18-戦いの前夜
「時雨さん……、時雨さん出てこれますか?」
彼女の身体の力が一瞬抜けた後に、すぐに姿勢が戻り、僕を凛とした目で見つめてくる。……そう、彼女の視線は凛とした気品のようなものを感じる。それは、りさや由比の可愛らしい目線とは明らかに違った。
僕はホワイトボードとペンを彼女に手渡した。
「時雨さんですね?」
” Yes ”
「このホワイトボードは時雨さんの為に用意したんだよ。」
「これから、何かあったらコレに書いてください。」
” ありがとう わかりました ”
彼女が初めて現れた時に、外に走り出していたのを思い出した。
「そこにも書いてあるけど、勝手に外に出ていかないって約束してくれませんか?」
” はい 約束します ”
「頭の中で誰かに逢えましたか?」
” いいえ 誰もいません 私だけです ”
月乃さん、そして涼音さんは彼女の事を認識できないのだから、そうなのだろう。
「桜花さんって人もいませんか?」
” はい 私の他には誰もいません 私は1人だけです ”
まだ断言できないけど、月乃さんの仮説はハズレかな。
このことに少しだけホッとする。
「一人で寂しくないですか?」
” 私がここに存在した時から1人なので感じません ”
時雨さんの言葉を見て少し切ない気持ちになった。
時雨さんは一体どういう状況で何処にいるんだろう。
それにしても、時雨さんの字はとっても綺麗だ。
前回は小さいメモ帳だったので気付かなかったけど、ホワイトボードで見る彼女の字は美麗だった。
涼音さんも字は綺麗だけど、明らかに筆跡が違う。
人格が変わると筆跡まで変わるのだという事にはじめて気がついた。
声色が違うのも不思議だけど筋肉……指も腕も同じなのにどうして筆跡まで違うのだろうかと僕は不思議に思えた。
「涼音って人はわかりますか?」
今までは質問すると、僕の質問が終わらないうちに即ホワイトボードに文字を書き始めていたのだけど、はじめて少し考えるようなそぶりを見せた。
” 存在はわかりますが、今は見ることができません ”
” 私のいる場所は特殊な場所なので涼音さんからも見えないと思います ”
” あたなたが主人格と認識されてる方ですよね? ”
「うん、そうだよ、その身体もこの部屋も涼音さんという人のものだよ。」
涼音や月乃さんが時雨の事を認識できないと言っていた理由が判ったような気がした。
彼女は顔をあげてお部屋をキョロキョロ眺める。
そして再びホワイトボードに向かう
” あなたはその涼音という人の友達ですよね? ”
「うん、涼音さんは僕の大切な友達で、その身体の主だと思っているよ。」
” わかりました ”
” それならば、私には関わらない方が良いと思います ”
「え?どういうこと?」
彼女は僕をまっすぐ見つめてきた。
少し困ったような表情。
何かを考えているようだった。
そして、再びホワイトボードに向かう。
” たぶん今なら大丈夫 ”
「え?どういうこと?」
彼女はすごい勢いでホワイトボードに文字を書きはじめた。
” 私は裏人格が作った人格 ”
” コインの表と裏 ”
” 裏と表の戦い ”
” 全面戦争 ”
” 私は兵器として生まれた ”
” 戦いの為に ”
” 裏人格への違和感 ”
” 私は気付いた ”
” きっと良くない結果を産む ”
” 戦いは明日 ”
” 裏切り ”
” 私は裏と一緒に消えるつもり ”
” それはあなたの言う主人格「涼音」を残す為 ”
” 裏が消えても涼音は残る ”
” でも少し変わるかも ”
あっという間にホワイトボードに隙間が無く文字が綴られた。
僕はその断片的に綴られていく衝撃的な内容を見つめていた。
『全面戦争』とか『裏に作られた兵器』とか物騒で信じられない言葉が並ぶ。
文字列を見つめながら整理してみる。
表人格が涼音、裏人格が鏡として……。
時雨は鏡が作った兵器。
涼音と鏡との全面戦争が明日?
時雨は鏡に違和感を感じて裏切り、鏡に自爆攻撃をするつもり?。
それは、涼音を残す為の攻撃。
鏡が消えても涼音は残るけど、少し変わるかも。
……という感じかな。
やっと人格達の事を理解してきたと思ったのに、また僕の理解を超える事象。
……がんばれ僕の頭。
戦いが明日って時点で、彼氏との別れに伴って何かあるのだろうと予想される。
頭の中で人格同士の戦いなんて僕には想像できない。
自爆攻撃から、僕は由比が消失した時の事を想い出していた。
由比は痛み……、あるいは痛みの原因を持って一緒に消滅したことを思い出した。
時雨がしようとしてる事は、あんな感じなのだろうか?
皆と情報共有する為に、僕が携帯端末で写真を撮ろうとすると、時雨は慌ててそれを阻止した。
そしてホワイトボードいっぱい書かれていた文字を急いで全て消していく。
そして真っ白になったホワイトボードに文字を書き出す。
” ヒミツにしてください ”
「あ、うんわかったよ。」
「他に僕に何か伝えておきたい事はある?」
” 私の事は忘れて下さい ”
僕は彼女を見つめた。
「わかったよ、でも人間の記憶は自分の思い通りにならない事はわかるよね。」
暗に忘れないよという意味の言葉をかけた。
彼女はそれに頷いて答えた。
” それでは、私は気付かれないうちに戻ります ”
「うん、時雨さん、いろいろ教えてくれてありがとう。」
” さようなら ”
彼女は、ホワイトボードの文字を全て消した。
そしてそのまま動かなくなった。
「涼音さん?」
声をかけてみた。
「……う、うん。」
涼音はダルそうに顔を上げる、何故かその目は疲れたように虚ろだった。
「時雨とたくさん筆談できたよ、詳しくは言えないけど時雨を見かけても邪魔しないでね。」
そう言うと、彼女の顔が突然変化したように感じた。
そして声がする。
「ふふふ、裏切ったな。」
この太い声色は鏡だった。
「え!!涼音さんじゃなくて鏡だったの?」
彼女は怒気を含んだ声で語り出す。
「声は出ないようにしていたのに、自我が残っていたのか…、自我も消しておけば良かった……。」
激しい自己嫌悪。
内容を伏せたつもりだけど、鏡にしてみたら『時雨と筆談』と『時雨を邪魔しない』という情報だけで裏切りを知るには十分だろう。
たぶん僕は時雨の作戦を台無しにしてしまった……。
普段から情報の大切さはわかっていたのに……、なんて初歩的なミスをしてしまったんだ。……僕の自己嫌悪は止まらない。
だけど、表向きは必至に平静を装う。
「鏡だったのか……。やられたよ、涼音さんのフリしてるとは思わなかった。」
鏡はそんな僕の話には興味がないようだった。
「ふふふ、ほんとうに面白くなってきた。」
「時雨さんをどうするつもり?」
「どうもしないわ、やれるものならやってみればいい。」
悪役……、失礼、オリジナルの余裕なのか、揺らがない自信を感じさせる発言。
楽しそうに笑いながら語り続ける。
「ふふ面白い、私が消えても何も変わらないというのに…。」
「まあいい、やれるものならやってみればいい。」
「明日を楽しみにしてろ。」
そうして、また静寂が戻った。
本当に鏡って登場から去り際まで、悪役のテンプレみたいだ。
わざとキャラクターを作ってるんじゃないのかと疑ってしまう。
「お父さん?」
今度こそ本物の涼音だと思う。
「うん、ちょっと今いろいろあって、混乱してたんだ。」
ミスをして落ち込む僕を心配そうに見つめている。
「あのね、涼音さん、時雨さんは大丈夫だから、だから明日見かけても邪魔しないであげて。」
もう鏡にバレてるけど、最低限の事だけを涼音に伝えた。
そして心の中では何度も「時雨ごめんなさい」と呟いていた。
疲れた……、本当に疲れた。
正確には、激しい自己嫌悪が自分の心をボロボロにしていた。
僕は床に座ったまま、涼音を無言で抱きしめた。
抱きしめた理由…、ただ僕が今そうしていたかったから。
3分くらい、彼女はそんな僕を無言で受け止めてくれていた。
「ありがとう。」
そう言って僕は彼女から離れていつもの椅子に座り直した。
「お父さん大丈夫?」
「うん、ちょっと疲れただけ。」
「夕飯を作ったりするの面倒だから外行こうか?」
「ほら近くに美味しいラーメン屋さんあったじゃん、あそこでいい?」
「うん! 食べいこー!」
さすがに涼音も今回は迷う事なくゴスロリ服にさっと着替えてくれた。
……近所のラーメン屋もゴスロリファッションで行くのね……。
ある意味すごいよ娘は。
今回のコーデはシンプル、一言で言うと、どこかの女子高の制服って感じ。
そこまでしてお父さんを犯罪者に見せたいのか……。
涼音と一緒に行ったのは、以前も二人で来た事のあるマンション近くの羽尾ラーメン。
少し濃厚なスープと、それが絡むやや太めの麺、先日二人で大絶賛したラーメンだった。
精神的疲れから食事作るの面倒だからつい誘ってしまったけれど。
……家の近くに気軽に食べられて、しかも美味しい食事処あると人間を堕落させるよなって思える。
僕は考えいた。
裏人格の登場から、涼音の中で起きている事は僕の理解の器からあふれ出していた。
涼音が裏人格である鏡によって作られた人格に過ぎないというのは、信じたくないこと。
必死に自分の中にある理を動員して考える。
大きなトラウマがあって、その避難行為として自分を解離させた時に、本体は引きこもり、表には代役をたてるということは、ありえることだと思う。
多重人格を調べていた時に、主人格が滅多に表に出ない例があったのを思い出した。
普通の人だと思ってる私達だってそうじゃないだろうか?
自分の本心を隠して、外向けの自分を持っていたりするんじゃないだろうか?
表向きと本心……、それは表と裏と言い換える事ができる。
本心を見せないで表面を取り繕い生きていた人が、突然本心を見せて『本当は私……』なんて語り出すのと同じかもしれない。
違うのは僕らは本心と表面を、自分という一つの自我の中に納めていること、涼音の場合はそれが別の自我として解離してるだけかもしれない。
そして本心の立場なら言うであろう、『表面の顔は自分が作ったもの』と。
逆に『表面が本心を作った』とは言わないであろう。
更には、時に本心は表面を変えたり、自分の表面を改造することさえある。普通の人が言う『自分を変えたい』というよく聞く台詞の本質はそれだろう。
そんな風に考えると、涼音の裏人格との関係も納得できるような気がする。
本心である裏人格が表の涼音を作ったのだと認めて良いことになる。
そして、本心である裏人格が存在しても、涼音という表の人格が今まで通りの形で存在し続けても良いだろう。
もう一つ、僕が鏡という裏人格を否定しないのは、彼女が最終的には全ての消失を望んでいるということ。
自分を解離しなければならない程のトラウマに会ったとしたら、多くの人は自分やそのトラウマに関わる事を無かった事にしたいのではないかと思う。
単純に言えば、嫌な事があった時に『夢だったらいいな』みたいな思考。
珍しくもない電車の人身事故……自殺……。
苦しみから逃れる為に消失を望むのは珍しい事ではない。
涼音が解離しなければ処理できないようなトラウマを体験したとして、その本体が全てを無かった事にしたい、消失したいと考えるのは自然だと思えた。
鏡という裏人格もやはり涼音という人間の一部なのだと考えることができる。
いや、元々全てが涼音なのだってことを忘れてはいけない。
さらに問題は、その裏人格と表人格が戦うということ。
無理して理屈で考えてみる。
現代社会では、本心とは裏腹の行動をすることは少なくない気がする。
本当は『自分はこんな事したくないんだけど』なんて考えながら、表向きはそれをしている自分に嫌気がさす事はないだろうか?
時にそれは自分の中での葛藤になる。
僕らは、それが一つの自我に収まっているから、自分の中の葛藤で済むけど、それがもし解離していて別の自我と自我だったら戦うという事になるのかもしれない。
自分の本心ではない事をする表面の自分を『生意気』とか『反抗的』なんて考えるかもしれない。
……なんだ、鏡の言ってる言葉を理解できるじゃないか、僕はそう思えてきた。
やればできるじゃないか僕の頭。
問題なのは、戦いが彼もどき(雪村)との別れの時にあるということ。
これが僕にはとっても難解だった。
表の涼音は彼のメッセージを見ただけでショック状態になるくらい雪村から心が離れている。そして、裏の鏡も『彼は邪魔、別れさせる』と言っている。
裏と表の望みは一致している、何故それが戦いに絡むのかが、僕にはどうしても理屈付けすることができなかった。
これが彼と別れる、別れたくないの戦いなら簡単に納得できたのに…。
そして、人格と人格の戦い、これも僕には具体的にどういう戦い方になるのか全く想像することすらできずにいた。
その戦いの結果次第では涼音が変わってしまうかもしれない。
もしかしたら、僕が接してきた人格達も変わってしまうかもしれない。
最悪は、僕に今見えている涼音は消失してるかもしれない。
「時雨、がんばれ!」僕は心の中で呟いていた。
いずれにしても、今の予定では僕は明日朝には帰宅する。
戦いの場にはいない。
戦いが終わった後で、その結果を知る事になるだろう。
僕はその夜、涼音の中の僕が知ってる人格達を呼び出して個別に言葉をかけていた。りさ・月乃・みー・月斗・桜花、そして美緒・まおまで呼び出して声をかけていた。
……もしかすると、これが最後になるかもしれないから。
「えっと次はと……、みーちゃん」
「みーみー」
「みーちゃんも今までありがと、明日は主が頑張るからみーも協力してね。」
「みー! みー!」
「みぃー つぃー きぃー」
え?え?え?
「みー つ きぃー …… い……つ……きぃ」
…それはとてもたどたどしく、そして頑張って…頑張って…頑張って言葉を絞り出す。みーしか言わないみーちゃんが僕の名前を呼んでくれた!!。
「そうだよ、いつきだよ! 名前を呼んでくれてありたがとう!」
「みーみー! ……い……つ……き……。」
「うんうん、そうだよ!いつきだよ!」
「みー! い つ き た い せ つ な ひ と 」
「みーちゃん、僕もみーちゃん達がとっても大切だよ!」
あのみーちゃんが僕に言葉をかけてくれた事に僕は感激していた。
絶対にまた会って、いろいろお話をしてみたい。
「月乃さん、僕はあたなを一番信頼しているよ、明日は涼音さんの事をよろしく頼む。」
「そして、明日の報告を楽しみにしているよ。」
「はい、わかりました。」
月乃は相変わらず感情を感じさせない冷たい声でそう返事をしてきた。
でも、言葉の後で月乃が僕に抱きついてきた。
意外なことで驚いたけど、僕も彼女を抱きしめた。……初めての月乃との触れ合い。それは3秒くらいだっと思う、もしかしたら別れのハグになるのかもしれない。
「涼音さん。」
「何?お父さん。」
「いよいよ明日だね。」
「うん。」
涼音はじっと僕を見つめている。
「負けるなよ!ちゃんと彼もどきと別れろよ。」
「なーに、男を振るのは涼音さんの得意とするところだろ(笑)」
「うん! なんとかする!(笑)」
僕には人格同士の戦いの事はよくわからない。だから、戦いの事には触れなかった。けれど、涼音が彼と別れを成立させて、そして涼音であり続ける事ができたら、それは勝利なのだと考えていた。
「……明日、良い報告を待ってるよ。」
「うん。」
僕らは抱きしめあって唇を重ねた…それは何度も、そして長い時間。
それは明らかに親子のものではなかった。
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