなで穏やかな彼女の顔を見てると、このままでも良いんじゃないかと思ってしまっていた。
憑き物が取れたように、幸せそうな涼音。
「いつきさん。」
深夜に由比に話しかけられた。彼女の声はいつも違って少し寂しそうだった。
「由比、お別れを言いにきたの。」
「え!どういうこと?」
「由比、今度こそ消えちゃうんだ……。由比ね、生贄なんだって。」
由比に話を聞いてみると、中の人格達は、消失したティアを戻そうとしてるらしい。僕の中では、ティアとドロップという二人なのだけど、どうも中の人格達にはティアという認識しかないみたいだった。
消失したティアが戻るには、入れ物が必要らしい。その入れ物とは『人格』。
由比はその入れ物になるとのこと。
「どうしてまた由比が犠牲に? 少し前だってみんなの痛みを取り除く為に犠牲になったばかりじゃないか。」
「由比、特別だから、由比じゃなきゃできないんだって……。」
それでも、それでも僕は……、それを受け入れたくなかった、どうして由比ばかり……。
どうして……、どうして……、どうして由比なんだ……。
たぶん、この時の僕は由比を困らせていたと思う。
そして、いつの間にか時雨に代わっていた。
「樹さん、大丈夫ですよ。」
「えっと……。」
「時雨です。……由比は大丈夫です。」
「由比は消えません、私が守りますから……。」
時雨は、今の状況と僕の心を見透かしてるかのようだった。
「由比の代わりに、私の声と聴覚を生贄に捧げますから……。大丈夫です。」
「私の声と聴覚は特別なものです、そこから人格を作ることができるのです。」
「……いえ、もともと私の声と聴覚は、人格の欠片のようなものです。」
……鏡(裏人格)の言っていた、『時雨の声は特別なモノ』というのは、こういう事だったのか。
「……人格の入れ物ができたら、樹さんがティアを呼び戻してください。」
「あなたなら、呼び戻せる筈です。」
「え?……僕が?」
「樹さんの声も特別なものですよ。」
「あなたが主人格と認識してる涼音の中で、あなたの声は特別なものになってきてるのですよ。」
「涼音が落ちた時に、私達には覚醒させることができなかった涼音を、あなたの声で何度も覚醒させてきたことをお忘れですか?」
「あなたが声をかけて大切にしてる人格は、誰一人消えていないしょう?」
「私達は今まで、簡単に生まれたり、簡単に消えたりを頻繁に繰り返してるんですよ。」
……そういえばそうだった、これまで僕の知る限り、誰一人として消えてはいなかった。一時的に消えてもすぐに復活している。
「でも、それじゃ……、せっかく話せるようになった時雨さんが、……声ばかりじゃなくて聴覚まで……。」
「私は大丈夫ですよ、元々声が出ませんでしたし、静かなところに慣れています。」
そう言うと、彼女の表情から力が抜けたような気がした。
「……ここはどこ?」
それは、声変わり前の少年のような声だった。
ドロップが泣き声じゃないなら、こんな声だろうか。
「君は誰?」
「ぼくは……空(から)………それしか判らない。」
「気がついたら、ここにいた。」
「ぼくは空(から)……。空っぽの空(から)。」
これが、たぶん入れ物なのだろう……。空(から)……、からっぽの「から」か……。不思議な人格の世界、ネーミングのセンスはあるんだなって思えた。
「そっか、気付いたらここにいたのか……。」
「今は安心してゆっくり眠てていいよ、後でまた声をかけるから。」
「うん」
彼女は素直だった、僕の言葉にゆっくりと目を閉じて、やがて寝息が聞こえていた。
……僕にはティア・ドロップを直ぐに呼び戻す事ができなかった。
せっかく時雨が、自分の声と聴覚を犠牲にして生み出してくれた人格の入れ物なのに。……憑き物が取れたような、幸せそうな涼音の様子を見てしまったから、僕は彼女を元に戻す事をためらってしまったのだ。
……彼女を僕だけの物にしたいというエゴもあったのかもしれない。
すでに時間は日曜日の明け方近く……僕は考えるのをやめて眠りについた。
僕が目覚めたのは、お昼近くなってからだった。
正確には、涼音に「樹さん起きて!」と何度も起こされてのだけど。何度も僕は生返事をしてお布団に抱き着いていた。やっと起き上がるまでに5回くらい起こされた気がする。
そういえば、今まで僕を「お父さん」と呼んでいたのに、記憶を飛ばして以後「樹さん」と変わっていた。
時間を感じさせない部屋の中で、幸せそうな笑顔の彼女、僕はそれが日常であるかのように、幸せな時間を演じている。もし、この時間だけを切り出せたら、それは幸せなカップルか夫婦そのものだろう。
時々頭痛がして、何かが蓋を開けて出て来ようとしてる感じがすると言う。
そして、少しづついろいろな事を想い出してきてるという、家族の事、仕事の事など……。だが過去男性関係は一切思い出せないままらしい。
僕の頭の中では空(から)にティア・ドロップを呼び戻す事への葛藤が駆け巡っていた。
午後。
僕は美理と話をしてた。
最近……、涼音の中の幹部みたいな雰囲気の人格達と話す機会が増えた気がする。
鏡(裏人格)は別格として、僕のイメージでは時雨や琴音は、他の多くの人格達や涼音からさえ知覚できていない特別な存在に感じられる。そして、皆に知覚されてるけど、自らをコアの一つと語っていた美理。
特別といえば、ティア・ドロップもそうなのだろうけど。
「入れ物は出来てますよね。」
「うん、昨夜、由比の代わりに時雨が作ってくれた空(から)に会った。」
「たぶん、あれが入れ物だと思う。」
「どうしてティアを戻してくれないのですか?」
「ちょっと色々迷いがあってね……。戻していいのかどうか、迷ってるんだ。」
「もう少し時間が欲しいかな。」
「そうですか……、意外でした……。」
「私達は、あなたが直ぐに戻してくれるものだと思っていたので……。」
気のせいか、彼女の表情は少し不満げになったような気がした。
「でも、その判断はお任せしますね。」
「……うん。」
「ですが……、入れ物がすでに存在しているので、あなたが呼ばなくても、いずれ戻ってきますよ……。それが何時かは判りませんけど。」
「そうなのか……戻ってくるのか……。」
結局、僕は決断を下す事ができず、涼音との幸せな日常を演じ続けた。
夜になっても、日課のゲームSOAにログインすることもなかった。
大切にしていたSOAのパーティーメンバー、その事も彼女は忘れているのだった。SOAの仲間を忘れているという件で、ティアが消えるというのは、こういう事になるのかと、僕は改めて実感していた。
バカだよね、気付くの遅すぎ、ちょっと考えれば判っただろうにね。
ティアは、涼音の交友関係全てに影響があったのだろう、ティアが消えた巻き添えでそれらの全ての記憶が消えたのだ。
こうなると、僕の事をすぐに思い出してくれたのが奇跡にさえ感じる。
それでも、僕がSOAのメンバーの事を話すと、少しづつ思い出してくれている。
ティア・ドロップを戻すと、たぶん全てを思い出すだろう、しかしそれは、雪村の事も含めて、イジメや彼女を苦しめてきた全てを思い出す事にもなる。そして、それは昨日まで僕らが置かれていた混沌と苦しみの日常に帰るということ。
こうして、緩やかに必要な事だけを思い出していくなら、それが良いんじゃないかという気持ちが僕の中で大きくなっていった。
……うん、ティア・ドロップを戻すのはしばらく保留にしようとその夜決めていた。
月曜日、早朝。
仕事の記憶が曖昧で、出勤は無理そうだった。
何故か月乃達別人格の方が、記憶の取り戻しが早い、記憶領域が異なるというのも一因だろうけど、別人格達は記憶を失った原因を把握して積極的に対応してるのも事実だった。それでも、過去の交際相手関係の事は全く思い出せてないようだ。
まず苦労したのが、会社への休暇連絡。
月乃と僕が二人で彼女の端末を開き、アドレス帳やらメッセージの履歴から苦労して連絡先を探そうとするが、なかなか見つからない。月乃は普段、主(涼音)のプライバシーに必要以上には関わらない方針なのだけど、それが今裏目に出ている。
「おはーのーん! 桜花のーーん!」」
突然、桜花が明るい声で挨拶してきた。
「のーん!って何だよ。」
「最近、中で流行ってたのーん!」
「今、月乃さんと大切な作業してるから、後にしてもらえる?」
「のーん!だから出て来たのーーん!」
そして、桜花は携帯端末を掴むと、ささっと操作して、あっというまに休暇連絡を上司に送信していた。
あの……、僕と月乃の30分以上の苦労は何のために……。
涼音と記憶領域を共有するという特別な桜花。
普通に考えたら、記憶は涼音と同じ状態だと思うのだけど……、何故か桜花は仕事の事など普段の事の記憶をしっかり持っていた。でも……、やっぱり過去の男性との交際の記憶はない。
「どうして桜花は涼音の思い出せない事わかるの?」
「のーん!判らないのーん!……のーん♪のーん♪」
桜花さん……、記憶がしっかりしてるかわりに、別のところ飛んでませんか?
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