第2話②

 「好きだよ。君のお陰で、今日は楽しかったから」


彼女はこの時初めて満面の笑みを浮かべ、私はぽけっとその笑顔を見つめてしまった。彼女はその間に道の曲がり角までたったかと走り、一度だけ振り返った。


 「ありがとう」


何でお礼を言うんだろう。私がその疑問を発する前に彼女は角を曲がって行ってしまった。私は慌てて後を追いかけたが、不思議なことに角の先には彼女の姿はもうなかった。

あれ以来彼女の姿は一度も見かけていない。帰り際に雨が降る度にあの停留所に寄ってみるのだが、毎度不発に終わる。その内私は大人になって、一日限りのあの日のことも忘れてしまい、合羽もどきは押し入れの奥に眠ったままだった。



 「まだあったんだな、これ」


風呂掃除も終わり湯を張っている間に、私は押し入れの探索に向かった。そこには少し色褪せた感じの合羽もどき――いや、今だから分かるが正確には蓑笠だ。それが奥の箱の中に鎮座していた。


 「あの子は結局誰だったんだろう」


子供の頃には少し不思議な子だなとしか思わなかったが、今考えると不思議な点がいくつもある。そうはいっても昔の記憶だから曖昧な事も多い。きっとこの近くに一時期だけ滞在していた子なんだろうという結論しか出なかった。


 「ただいまー!」


蓑笠を抱えてぼんやり物思いに耽っていると、玄関から元気な声が聞こえてきた。もう帰って来たのかとそのまま玄関に向かって息子と顔を合わせてお互い首を傾げた。


 「お前それどうしたんだ?」

 「パパこそ、それ俺のと同じやつ?」


びしょ濡れで帰って来るはずの息子は私の手にあるものとよく似た蓑笠を被っていた。


 「神社に遊びに行ってたらいきなり降って来てさ。住職さんが面白いもんがあるってこれ出してきてさ」


あの変わりものの住職さんか。するとこの蓑笠は住職さんの手作りなのか。


 「あっ、貰っていいって言ってたからな!」


慌てて言い足す息子の姿がおかしくて思わず笑ってしまった。余程前に怒られたのが身にしみているらしい。


 「分かった分かった。ちゃんと住職さんにお礼言ったか?」

 「言ったよ! 大体今日だって掃除手伝ってたんだからな、遊んでたわけじゃないし」


ちらちらと時計を見ている辺り門限が迫っている事に気づいて泡を食って帰って来たらしい。


 「偉いな、流石俺の息子だ。ところで今日は濡れてないみたいだけど久々に一緒に風呂入るか?」

 「えっ、パパと? 仕方ないなー、入ってやるか」


そう言ってはいるが口元が緩んでいる。


 「それで、その蓑笠はどうしたの?」


風呂場に向かいながら息子が興味深々といった様子で聞いて来る。俺はにやりと笑みを浮かべて言ってやった。


 「パパの初恋の相手に貰ったんだ」

 「げーっ、何それ、いくつの時だよ?」

 「お前と同じとしたよ」

 「てことは10才?! ませたガキだったんだなー」

 「言ったなこいつ!」


服を脱ぎながら古い記憶が色彩鮮やかに蘇って来る。あの不思議な女の子とはもう会えないだろうけれど、あの子が変えてくれた雨への想いは今も変わっていない。大切な思い出だ。たまには息子と湯船に浸かりながら、そんな昔話をするのも悪くない。


 「お前、雨は好きか?」 


ふとそんな疑問が口をついた。


 「好きだよ。帰ったらすぐに風呂に入れるから」

 「雨じゃなくて風呂が好きなだけだろうが! 大体濡れて帰ってこないなら沸かす必要はないんだぞ」

 「いいじゃん、パパも風呂好きだろ?」

 「それとこれとは別問題だろう……」


私は溜め息をついて湯船に身を沈めた。これは昔話に合わせて、雨の日の魅力を語らねばならないと密かに決意を固める。


 「あっ、先に入るなよ!」

 「たまには一番風呂を譲ってくれよ。さっさと洗って交代だ」


息子はちぇっと唇を尖らせて洗い始める。やんちゃではあるが素直な子だ。私は息子と自分の同一点を確認して少し満足した気分で目を瞑る。

耳を澄ませば雨の音、瞼の奥には薄れかけた記憶から掘り出したあの子の笑顔が見えるようだった。帰省したらまたあの停留所に行ってみよう。もしまた会えたら、寂れた停留所で止むのを待ってもいいかもしれない。そして今度は私があの子を家まで送るのだ。

記憶にないはずのあの子の困り顔が目に浮かび、私は思わず悪戯が成功した子供のように笑い出したい気分になった。



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