第4話  ハローグッバイ

 「はぁ……元部署に帰りたい……」


異動初日、良子は今までとはまるで違う仕事内容の部署で何をしたらいいか分からずに縮こまっていた。小心者の自分に営業職を申し渡すなど、一体この会社は何を考えているのかと辞令が出てから散々憤ってきた。

しかしそんな素振りは全く見せず、彼女は首を竦めながら上司や同僚の一言一句にコクコク頷き、ひとまずはひっそりと荷解きを進め始めた。



「伊藤です、初めまして」


隣に座っている女性が、穏やかな笑みを浮かべて良子を見ている。バリバリと仕事をこなす周りの男女と違い、この人だけ少し毛色が違う。元部署のまったりした雰囲気と似ているのだ。


「宜しくお願いしますっ」


社歴から言えば後輩に当たるメンバーが多いとはいえ、右も左も分からない以上まるで新卒の気分だ。そんな彼女のあたふたとした様子に伊藤はくすりと笑い、まずはPCのセッティングからお願いしますね、と穏やかに言った。

女神だ……良子はじーんとした想いで手渡されたマニュアルを胸に抱えお礼を言った。その後続々と出勤してきた同じ課のメンバーを紹介されたのだが、ここで彼女は再び身を固くした。何しろ人の名前を覚えるのが物凄く苦手なのだ。


「武藤です」

「須藤です」

「藤原です」


必死に名前を聞いてメモしていた彼女は、つい匙を投げそうになった。今日だけで一体何回〝藤〟の字を書いたか分からなくなる。連続で名乗られると三馬鹿トリオですか、と聞きたくなる羅列だ。



「ああ神様、これは前部署から異動者リストに私の名を書いた上司に心の中で向けた罵詈雑言に対する嫌がらせなのでしょうか……地味なくせに大ダメージなのでおやめ下さい……」

「まーた一人でぶつぶつ文句垂れてる、不気味だからやめなって」


トイレで自作の座席表を眺めて恨めしい声を上げていた良子の後ろから、ひょっこりと人影が現れた。同期で親友の剛力だ。

芸能人の彩芽ちゃんと違って可愛げないですが、それでも我慢して可愛がってくださーい!などと珍しい苗字な上アクの強い自己紹介をしていたので、同期の中で一番最初に覚えられた。彼女と同じ部署になれたのは不幸中の幸いだ。


「だって似たような名前ばっかりなの、覚えられる訳ないじゃないのー」


ふうん、と呟きながら座席表を覗き込む。そして良子の隣に座る伊藤を指差して言った。


「この人は覚えなくて大丈夫じゃん、良かったね負担が減って」

「ええっ?」


普段こんな薄情なことを言う子ではなかったはずなのにとあたふたしていると、剛力は苦笑いを浮かべて腰に手を当てた。胸まで伸びた長い髪がさらりと揺れる。


「だって明日には退職しちゃうらしいし」

「えええっ? だってあの人も半月前に配属されたとか言ってたよ?!」

「何か丁度転職活動してる時に異動を知って、その数日後に内定が出たからもう一旦異動しちゃうしかなかったんだってさ」


へええ、と彼女の口からはため息とも驚嘆ともつかぬ声しか出なかった。その後彼女はすっかり名前を覚えることを忘れてしまった。



次の日、最終出勤日である彼女に課の皆で見送りの挨拶をすることになった。


「たった二日間でしたがお世話になりました、加藤さん」

「伊藤です」


見事に名前の間違いなどという大ぽかをやらかした良子に苦笑いを残し、彼女は定時上がりをしていった。この失態により、奇しくも最初に覚えた名前はもう使う事のない伊藤の名前だった。もう藤の字はこりごりだ。

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