第3話②

 「たかお、明日からもう遊べない」


梅雨はとっくに明けたというのに、相変わらずの雨模様。しのと遊ぶ日は雨ばかりだ。最近は二人で遊ぶことも多い。珍しく孝雄の家の方に遊びに来たしのが、自身の家の庭先を窓から眺めながらぽつりと言った。えっ、と思わず孝雄の口から声が漏れる。


 「どうしたんだよいきなり」

 「帰らなきゃいけないから」


そういえばあそこはずっと住んでいる家ではなかった。彼はあれから毎日のように遊ぶようになった2人が、普段は身近な存在ではないことをすっかり忘れていた。


 「遊んでくれて、ありがとう」


まるでもう会えないかのような言葉だ。


 「来年の夏には、また来るんだろ?」


孝雄は縋るように言ったが、しのはまた曖昧な笑みを浮かべるだけだった。それからどんな別れ方をしたかは覚えていない。一言、彼女に酷いことを言ってしまったのは覚えている。お前なんかもう知らない、という台詞に今まで見た事もないような悲し気な表情を相手が浮かべたのをみて、生まれて初めて後悔を感じた。

けれどもその後悔を取り戻す間もなく彼女は隣の家に帰り、次の日学校から帰った時には既に一家は家から去っていた。夏の始まりに来て、夏の終わりに帰る。来年もどうせ同じだと思っていたサイクルは、彼が高校で家を出るまでとうとう再び訪れることはなかった。



 「隣の家、売りに出してるんだな」


高校進学と共に寮に入ってから、実家に帰ってくる機会はかなり減った。あの二か月間嫌という程通った隣の家が『空家』という看板を立てているのに気付いたのは、社会人になってからだった。しのがいない家にはまるで興味がなくなり、彼はあれから窓の所に自分の大好きな戦隊もののポスターをデカデカと張った。母親からはぶつぶつと文句を言われたが、どうにもあの家がすぐに視界に入ると彼女を思い出して辛くなる。

あれほど美しく咲き誇っていた紫陽花も、いつの間にか一本残らず撤去されてしまっていた。そうなると外から庭と家が丸見えで、あの頃あんなにも大きく見えた家が案外こじんまりしていた事に気付いた。小さい自分たちには広々とした楽園だった庭も、大人の今は若干狭さを感じる。ぼんやりと白さを失った空家を見て過去に浸っていると、気付けばすぐ近くに紫陽花柄の傘を差した女性が立っていることに気付いた。



 「この家、買われるんですか?」


孝雄は唐突に声を掛けられたことに戸惑いを隠せなかった。理系の高校・大学を出たために女子と接する機会が少なく、会社でもそれは全く変わっていなかった。かなり緊張しながらも、違いますと被りを振る。


 「昔、この家に住んでいた人と仲が良かったんです。でも、いつの間にか空き家になっていて……今はどうしているのかと考えていた所でした」


初対面の女性相手に、ここまで正直に答える必要はないのだろう。けれどどうしてか彼の口からはなめらかに少年時代の話が滑り落ちた。女性は黙って聞いていたが、やがてまじまじとこちらの顔を見つめてくる。


 「もしかして、孝雄君?」


近くに寄ってきて初めて、彼女の灰色の瞳が見えた。同時に、正に今話していた彼女と目の前の女性がダブって見える。


 「しの……さん?」

 「そう、しの……私、紫乃よ! 凄い、会えるなんて思わなかった」


まじまじと顔を見れば面影はあったが、弾けるような笑顔はどちらかと言えばはーちゃんを彷彿とさせた。


 「変わりましたね、その、凄く綺麗だ」


彼は精いっぱいの思いで純粋な感想を述べた。紫乃は一瞬目をぱちくりとさせ、すぐに頬を桃色に染めた。


 「ありがとう。孝雄君は、あまり変わってないね、近くで見たらすぐに分かったわ」


確かに成長したとはいえ、昔から顔つきは大きく変わっていない。しかしどうせならかっこよくなったと言われたかったのだが、現実はそうはうまくいかないものだ。


 「今日は、どうしてここへ?」

 「久しぶりに日本に来たから、昔好きだったこの家がどうなっているか見に来たの。でも、紫陽花はなくなってしまったのね……」


彼女は心底残念そうに殺風景な庭を見つめてため息を吐いた。悲し気な様子に孝雄は何か元気づけられないかと頭を捻り、数年前に母が何かのついでのようにした話を思い出した。


 「うちの家の紫陽花は、隣から貰った枝を育てたものだそうです。良かったら、見に来ませんか」


これはある意味デートの誘いになってしまうのだろうか。庭とは言え家に誘うだなんて、初対面のようなものなのに大胆過ぎただろうか。そんな戸惑いは杞憂とばかりに、彼女は沈んだ表情を再び明るくした。


 「本当に? いいの?」


彼女は嬉しそうに万歳の形で傘を真上に伸ばし、すぐに手元に戻して照れくさそうに笑った。その仕草が出会った時のはーちゃんのようで、やはり姉妹なのだなと今更ながらに思い出す。


 「勿論、いいですよ」


あの紫陽花の前でなら、あの頃のように緊張感なく話せるだろうか。彼は嬉しさと緊張を抱えたまま、数十メートル先の門前を目指す。紫陽花の咲く頃に、彼と彼女は喜びの再会を果たした。



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