第3話① 紫陽花の咲く頃に
毎年6月の終わり頃、孝雄の家の隣にある真っ白な家に、不思議な一家がやってくる。
彼らは庭に植えたピンクや青の紫陽花が色とりどりに咲く様を楽しみに、この時期を心待ちにしているそうだ。
孝雄はそんな風変りな彼らが理解できない。外で遊べないこの梅雨の時期が、彼は一年で何より嫌いだった。母親に渡された透明な傘も、身体を覆うまっ黄色のレインコートも、兄のお下がりでぶかぶかの長靴も、どれも心をささくれ立たせるだけだった。
「ちぇ、今日も雨かぁ」
朝起きてすぐに聞こえてくる雨音に、思わず窓の外を睨みつける。視線の先では雨の中を笑顔で駆け回る女の子たちがいた。隣の家の姉妹だ。下は幼稚園、上は孝雄と同じ小学校低学年といった所だろうか。何がそんなに楽しいのか、コロコロとした笑い声が家の中まで聞こえてきて、彼は思わず頭を振った。
「たかおー、さっさとご飯食べちゃいな、遅刻するよ!」
「わかってるよ、今行くから!」
大声で自分を呼ぶ母親の声に返事をしながら、そういえば彼女たちは学校に行かないのだろうかとふと不思議に思った。
小学校からの帰り道、孝雄は道にできた水たまりに順に飛び移りながら、のんびりと家までの道を歩いていた。これをやるとレインコートの中のズボンまで水が飛んで汚れるため母親が怒るのだが、友達と分かれ道で全員いなくなった後の道のりを黙々と歩くのは嫌だった。
これは仕方のない事なんだ。最近覚えた父親の口癖を真似て、彼は小さく笑いながらばちゃばちゃと裾を汚した。
「だあれ?」
水たまりを追いかけるのに夢中になりすぎて、彼はいつの間にか自宅の門前を通り過ぎ、隣の家の前に立っていた。幼い声を掛けられ、はっとそちらを見れば、おかっぱ姿の女の子が首を傾げながら目を真ん丸にしてこちらを見ていた。首の傾きと同時に身体まで傾き、持っていた傘からぼたぼたと雨が滑り落ちる。
「隣ん家の孝雄だよ、お前は?」
「はーちゃんはね、はーちゃんだよ!」
その自称はーちゃんはぱっと笑顔を輝かせて答えた。その際に両手をばっと広げたために、手にした傘を放り投げてしまった。途端に強い雨が彼女の全身を濡らしていき、孝雄は慌てて自分の傘の中に入れてやった。
「あーあ、びしょ濡れだ」
仕方なく柄の濡れたピンク色の傘を拾い上げるが、はーちゃんは気にした様子もなく、相変わらずニコニコと笑っている。
「たっくん、お家いこ、いこ」
「たっくんって俺のこと? うわ、引っ張るなよ」
突然家に招かれ腕をぐいぐいと引かれていく。けれど玄関口まで近づいた時、庭の奥から姉らしき少女が現れた。
「誰?」
黒い前髪をピンで止め、紫陽花柄の大きな傘を差した彼女は訝し気な表情で孝雄を睨みつける。しかし妹が彼の腕をがっしり掴んでいるのを見つけ、小さく頭を振ってため息を吐く。
「妹がごめん。もう行って大丈夫だから」
「いやー! たっくんははーちゃんと一緒に遊ぶのよ!」
「我儘言わないの!」
姉は怒って腕から妹の手を引きはがそうとするが、彼女は腕にしっかりと巻き付き、見た目からは想像出来ないほどの力で強力にしがみついている。
「あの、俺別に暇だからいいよ」
今日は夕方に見たいテレビもない。家に帰ればやれ宿題をやれ晩御飯の手伝いをしろと母親が煩いだろう。何より服を汚した罰で拳骨を食らうかもしれない。それを考えれば、少しでも外で遊んでいたい気持ちが強かった。
しかし姉の方はどうにか孝雄を帰したかったらしい。妹と彼の様子に、諦めさせるのは困難だと見て、今度は大きなため息をついた。
「家の中には入れられないんだけど」
「その方がいいよ。お人形さん遊びとかは流石に嫌だけど」
雨降りとは言え、外で遊ぶ方が100倍良い。
「そういえば、お前はどこの学校いってんの?」
「しの」
しの小なんて名前の学校がこの辺りにあっただろうか。孝雄は覚えのない名前に首を傾げた。
「お前じゃない、しの」
「しのって名前かよ!」
無駄に考えたと脱力する。
「学校は、行ってない」
「え? そんなのアリなのか?」
「家で勉強してる」
ふうん、と孝雄は再度首を傾げる。子供は皆学校に行くものだとどこかで聞いた気がしたのだが、そういうものだろうか。
「ここの家に住んでるのか?」
当たり前のように庭で遊んでいるのだから間違いはないのだろうが、毎年ほんの二か月程しか訪れない家族が心底奇妙だったのだ。
「今だけね。いつもは違う」
「お前ん家、変だよなー」
思ったままの素直に感想。言葉少なな彼女が一瞬怒りだすかと思ってちらりと視線を向けるが、しのは曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
雨の中で出来る遊びは少ない。一体庭で何をして遊んでいるのか。孝雄は再び庭に駆け出す二人を追ったものの、その疑問を抱えたままだった。家の前面にある庭の外周を囲む紫陽花の木に駆け寄ると、懐からシャボン玉の液を取り出した。
「雨の日にシャボンなんて、消えちゃうんじゃないか?」
彼女たちの落胆の様を思い描き、孝雄は眉を顰めた。それに対し、しのとはーちゃんは顔を見合わせると、得意げにふふんと鼻を慣らした。おもむろにシャボンの液を付け、ふうっと丁寧に息を吐く。
シャボン玉は思いのほか遠くまで飛んでいき、紫陽花の花々を止まり木にするかのように方々にくっついた。雨に濡れてキラキラと表面が光り輝く様を見て、孝雄の口からすっげえ、と感嘆の息が漏れる。
「やってみる?」
しのがふいに近づき、シャボン液とストローを渡してくる。暗い空で気づかなかった彼女の瞳が少し灰色に見え、不思議な魅力を放っている。
「ええ? でもこれ、お前が口付けたやつじゃん」
いつだったか母が咥えたストローを回し飲みするのを嫌がった兄の姿を思い出す。孝雄自身は別段気にすることはなかったのだが、兄の真似をしたい一心でそういうポーズを取って見せる。しかし予備のストローなどあるはずもなく、正直に言えばかっこつけよりも自分も試してみたいといううずうずの方が勝っていた。
「嫌なの?」
しのは不機嫌さを隠しもせず、中々受け取らない孝雄にイラついた声を出した。彼女はストローがどうこうというよりも、感動の共感を得られなかったのだと思い不満そうだ。
「貸して」
我慢がきかなくなった孝雄は、奪うようにシャボン液を受け取り、すぐに思い切ってストローを咥えた。飴でも舐めていたのだろうか。ストローはほんのりと苺の味がして、彼はしのを見ようとする目線をなけなしのプライドで必死に押さえた。
彼の吹いたシャボン玉は力強く宙を舞い、より遠くの空まで輝きを運んでいった。すごいすごい!というはーちゃんの声に満足し、ようやくしのの方を振り返る。彼女は笑顔を浮かべる訳でもなく、どこかぼんやりと空に立ち昇るシャボンの行き先をずっと見つめていた。
「なあ、また遊びに来ていいか?」
彼女がどこか遠くへ行ってしまいそうで、孝雄は思わず声を掛けた。
「いいよ」
しのはやっと視線を戻し、そしてまた受け取ったシャボンで液でふうっと息を吐いた。三人は飽きる事もなく、液が尽きるまでシャボン玉を紫陽花にくっつけて遊び続けた。
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