26-ふたり
金曜日、早朝。
出勤前の朝は忙しい。
僕達は朝食を食べないけど、それでも忙しいものは忙しい。
急いで洗顔をして、着替え、ペットボトルのミルクティーを2つのコップに注ぎ、テーブルに運ぶ。
涼音は恒例の、目の前着替えを実施中。
……下着姿経由ね、ハイハイ……もう慣れてしまって驚きません。
ダークジャケットに白いシャツ、ゆったりしたダークパンツ。さすがに出勤の時はゴスロリじゃないですね……、アタリマエなんだろうけど。小さい体がより締まって、より小さいく見える。
「お父さんありがとう!」
彼女は立ったまま一気にミルクティーを飲み干す。
僕にヘアブラシを渡して、クルっと背中を向ける。
これは……ブラッシングしろって事ですね……。
時間がないけど、それでも丁寧に髪にブラシを通す……。ハイ、親バカです。
腰まである長い髪。これだけ長いと、髪の重さと重力のせいなのか寝ぐせも目立たないのね。
綺麗に髪の毛が整って、僕が満足してると、彼女は髪の毛を掴み、慣れた手つきで一瞬でお団子にしてしまう。……仕事行くんだから、そうなるよね。涼音に限らないけど、このお団子ヘアってすごいと思う。あの大量の髪の毛がコンパクトに収まる事に、僕はいつも驚いていた。
そして、二人で部屋を出て駅に向かう。部屋の鍵は僕が持っている。
彼女の腕には、前回来た時から預けたままの僕の腕時計が光ってる。
春になったけど、朝の早い時間の空気はまだ少し肌寒い。
僕は彼女の通勤バックを持ち、そして手をつないで駅へ向かっている。
出勤する時に手をつないで歩くってどうなの、って思わなくもないけど彼女の手が無言の催促してくるのだから、僕の手に拒否権はない。
僕は、若干の居心地の悪さを感じながら駅へと歩いていた。
「はい、いってらっしゃい! 今日はバカ共(同僚)なんか気にせず頑張れよ!」
「何かあったら、すぐに連絡しろ、迎えに来るから。」
駅の入口で僕はバックを手渡しながら、そう告げた。
「うん!、お父さん、いってくるね。」
彼女は軽く手を振り、通勤の人の流れに消えていった。
……うん、わかるんだよ。
これ、過保護すぎ、超親バカ、あるいは、超バカップルね。
わかるけど、こんな行動が彼女の心に何か力を与えてくれるなら、それでいいなって思ってるんだ。ストレスの元は消せなくても、こんな事で少しでも上書きできればいいなってね。
僕は一度マンションに戻り、タブレットで周辺のマップを眺めていた。
僕が引っ越しをした直後によくやる、街の探検をするつもりでいた。
マップで周辺の地理を頭に入れて、後は気の向くままに歩き回る。
前回来た時の外での長い待機時間のおかげで、マンション周辺は細い路地まで含めて、探索済みなので、今日は少し範囲を広げるつもり。
改めてマップを見ると、ここは大きな幹線道路に挟まれていて、さらに近くを高速道路や鉄道も走っているので、方向や位置を把握しやすい土地だなって思えた。
うん、これならマップをコマめにチェックしなくても歩き回れる。
今時なら、引っ越しても周辺チェックは地図で済ませてしまうのかもだけど、やはり自分の足で歩いて、自分の目で見た情報量にはかなわない。
お店を発見したり、スーパーの価格をチェックしたり、裏路地で住宅の庭に咲く花に感動したり……。知らない街の探検は、僕にとっては、ものすごく楽しい遊び。
そう、車や自転車でもダメ、自分の足で歩く事が重要。
ゆっくりと、僕は街を、行き交う人達を、空気を、いろいろ感じながら理解していくのだ。
10時・3時の休憩、お昼休みに涼音と短いメッセージを交換しながら、僕は歩き続け、夕方の「終わった、今から帰る」とメッセージを僕は多摩川の土手で受け取っていた。
僕は電車で戻り、生米の駅で涼音と合流していた。
「おつかれさま! 今日は大丈夫だったね。」
「うん!」
「これで、次は月曜日だね、仕事の事は2日間忘れよう!」
「うん!」
「今日は僕も1日中歩き回って疲れているから、コンビニ弁当でいい?」
「なんでもいいよー!」
二人でコンビニに寄って弁当を買って、そして二人で手をつないでマンションへ向かう。
先程まで元気に声を上げていた彼女は、虚ろに言葉もなくフラフラと歩いている。
最初に来た時もそうだった、これがたぶん彼女の日常。やっぱり、いろいろと疲れているのだろう。
部屋に着いて着替えると、ペタっと床に座り込み、幽体離脱したかのように動かなくなる。これも、いつもの事。
僕は、そっと彼女の身体を横にして、いつもの椅子に座りニュースチェックをはじめる。
彼女は強い、だけど脆い……、僕はふっとそんな事を考えた。
彼女は、いつも通り夜8時頃に目を覚ます。
そしてお風呂へ。お風呂に入ると、何を言ってるかはわからないけど、彼女は延々と呟いている。
たぶん、別の人格と話しているのか、お風呂専用の人格がいるのか……。よくわからないけど、いつものこと。
実は、トイレに入っても頻繁に一人で呟いている。トイレ専用人格とかだったら、ちょっと嫌かも……。さすがに、トイレでは毎回ということではなさそうだった。
僕が彼女と一緒に過ごしてきて、いつも見てきた事だ。
深夜。
僕達は記憶力の話をしていた。
「あのさ、前から思っていたんだけど、涼音の記憶力ってすごいよね。」
「時々、チートじゃね、って思ってるんだけど。」
「あは、そうよ、私は頭が良いから。」
ドヤ顔の彼女。
「マジ、記憶力いいと勉強だけじゃなくて、仕事にも有利だろうし、涼音が仕事できる人間だってのも納得だよ。」
「あは、ほら私、優秀だから……。」
「わたし、忘れませんので!」
何かのテレビドラマで聞いた事あるような言い回しで、さらにドヤ顔になる彼女。
彼女が言うには、他の人の記憶がどうなってるかわからないけど、コレが自分にとっては当たり前のことで、特にその理由を考えた事はないとの事だった。
子供の頃は、自分に出来る事が、どうして他の人に出来ないのか不思議に思っていたそうだ。自分は少し違うんだって自覚してきたのは、高校受験の頃だったらしい。学校で成績優秀だったのも、教科書や問題集を丸暗記したおかげだと言っている。そして、……、そのせいで嫉妬やイジメも受けたと。
「ほら、私頭の中には人格がいっぱいいるから、10人分くらい脳があるんじゃないかな。アハハ。」
「うわー!やっぱりそれってチートじゃん。」
確かに、時々膨大な量の本や知識を暗記している天才少年少女がニュースになることもある。でも、その多くは成長のある段階を過ぎると、その能力が失われていくと聞いている。……知識として知ってるだけで、実際にどうなのかは僕も知らない。
一般的に人間は脳の能力のほんの一部分しか利用してないと言われている。これは、薄い自我の感覚や理解から、人間なんてそんなものだろうなって、僕も感覚的に納得していた。
彼女が冗談で言った、「10人分くらい脳がある」って話は、もしかすると的外れではない気がしてきた。
僕の知ってる彼女のレギュラー人格達は、個別に記憶を持っている。表向きは、それを共用できないにしても、それはどこかでつながってると思うし、つながっていなくても、普通の人より記憶に関する機能が活性化してる気がする。
筋肉だって脳だって、使えば活性化するってのは、普通の事に思えるしね。
それとは別に、多重人格者のブログを見てると、得意分野が違うのを利用して、教科ごとに人格を変えてるというのを見た事がある。これは単純に記憶力とは関係ないけど、優秀な人認定されやすい気がする。
「お気に入りの映画やテレビ番組も、まるごと覚えてるよ。」
「いつでも脳内動画再生できるよ、実際、暇な時はそうしてるし。」
「何、それ超便利!。」
「過去の思い出もキッカケがあれば、動画再生できるよ。」
ドヤ顔の涼音。
「ゲーム攻略してて、初見でパターンを全部覚えてしまうのに驚いていたけど……。」
「チート級だと思っていたけど、やっぱりチートだったね。」
「ふふん!」
今日はいつもよりドヤ顔が多い涼音。
……判ってはいるけどね、忘れたいのに忘れられないって事もあるってのはね。
今は触れないでおこう。
「あ!やばい、バグってる。」
突然そういうと、彼女はパタッと落ちた。
次の瞬間、僕には彼女の顔が歪んだのかと思えた。
気持悪い顔で僕を見てニヤついている。
直感的に、これは男って思った。根拠はない……でも、男だと感じたのだ。
「あなたは誰?」
いつものように聞くが、彼女はニヤつきながら僕を眺めている。僕の反応を楽しんでいるかのように、ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら僕を観察しているようだった。
「君が、バクなのか?」
当然のように、返事はなく、ニヤニヤしている。
僕には、その何かを睨みつけてる事しかできなかった。
3分くらいだろうか、彼女が倒れるようにして眠りについた。
僕には、あの気持ち悪い表情が強く印象に残った。
あれは絶対に「変なモノ」だ。いてはいけないモノだと感じていた。
僕はましろという兵器を思い出していた。
ましろの転生前は、あんな変なモノを消すのが役割だったのかもしれないと。
ほんとうにイヤなモノを見せられた気分、せっかくの夜なのに……。
暫くすると、彼女が何かを呟いていた。何を言ってるのかわからない。
少し幼い声、りさに似てるような気もする。
「君の名前を教えて。」
彼女は僕を不思議そうに眺めてきた。
「涼音だよ。」
あれ、同じ名前? 涼音?
でも幼い声、反応もいつもの涼音じゃない、これは僕の知ってる涼音じゃない。
「涼音ちゃんは何歳?」
「8さいだよ。」
どうやら、子供の涼音のようだった。
そして話してみると、それは本当に涼音の子供時代だった。
その日彼女は学校でイジメを受けていたようだった。
まるで、涼音の記憶からそのイジメのワンシーンだけが切り取られたような感じ。
これは人格なのだろうか?僕がソレに感じたイメージは、記憶の断片だった。
記憶の断片のような8歳の涼音は、僕といろいろ話した後で、眠るように消えていった。
こちらに来る前は、わりと平穏だと思っていたのだけど。昨日来てから、いろいろな事がありすぎる。僕が気付かなかっただけなのか、僕を待っていたのか……。
翌日、土曜日(休日)のお昼頃。
僕は彼女と正面から向き合っていた。
……それは、今回ここに来た二つ目の理由を実行する為。
緊張していた……、すごい緊張していた。
「あのね、涼音………。」
「うん?」
彼女はじっと僕を見つめてくる。
すごく言い出しにくいんだけど…。
「……今更、すごい今更で、すごーく言い出しにくいんだけど。」
「なあに?」
……ここまで来たら言うしかないよね、頑張れオレ!。
僕は有言実行の男だろ……まだ何も言ってないけど。
「僕さ……、実は去年の夏に離婚してて……。」
「え!」
涼音の顔が驚愕の表情に変わる……、当然だよね。
「ほんと、いろいろあって、言い出せなくてさ。」
「今、ひとりなんだよね。」
言った!言ってしまった!もう後戻りはできない。
「ええーーーーーーーー!!!!」
「えええー うそーー!!、えーーー!!」
30秒くらい彼女の「えー」と「うそー!」が止まらなかった。
「ちょっと!、それ酷くない!もっと早く言ってよ!」
ヤバイ、彼女、マジ怒ってそうだ……
「ごめん、薄々は気付いてくれてると思ったんだ……。」
「気付かないわよ!!!」
……絶対コレ怒ってるでしょ、ヤバい。
「こうやって、頻繁に何日も泊まったり、毎晩音声チャット繋ぎっぱなしにしてたり……。」
「薄々気付いてくれてるかな、って思ってたんだけれど……。」
「私はそういうの察するの鈍いのよ!」
こわいよー、こわいよー、こわいよー。
「ごめん」
怒っている彼女の顔が、嬉しそうに見えてきた。
僕の希望が入った脳内補正フィルターが働いているのでしょうか?
「だからさ、この前言ったパートナーになって欲しいって話し。」
「あの話をした時から、僕は決めていたんだ。」
「本当に身近にいて、そして支え合えるパトナー同士でいて欲しいんだ。」
彼女は、少し呆れたような表情になる。
「もうー!」
「どうして、もっと早く言ってくれないのよ!」
「……私がどんなに悩んでいたか、苦しんでいたか…。」
「お父さん…面倒くさすぎ!」
「バカ……バカ!バカ!」
苦情の嵐が通り過ぎると、涼音は顔をあげて、キッと僕を睨みつける。
「OKに決まってるじゃん!」
彼女は僕に抱き着いて、唇を重ねてきた。僕も彼女を抱きしめた。
二人は、初めて全身で愛し合った。
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