次の日、彼は寝不足気味の頭を抱えながらも、普段であればまだ朝食のパンを咥えている時間に家を出た。恐る恐る曲がり角から交差点を覗く。


 「よっし!」


思惑通り、ワカメ女はまだ例の場所には立っていなかった。

ただ立っているだけの人に何を一体恐れているのか。その理由は最早自分でも判然としなかったが、今日は気味の悪い思いをせずに済んだと気分よく学校に向かう。ほっとしたまま自分の席につくと、昨日はばたばたとして目に入らなかった部分がふと気になった。


 「よう茂、今日はずいぶん早いじゃん」

 「たまにはな。ところでさ、俺の後ろの席って誰だっけ? 昨日見てない気がするんだよな」

 「そういやそうだな。空いてる席なら一番後ろなんていい場所俺が座りたいのにさ」

 「それは俺だって同じだっての」


机と椅子はおいてあるものの、誰かの席である様子はない。茂は朝礼中の教師の言葉をろくに聞いていないため、休みなのだろうと勝手に思っていたものの、流石に真後ろが二日連続で空いたままとなれば少し気になる。ましてや今は席自体は前から四番目であるにもかかわらず茂が一番後ろ扱いのため、プリントなどを回収する役目を負っている。少し損した気分だった。

和哉と話している内にチャイムが鳴り、茂は肩をすくめて席につく。そしてまた何気なく窓の外に目を向ける。開放的な気分になってすっかり昨日の恐怖について忘れてしまっていたために犯したミス。はたして、彼の目線の先にはまたしてもあのワカメ女の姿があった。


 「うわっ!!」


思わず驚いて立ち上がる。教師の声だけが響く比較的静かな朝礼中に突然声を上げたために、クラス中の視線を集めてしまった。


 「遠藤、どうかしたか?」


教師がこちらを不思議そうに眺めている。必要以上に驚いてしまったことに茂は恥ずかしくなり、何でもありません、とおとなしく席につく。


 「先生、遠藤君は珍しく早起きしたから寝ぼけてるんだと思いまーす」


和哉が面白そうに笑いながらそう申告し、クラスは和気藹々とした笑いに包まれた。そうじゃないと否定したい気持ちを持ちつつも、この言葉のお蔭で一瞬でクラスの意識が笑いに持っていかれ、茂は正直な所救われた気分だった。



放課後になり、茂は教師に呼び出しを食らって通常よりも遅い時間帯に学校を出ようとしていた。朝の早起きがたたったからか、今日は一日中眠気がとれずにいて昼寝ばかりしていたからだ。少し位ならまだしも、流石に寝すぎだと担任叱られ、夜寝る時間が遅すぎるのではないかというお小言を聞き流してようやく生徒指導室を出てきた。

 

 「はぁ、疲れた」


教師のお小言はどうしてああも長いのか。茂は長時間姿勢よく椅子に座っていたために凝り固まった肩を回しながら、昇降口に向かって歩いていた。部活中の面々はまだ活動が続いているらしく、外から掛け声や、上の階からは吹奏楽の音出しのが聞こえている。下駄箱で靴をはきかえ、今日の夕飯はなんだろうと大きな音をたてるお腹をさする。カレーだったらいいな。そんなのんきな気分で下駄箱に上履きを仕舞おうすると、後ろからとんとんと肩を叩かれた。まさかまだ教師が何か言い足りないのだろうか。


 「もう居眠りしません、って……」


面倒さがにじみ出る口調のまま何気なく後ろを振り返り、そして彼は遂に出会った。

いつも離れた場所からしか見たことがなかった黒黒とした長い髪の隙間から、自らの方へ向けられている痩せ細った腕。そして小さく、しかし爛々と輝いた目が、自分を視野にいれて狙っている様を見た。


 「わ、わ、ワカメ女ぁーー!!」


茂の恐怖心はこの時、最高潮を迎えた。仕舞うはずだった上履きを勢いよく上に放り投げ、彼はわき目も振らず一目散に校舎の外に飛び出した。一心不乱に走り続け、自宅に入って瞬時に鍵を閉め、更には自室の鍵も念入りに施錠して辺りを見回す。そこまでしないとあのワカメ女がここまで憑いてきているのではないかと思ってしまったからだ。

シーンとする室内で、両手を空手のように構えたまま茂は数分の間固まっていた。何も音がするはずもない。だがその事実が逆に恐ろしいことのように思え、彼は腕を降ろした後もきょろきょろと辺りを見回していた。

暫くして、母親が夕食の準備ができたと呼びに来た。メニューは望みの通りのカレーだったが、いつもカレーの時は三回するおかわりが一回しか出来ないほど憔悴した様子に、母親には具合でも悪いのかと心配されてしまった。

何でもないとは言ったものの、その夜は自室で一人でいる気になれず、就寝時間ぎりぎりになるまで居間で毎夜行われる姉と母のテレビ鑑賞会に付き合った。


当然のことながら、次の日はいつも通り始業ぎりぎりになる時間帯にやっと目が覚めた。朝ごはんを食べなければまだ時間の余裕があるのだろうが、一度中学の頃にそれをやった所、朝礼が終わるまで大音量で腹の虫が鳴り続け、一時期腹ペコ大魔神などという不名誉な称号を貰ってしまったのだ。以来、どんなに時間がなくとも朝ごはんは少しでも食べるようにしている。高校ではもうあんなあだ名は忘れてしまいたい。

いつもと同じ通学路。なるべく早く交差点を通り過ぎるため、朝食を入れたばかりのお腹を抱えながら、彼は全力疾走で学校に向かっている。まだチャイムは聞こえてこない。これなら朝礼に間に合う。そう思いながら差し掛かった例の場所には、ワカメ女は立っていなかった。


 「なんだ、はぁ、いないじゃんか!」


何のためにこんなに頑張って走ってきたのか。拍子抜けした気分になった彼は、一気に進む速度を緩め、そしていつも通りチャイムの音とともに校門に飛び込むことになった。教師が来る前にと慌てて自分の席について汗をぬぐいながら鞄を置く。どうにか間に合った。安堵の溜息をついた所で、教室に入ったときに感じた違和感を思い出す。

何かいつも違う光景に思えた気がしたのだ。その理由について考えていると、茂の肩を叩くものがいた。どうせ和哉だろう。毎朝のようにからかわれているために、もはや恒例のやり取りだと思って振り返り、文字通り茂の顔は凍りついた。


 「あの……おはよう……」


交差点にいなかったワカメ女は、あろうことか自分のすぐ後ろの席に座っていた。

茂は小さい声で聞こえた挨拶よりも、目の前にある光景が信じられず、完全に自分の平常心の限界を迎えた瞬間を感じていた。

遠藤茂16歳、小心者の彼は今日、人生で初めて気絶というものを思い知った。

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交差点のワカメ女 二見 遊 @seika_hiryu

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